logo 子供たちに気をつけろ(2)


「セレクション」では残念ながらボツにした「子供たちに気をつけろ」の続編。 本編では小学生を殺してその首を中学校の校門の前に置いた神戸の「酒鬼薔薇事件」について書いたのだが、ここではその後に起こった教師の刺殺事件をテーマに、おもに「キレる」ことについて書いている。(2001.6.10)


「今、子供たちに何が起こっているのか」というのは、レトリックであるにせよあまりにのんきな言いぐさではないか。問題は「今、我々に何が起こっているのか」ということのはずだ。子供たちは僕たちの社会を映す鏡に過ぎない。そこでは僕たちの抱える問題がデフォルメされて演じられているだけなのだ。

中学一年生が授業に遅れてきたことを注意されて教師を刺し殺した。簡単に「キレて」しまう子供たち。途方に暮れる大人たち。だが「キレて」しまうことにそれほど深い理由がある訳ではない。それは単に我慢ができないというだけのことであり、我慢ができないのはそこに我慢に値するだけのものが何も見出せないからに他ならない。

毎日の生活の中で、僕たちは実にさまざまなことに我慢している。その中にはやむを得ないものもあれば理不尽なものもある。しかし僕たちはそれに耐えきれずに「キレた」時に負わねばならない不利益と、それを我慢したときに得られるメリットとを常に比較しているのだ。もちろん激昂のあまり後先考えず瞬間的に「キレる」ということはないではない。しかしそれもふだんからそのような比較衡量を積み重ねて形成された人格における瞬間的な判断である。

子供の場合はそうした人格形成が不完全であることと、比較衡量における社会性の重みが少ないことから、大人に比べて簡単に「キレる」ようになっているのだろうと思う。しかしながら社会が全体として「キレ」やすくなっていることは紛れもない事実であり、そのことは、くだらないことにいちいち我慢しているくらいなら「キレた」方がましだ、我慢していても結局いいことなんて何もないじゃないかという考えが、僕たちの社会に広がりつつあることの現れではないだろうか。

その考えはある意味でとても正しい。くだらないことに我慢ばかりしていても、もはやいいことなんてほとんど残されていないのだ。それなら一時的ではあるにせよ「キレて」すっきりした方が得なのかもしれない。だが「キレて」みたって結局いいことなんか何もないことに変わりはない。それに僕には一応まだ守るべきものも少しはある。だから僕は今のところまだ「キレ」ない。でもそれだけだ。明日は分からない。

いいことなんか何もない社会を作ったのはいったいだれだ。それは僕たちに他ならない。僕たちはせっせといいことなんか何もない社会を作り上げてきたのだ。だれも責任を取ろうとしない、無責任でいた方が楽で得をする社会だ。そんなところでだれが我慢をするか。眉をひそめて「最近の子供は怖い、分からない」とテレビに見入っているあなたのことであり僕のことだ。

ある評論家が、民主主義が経済の効率化に及ぼす影響について、「民主主義の初期には、それは社会の活性化を通じて経済の効率化に寄与するが、社会が成熟するにつれて、そこでは民主主義という名のたかりが起こるようになる」と述べていた。国とは所詮国民の総体でしかないのに、それを忘れて国に何かをしてもらうことしか期待しない人たち、何かあるとすぐに国は何をしているのかという人たち、国の責任を問うと息巻く人たち、国の責任とはあなたの、僕の責任に他ならないということを彼らは分かっているのか。

そうした人まかせの無責任体制こそが、「キレた」方が手っ取り早い社会を作ってきたのではなかったか。我慢するだけ無駄、我慢するだけ損のブチ切れ社会を作ってきたのではなかったか。それを棚に上げて「今、子供たちに何が起こっているのか」はないだろうと僕は思う。これで国の教育政策がどうとかバカなことをいうヤツがいたら(いるだろうけど)僕はブチ切れるぞ。



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