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ネタはいろいろあるのになかなかうまく書けなかったので、まとめてやっつけたお徳用のコラムである。この中でも「ハラワタを抜かれるのはごめんだ」と「権力を信じるな」は1本のコラムにする値打ちがあったと思う。「権力を信じるな」は大学生がペルーの密林を「冒険」中に国境監視所の兵士に殺害され所持品を奪われた事件とそれに対する反応に関して書いたもの。(2001.6.10)


1.アメリカはおかしいんじゃないか

アメリカがまたおかしなことになっている。大統領の偽証強要疑惑、追及する独立検察官、美貌の元実習生、これは架空のゲームの一コマじゃない。おかげでドルは週末を越えて下落したし、トレジャリー・ボンドも値を下げた。大統領は事態の打開を図るためにイラクを再び攻撃するとも言われている。

これは何なのだ。今や世界で唯一の超大国は、いったいどういう原理で動いているのだ。アメリカは病んでいる。O・J・シンプソン事件でそれはよく分かった。声の大きいペテン師たちが極めて個人的な野心だけを動因に、メディアを使ってアメリカという広大な国を、いや時として世界中を引っかき回している。

少し前には幼児期に虐待を受けた子供の心の歪みが長じて問題を引き起こすという分析が流行った。最近では分析医が患者と一緒になって架空の虐待歴をでっち上げ、両親を訴えたりすることが逆に問題になっているという。そしてそれを防衛するために親たちは保険に加入するのだとか。もうこの国は僕の理解を超えている。

2.ハラワタを抜かれるのはごめんだ

日本では臓器の提供を前提とする場合だけ、脳死での摘出が認められている。しかしそれは決して「脳死」と判定された人間がもはや「生き返る」ことはないと実証されたということでも、あるいはそう措定してよいという社会的合意が得られたということでもない。その辺は議論もあって難しいからちょっとおいといて、取りあえず臓器が欲しかったら脳死で持って行ってもいいことにしようというだけの話である。

そんな場当たり的でご都合主義的な話があるか。移植を待つ人の悲痛かつ切羽詰まった思いにはもちろん同情する。しかし彼らの生命が重要であるのと同様にドナーの生命も重要なのだ。どうせもうすぐ死ぬからといって、その死の判定をあいまいにすること、その生命をまだしばらくは生きられそうな人の生命より軽く扱うことは人間に許されたことではない。そのことは、所詮いずれは間違いなく死に行く運命にある僕たち自身の生命への重大な冒涜に他ならない。

それからもう一つ気になるのは、いずれ、臓器を提供しないことで十分な医療を受けられなくなったり、人非人呼ばわりされたりするような社会になるのではないかという恐怖だ。臓器移植の現場では、ドナーの側の問題意識、利害と、医療を施す側のそれとは最終的に対立せざるを得ない。そこにおいてその二者の利害は果たして公正に調整され得るだろうか。

移植を受ける人のことを強調するあまり、死に瀕した人の尊厳を軽視することがあってはならないし、臓器の需要という社会的関係によって、生命のあり方という本質的な問題が歪められてはならない。僕は今ここで、臓器を提供しない自由が守られるべきことを強く主張しておきたい。

3.参加するだけでは意義がない

オリンピックは参加することに意義があるのか。もちろんそのこと自体を否定はしない。しかしオリンピックはそれ以上に国家というものの程度が問われる重要な舞台である。オリンピックに大選手団を送り、メダルを獲得できるということ、それは国内が安定して国民に広くスポーツが浸透していることや選手強化に相応の費用を投入できる国力があるということの証左に他ならない。だからこそナチスドイツもソ連もオリンピックに入れ込んだのだ。

だから代表選手はオリンピックを個人的に楽しんでもらうだけでは困る。もちろん試合前の緊張を解くために戦術的に自ら楽しもうと言い聞かせることは構わない。しかし国費で強化され、国費で派遣される選手は必然的にそれに見合う期待と責任を負っているのであって、それをまるで修学旅行のように勘違いしてもらっては困るのだ。

アトランタ・オリンピックの時には、水泳の千葉すずが、あまりにメダルのことばかり云々するメディアにブチ切れたことがあった。その気持ちは理解できないでもないが、本当にそういうものに煩わされずに好きなように競技がしたいのなら、強化選手の指定を返上して、自費で練習し、自費で遠征し、個人でオリンピックに参加するしかないだろう。くどいようだが国の文教予算、即ち僕たちの税金から彼らの強化費が支出されているのだ。

僕は自分の物語を生きるのに必死だから、オリンピックのような他人の物語に何事かを投影して楽しむような余裕はない。しかし世の中には自分の物語を生きることをあきらめて、他人の物語に夢を見ている人がたくさんいる。それを僕はいい趣味だとも思わない(むしろゲスな趣味だと思う)が、そういう人たちも(おそらくは)税金を払っている以上、オリンピックで起こるドラマに期待する権利はある。まあオリンピックの間くらい、日本人も国家意識に自覚的であっていいのではないかと思う。

4.権力を信じるな

年初に書きかけてボツにした「個人的な考え」がある。冒険旅行の途中ペルーの密林で殺された大学生のことについてである。そこで僕はこう書いている。

「もちろん、国境監視所の、正規軍の兵士が、部隊ぐるみで通りすがりの外国人を殺害して金目のものを奪うなどということが行われていいわけはない。そのことについて日本はペルーに対して強硬に抗議し、真相の究明と、しかるべき謝罪と賠償を要求しなければならない。保護を受けるべき自国民が、こともあろうに外国において軍人の手で、しかも強盗の目的で殺害されたのである。ゆゆしき国際問題だ。」

先日の朝日新聞「天声人語」でこのことが問題とされていた。橋本首相がペルーにろくに謝罪も要求せず、大学生の準備不足を非難するとはなにごとかということらしい。ペルーのフジモリ大統領に至っては「ペルーが誤解される」と言っていたそうだ。僕は日本政府は当然ペルーに謝罪を要求したか、あるいはペルー側から自発的に謝罪があったのだと思っていた。そんなことは当たり前のことだと思っていたのだ。

しかしそのことは大学生たちの「準備不足」を免罪する言い訳にはならないと思う。天声人語では犯人が軍人だったのだから「準備」など初めから無理だったとの指摘があったが、それは違う。治安の不安定な大部分の国では(あるいは結構安定した国でさえ)、警官や軍人が時として最も危険な人種であるということは常識だ。

「彼らはそこが危険な場所であり、時として官憲すら信用できない国であるということを知っていたのか。そこに国境監視所があり、川を航行するものはそこに立ち寄らなければならないということを知っていたのか。スペイン語で最低限のコミュニケーションがはかれる能力があったのか。そしてそれでもなおそこに行かねばならぬ強い動機があり、そこで起こり得るべき事態は生命の危険も含めて引き受けるだけの最終的な覚悟があったのか。

死人を責めることはたやすいが無益である。だから僕もあまり気分はよくない。しかし彼らはその軽率な行動で多くの人に迷惑をかけた(もちろん僕は例の「世間を騒がせた」とかいう意味不明の「罪」のことを言っているのではない。もっと事実的なことだ)。我が国の外交システムを無益に発動せしめた。それには僕たちの税金がかかっているのだ。それからペルーの国家組織にも打撃を与えた。殺す方が悪いのは自明だが、ペルー人の素朴な感情としては、おめでたい日本人がのこのこやってきて事件の発端になったのだ、迷惑はこっちだと思われても仕方ない部分もあるだろう。

もちろんリスクを恐れていては何も始まらないという言い方もできる。心身に深刻な実害の及ばない範囲で、怖い思い、悔しい思いをすることがいずれ役に立って行くこともあるだろう。しかし殺されてしまっては元も子もないし、自分が引き受けられるリスクの質と量を冷静に見極められてこそ、そのリスクを引き受けるかどうかという判断もできるのだ。そのような個人としてのリスク判断において、僕たちはは一般にまだ甘過ぎる。こうして決定的な事件がいくつか起こっているにもかかわらずだ。そのことを僕は憂慮する。いつかまた同じようなことが起こるだろう」

これも僕が同じ文章に書いていたことだ。



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