孤島の人権 オウム真理教が起こした一連の事件の被告人に死刑が求刑されたとか判決が出たとかいう新聞記事を目にするたびに、僕は何となくむなしい気持ちになってしまう。それはおそらく、僕たちの価値体系とは違った原理を信じそれに従って行動した人たちを、僕たちの価値体系によって裁くことに何か意味があるのだろうかという疑問と、そしてあのオウム真理教すらこうして刑事裁判というごく制度的な過程を経ることで、多くの人はそれが何か「一段落」でもしたような気分になるのだろうなというウソ寒い思いだろう。僕たちの主体的な精神の危機としてのオウム真理教はまだ何も片づいてはいないのに。 だが、今日書くのはそのことではない。死刑の是非のことでもない。それは、オウム真理教をめぐる人権のことである。彼らが拠点を移転しようとするたびに繰り返される地元の人たちとの衝突。それ自体はまだいい。困るのは地元の自治体が転入届を受理しないことだ。これはいったい法治国家において許されることなのか。居住・移転の自由は基本的人権ではないのか。どこの自治体も転入届を受理してくれなければ彼らはどこに住めばいいというのか。 オウムを摘発するときに繰り返された微罪逮捕・拘留もきわどかった。あれほどあからさまな別件逮捕や組織つぶしもないだろうと思ったが、当時その手法を弾劾する論調はほとんど見当たらなかったように思う。それどころかその是非に言及する者すらなかったか、あっても相手がオウムなんだから仕方ないとでもいったような調子のものばかりだったのではないか。 もちろん僕だって近所にオウムの道場ができると知ったらそれを阻止しようとするだろう。微罪逮捕もあの環境ではやむを得ない緊急避難だったのかもしれない。だから社会の一方に、どんなやり方でもいいから害をなす者は駆逐すべしという意見があるのも当たり前だと思うし、現実に治安を守り平穏な生活を保障すべき国家権力があらゆる手段を使ってそれを弾圧したこと自体は疑いもなく正しかった。だけど、僕が恐ろしいと思うのは、ふだん人権を擁護するのに熱心な人たちがこうした社会防衛的な一方の極からの動きに対してほとんど沈黙してしまい、その手続き的ないい加減さやそれがいくつかの大切な原則をないがしろにしていることへの有効な異議申立が何も聞こえてこなかったことなのだ。 あからさまな犯罪人の「人権」をときにはヒステリックなまでに賞揚し、死刑の執行を違法だと言い募る人たちが、こうした「権力の横暴」に対して沈黙してしまうのはなぜか。相手がオウムなら国家権力による弾圧も許されるのか。人権とか自由というものはそんなに都合のいい、便宜的なものだったのか。 人権というのは人間が生まれながらに持っている権利だというのは大ウソだ。人権というのはすぐれて技術的な概念なのだ。だって考えてみればいい、孤島で一人生活するのに「言論・出版の自由」が必要か。「健康で文化的な最低限の生活を営む権利」に何か意味があるか。「人権」とは、たくさんの人が寄り集まって生活するとき、それがむき出しの力の衝突にならないよう利害を調整する上で原則として尊重するべきだとして長い歴史の中で認められてきたルールの集積に他ならない。 こうした人権概念の相対性を認識できず、それが何かオートマチックに尊い教義のようなものだと思っていると、オウムのようにその人権や自由が依って立つ近代市民社会概念そのものから逸脱した存在に直面したとき、そこにその教義をどのように適用してよいのか分からなくなって黙りこむしかなくなるのだ。そしてそのような人権や自由といった概念の本質に対する無理解が、結局足許の人権や自由を少しずつ切り崩して行くのだ。 人権も自由ももともとは社会的で技術的な概念だ。だからこそそれは常に試され、検討され、護り育てられなければならない。そんなことも理解できずに事実の大きさや重さの前に容易に口をつぐんでしまう人たちに人権や自由を口にする資格などないのだというのは確かなことだ。 1999-2003 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |