logo オアシス・クロス・レビュー


90年代において最も成功したイギリスのバンド、オアシスが、2年以上のインターバルを経てようやく新しいアルバムをリリースした。混迷した時代に、ひたすら切実な「歌」をつむぐことによって奇跡のような信頼を獲得した彼らが、この西暦2000年という未知の時代にどんな音、どんなメロディで対峙するのか、それはロック表現を考えて行く上で、2000年代最初の、あるいは今世紀最後の重要な鍵になって行くはずだ。

今回、このアルバムを迎えるにあたって、同じようにロックに熱い眼差しを注いでいる2つのサイトと共同でクロス・レビューを行うことになった。ひとつはブラーのレビュー対決でもコラボレーションをしたサイト「FREAKSCENE」、もうひとつは鋭い洞察に裏づけられたロック評論を発信し続けるメールマガジン「a solid bond in your heart」。どちらもロックなしには生きられないロック・ジャンキーのサイトだ。

残念ながら僕のサイトではオアシス・レビューの投稿がなかったが(みんな佐野ばっかり聴いてんじゃないの?)、連携サイトの力でクロス・レビューを実現することができた。もちろん僕もレビューを書いている。これを読んで何か言いたくなった人は、今からでもそれを書き送って欲しい。ロックがどこへ向かおうとしているのかを、すべてのロックを愛する人たちと一緒に見極めたい。

So, go now and let it out!!


 
クロス・レビュー 連携サイト紹介

FREAKSCENE
 
KOBさん主宰のサイト。ロックが日常と同じ地平にあることを認識させる力のこもったレビューを展開する。生活の実感に根ざしたロックへの眼差しは、自分でカネを出してCDを買い、仕事や休みをやりくりしてライブに出かけて行く者の視点そのものだ。真のロック評論というのはそういう場所から始まってゆくものだと思う。

a solid bond in your heart
 
兄貴こと近藤彰さん主宰のメールマガジン。世代的な感受性を引き受けた上で確信的なレビューをたたきつける。なんでオレはこの音楽が好きなんだろうというのがロック評論の原点だと思うが、そこがすごくストレートに出ていて思わず回線つないだまま読みふけってしまうところが怖い。貞子と和夫結構好き。同業者らしい。


ぎゃらがあさん


咆哮一発、'Led Zeppelin'を思い起こさせるハードなインストナンバー、(1)'Fucking In The Bushes'でoasisは復活の狼煙を揚げた。
アルバムのリード・シングルにもなった(2)'Go Let It Out!'は少し懐古的であり、ちょっぴりサイケでもあり、またかなりポップな曲。
そして(3)'Who Feels Love?'は今作の方向性を端的に示すサイケデリックな極上バラード。
(4)'Put Your Money Yer Mouth Is'は今作の中では個人的には他の曲に隠れてしまう。悪い曲ではないのだが、繰り返し同じフレーズを用いてること、そして何より他の曲の出来が良すぎるのだと思う。
(5)'Little James'は以前からファンが長く待ち焦がれていたLiamが歌うoasis名義として、初のLiam自らのペンによるバラード・ナンバーで、タイトルが示すように妻Patsyとその息子Jamesに捧げられている。本作中においても他の曲に遜色はない。それに何より、今までの『野生児』といった印象からは想像しがたいLiamの優しいヴォーカルが心を打つ。
Noelが自身のドラッグとの闘いの中で眠れない夜にできたという(6)'Gas Panic'。この曲も(3)同様にこの作品を象徴する曲と言えるだろう。
個人的に本作中でのベストトラックとなる(7)'Where Did It Go Wrong?'はNoelがヴォーカルをとる 少しへヴィーで、少し古典的な極上のロックチューン。
続けてNoelが唄う(8)'Sunday Morning Call'は'Take Me Away'ばりの激甘の珠玉のバラード。Noelが語りかけてくるような錯覚を覚えた。
(9)'I Can See A Liar'は疾走感にあふれるナンバーでNoelは'Sex Pistols'の'Nevermind the Bollocks'に入っていてもおかしくないと語っている。少々、アメリカン・ロック的な面もある気がする。
本作のトリをとる(10)'Roll It Over'は2nd.'(What's The Story) Morning Glory?'収録の'Champagne Supernova'と双璧をなすバラードで実にoasis的な'合唱系'の好ナンバー。
日本盤にはさらにシングル'Go Let It Out!'(輸入盤)から'Let's All Make Believe'が収録されている。
今までのoasisの作品に比べて本作は1度目の感動は薄いかもしれない。しかしながら、繰り返し聴くうちに虜になっていくと思う。'THE BEATLES'と比較され続けてきた彼らだが、本作品はそういった色合いが非常に薄くなってきていてアルバム・タイトルが示すように(Noelは特別意識して付けた訳ではないと語っているが…)'Led Zeppelin'や'Pink Floyd', 'Jimi Hendrix'といったロックの先人達にインスパイアーされて生まれてきた作品という感を持つ。商業的にはどうなるかは分からないが、(そんなもんはクソッ喰らえなんだが…)本作は過去3枚のアルバムをも更に凌ぐ、正に20世紀最後を飾る名盤である。
 


のびさん


生まれ変わったオアシス! この待望の新作を聴いてそう思った人は結構いるんじゃないかな。あの圧倒的なまでのメロディーを『ウォール・オブ・ギター・サウンド』で更に破壊力を持たせていた今までの彼らの姿はここにはない。作曲・デモテープ作りに1年近くをかけたおかげか、今までにない綿密なアレンジ、アルバムを支配するサイケデリックな感触は確かにそう思わせるには充分。『ホエア・ディド・イット・オール・ゴー・ロング?』聴いた?それまでやや”筋肉質”だった力強さが”骨太”になった感じ。やっぱしらふになったノエルは違うね。

でもちょっと待って、それでも一貫してこのアルバムを「オアシスだ!」と思わせるものがあるじゃないか!進化、そして深化していくサウンドのなかで今までの彼らと生まれ変わった彼らを結びつける一本道、そう、リアムの声だよ!
アルバムのサイケデリアを決定的なものとする『フー・フィールズ・ラヴ?』。過剰とも言えるヴォーカル・エフェクトを掻き分けるリアムの存在感!並のヴォーカリストだったらサウンドに埋もれてまるで楽器の様に響くに違いないよ。ともすれば趣味的になりがちなアレンジの中でも必死に抗するあの声がオアシスの力強さの秘密だと思えない?この最新型のオアシス・ナンバーは”一流のコンポーザー&アレンジャーvs一流のヴォーカリスト”という今までにない図式で展開されていると僕には思える。

冒頭で書いたようにオアシスがこのアルバムで本当に生まれ変わったんだとしたら、それは今まで「巨大化」という方向に一致していた兄弟2人のパワーがそれぞれ別の方向に動き始めたというところにあるんじゃないか?ただノエルの方が少しだけそのことに自覚的で、スタートダッシュが早かったようだけどね(初のリアム曲「リトル・ジェームス」、このあまりにも素敵なメロディーはノエルによって若干大袈裟なアレンジを施されたようだ。ここでのリアムは珍しく少し遠慮がちに思える)。

「あいつはすぐぶうぶう不平を言う傾向があって、自分の思い通りにするまで不平を言うのをやめないんだ」とはリアムを評してノエルが言った一言。いやー、この2人の絶妙なバランスの上にオアシスって成り立ってるんじゃないかな、とくにこのアルバムに関しては。音楽的に貪欲になったノエル、どんな状況でも”俺節”にしてしまうリアム、この緊張感をサウンドに刻みつけるのが”第2期オアシス”の使命でしょう。

ゴシップのネタを提供しつづけた彼らの兄弟喧嘩が、オアシスの新たなる推進力になるんだったら、このバンドは恐ろしいことにまだまだ「巨大化」して行くに違いない。
 


かめさん


ここ数年のイギリスのミュージックシーンは、非常に保守的なものになっているように思える。保守的なバンドしかいないと言う程ではないのだが、メロディ・メイカー誌の読者投票で上位に選出されたステレオフォニックス、シャーラタンズ、スーパーグラスのような音がシーンの主流を占め、彼らのようなバンドが雨後のタケノコのようにデビューし続ける状況が保守的でなくて何なのだろう。彼らの鳴らす音が、音楽性として非常に高いものを持っているとは思うのだが、ポップ・ミュージックというものが、巨大なセールスをあげながら時代を反映し、時代を動かしながら進化を遂げていくもの(だからこそ、シリアスなポップ・ミュージックである「ロック」というものはリアルであるし、それが僕がロックをリアルに感じる理由でもある)だと考えている僕にとっては、この保守的状況は好ましいものではない。ロックが保守に向かってしまうとき、そして保守的なロックだけが多数のリスナーに受け入れられる事になったとき、50年前の若者たちにとって、リアルなポップ・ミュージックだったジャズのような末路を辿ってしまう事になるかもしれない。プライマルの新作とは、こうした堅苦しい状況に裂け目を刻もうとした悲鳴であり、だからこそあれだけ僕たちの心を鷲づかみにする事ができたのだ。そのプライマルの新作発表後、1ヶ月を経てオアシスの新作が到着した。オアシスの音を耳にした事があるロックファンなら、ここまでこの文章を読んで、僕が何を言いたいのかお分かりだと思う。そう、オアシスこそがイギリスのロックの保守性の象徴とも言うべき存在なのだ。大体自分自身が「俺達はビートルズになる」とか言ってるし、歌詞の内容も大して深いことは無い。「歌詞なんかねーからくれ」とまで言ってるらしい。自分で自分の保守性を認めているようなものだ。オアシスは僕にとって、「保守性の象徴」という意味においては最大の敵なのである。

しかし、それでも僕の耳はオアシスの音を追い求めている。いや、僕だけではない。世界中の音楽ファンはオアシスの音を必要としている。世界中でこれほどの成功を手中にしているバンドは、殆ど類を見ない。ただ、オアシスほどのセールスはあげていないにしても、彼らのように世界中で何年間も人気を保っているアーティストは幾つかある。それは、僕のフェイバリットのナイン・インチ・ネイルズであったり、プライマルであったり、ベックであったりする。度重なるサウンド革命・世界的成功・大衆性の全てを獲得し続けている彼ら(特にNIN)は、ポップミュージックの世界における理想的存在とも言う事ができるだろう。彼らの登場はこの時代において必然的な事であるし、だからこそ強い同時代性を獲得する事ができているのである。しかし、オアシスはどうだろう。シンプルでオールド・ファッションドなサウンドメイキングに歌を乗せているだけ。所謂「時代の音」なんてものは鳴らしていない。NIN達とは、全く正反対の事をやっている。そうとはいえ、そこで「オアシスに同時代性なんて存在しない。ただの古めかしい音」などと言う批判はどうかと思う。ここで問うべきなのは、彼らのシンプルかつオールド・ファッションドな楽曲がこれほどの同時代性を獲得する事ができた理由である。シンプルさ・古めかしさと同時代性。一見相反するもののようだ。多くの人は「オアシスの成功は偶然に過ぎない」「ギャラガー兄弟のキャラが一般大衆に受けた」と言うかもしれない。だが、僕はこう断言しよう。オアシスは、その美しいメロディと古めかしいシンプルなアレンジだけで、十分に同時代性を獲得しているのである。それでは、オアシスの歌に込められた同時代性について焦点を当ててみよう。

オアシスのライブについて語られるとき、よく取り上げられる「合唱」というものがある。"ROLL WITH IT"の4曲目・95年グラストンベリーの"LIVE FOREVER"などを聴くと分かるのだが、ライブやビデオなどでも聴いたことが無いような無い大合唱が巻き起こっているのだ。サビの部分だけではない。冒頭からリアムと共にオーディエンスが大声で歌い上げている。こんなことはプロ野球の試合でもないと体験出来ない類のものだ。この「合唱」が、僕以外にもいろいろな人が言うように、オアシスを語る上でのキーワードになっていると思う。合唱。皆で一緒に歌うこと。それが、オアシスの同時代性の中核になっているのではなかろうか。先に述べたように、オアシスが登場し、快進撃を続けたのは「グランジ以後」の時代だ。ニルヴァーナという極大のフラストレーションを爆発させたバンドが道を切り開き、グランジ・バンドが巷に溢れた時代。グランジの絶望から身を守るためのブリット・ポップが花を咲かせた時代。ニルヴァーナから始まった絶望の為に、グランジというムーヴメントの大噴火の為に、ロックリスナーが自らの絶望・自らの個と向き合わねばならなくなった時代である。カート・コバーンの死とはその絶望のどうしようもない深さを告げていたし、そうだからこそ、現在のロックというものが絶望と対決せざるを得ないのだ。この対決無しには、当然ながら、ロックをシリアスな同時代的ポップ表現と呼ぶ事は出来ない。また、ただただ同じ絶望を歌い継いでいくだけでは何も変わらないし、何よりロックの歌うべきシリアスなテーマが、ニルヴァーナが叫んだ絶望ただ一つと成り果てたのでは、ロック本来の商業性すら失いかねなくなるからである。そして、そんなシーンの中に我らがオアシスもいるのだ。それでは、この「グランジ以後」の世界において、オアシスの「合唱」が同時代的な有効性を持ち得たのは何故か。それは、オアシスがグランジによって徹底的に個と向き合わねばならなくなったロックに対するカウンターとして機能したからである。つまり、個体として互いに分離していたリスナーの欠落部分を埋め合わせるのに、オアシスの「共有」が最大の機能性を示したのである。だからこそ、あのような「ビートルズ的」なレトロな歌が、ギャラガー兄弟という唯一無比のコンビの手によって、同時代的な存在たり得るわけだ。しかも、それはブリット・ポップというムーヴメントの一端としてと言うよりも、オアシスという唯一無比の存在によって為されたために、一過性の現象に留まらずに、熱狂的に受け入れられ続けているのである。オアシスという巨大な才能の登場は偶然であったかもしれないが、彼らがこの時代に僕らの胸を打つのは必然なのだ。

オアシスの新作"STANDING ON THE SHOLDER OF GIANTS"は、生来のソングライティングの素晴らしさを、豊潤なダイナミズムによって引き出す事に成功した傑作だ。オアシスがこうして(保守的サウンドであるにも関わらず、自身にとって)新境地へと踏み出したのは、ロック・スターが収めた大成功によって生じる責任にたいして、ようやく回答を出す事ができたということだろう。オアシスはオアシスを超えていく事でしかポップ・ミュージックの先鋒としての責任を担う事はできないのだから、こうして自らのレベルを高め、歌の純度を増していこうとするだけでも良いのだ。「マンネリ作」と評された前作"BE HERE NOW"ではそれが上手く出来ていなかったように思われたのだが、本作にはその責任を担う覚悟が顕著に表れている。僕はそれがたまらなく嬉しいのだ。何故なら、「オアシスはまだまだ時代の希望として、多くの音楽ファンの連帯の象徴として、リアリティを放ちつづける事が出来る」、そう確信したからである。2000年以後も、オアシスからは目が離せない。
 


まさっちさん


自分の中でOASISは重要な位置にいるグループの一つだと思う。デビュー曲「SUPERSONIC」から聴き続けているし、アルバムはもちろん、シングルも欠かさずチェックし彼等のリリースした全曲をフォローしているように思う。

しかしながら熱心に聴いていたのは『(WHAT'S THE STORY)MORNING GLORY?』迄だった。正確に言うとシングル「SOME MIGHT SAY」迄で、『MORNING GLORY』は『DEFINITELY MAYBE』程聴いてはいない。それは何故か?

OASISの魅力としてライヴで会場全員の大合唱を誘発する位の分かりやすいメロディがある。1回聴いただけで誰でも一緒に歌えてしまう、そのキャッチーなメロディこそ最大のOASISの武器にして多くのファンを魅了してきた要因だろう。80年代末から90年代前半にかけて顕著に見られた「ロッククラシックへの原点回帰」の志向。その一方でアーティストに寄せられる今日的なジャンルの多様化、ミクスチャ化等による「新しい手段・可能性」の期待。「オルタナティブ」とも言われたアンダーグラウンドレベルでのロックミュージック底上げの動きはMTV全盛、ハリウッド的大業かつ大消費エンターテイメント主流の80年代ロックと比較しても刺激に満ちたものであったと同時に、「90年代的」な斬新なるものを求められる難解で苦悩に満ちた内容だったとも言える。そこでOASISが圧倒的に支持されたのは、誰もが意固地になって「90年代的新機軸」を追求して頭でっかちになっていた時に、徹底的シンプルでストレートな音楽表現をやってしまったことが大きい。「コロンブスの卵」的発想というか、リスナーサイドとしてOASISの登場は、「こういうスカッとしたのを聴きたかったんだよ!」と何も考えず手放しで喜べるものだった。こういう支持の受け方はある意味70年代末のロンドンパンクに酷似しているとも思えるし、それ故にファンの大きな共有に繋がったとも言えるのだ。マンチェスタームーブメント以降、熱気が沈静化していたUKロックに「OASISあり!」と大々的に盛り上がったのは言うまでもない。

しかしその分かりやすいが故に、メロディやアレンジに飽きが早く来てしまう。聴き初めの盛り上がり方が嘘のように熱気が覚めてしまう感があるのだ。『DEFINITELY MAYBE』は狂ったように聴きまくったのに、『BE HERE NOW』に至っては数える程しか聴かなかったかも知れない。NOEL GALLAGHERのソングライティング力は絶大なる支持を集めているが、結局のところは「コロンブスの卵」。「こんなメロディどうやったら思いつくんだ?」という巧みなものではなく、誰もがやりたくてもやらなかった単純明快さ、歌詞の韻の踏み方からして悩んだところが感じられない、鼻歌に近い感覚、これが僕のNOELのソングライティングの感想だ。またそれが良いともいえるのだが…。アレンジ面においてはあから様なクラシックロックの引用に過剰なストリングス等、耳障りに思えて聴いていて辛い。OASISにXTCやELVIS COSTELLOのような「職人気質」作風を求めるのは無意味と充分承知だが…。ならばOASISに何を求めているのか?

マンネリを感じるとはいえ、メロディのシンプルさはやはりOASISの武器だ、このままでOK。問題はOASIS本人、そして聴き手に蔓延している「UKロックの救世主としてのOASIS」という認識だ。アルバムやシングルを出す度に「歴史に名を残す傑作」という言葉が踊る現状。そんなに凄いことをやってきたグループだったのか?自分が思うに分かりやすいメロディをLIAM GALLAGHERが馬鹿デカイ声で歌って、ドカドカうるさいバンドサウンドでガツンと聴かせていただけのだ。それが只抜群にカッコよかった訳で、堅苦しいこと抜きにして誰でも楽しめるグループだった訳だ。そういうことである意味RAMONESと同じだと思っていたし、下手な小細工なしにやっていってもらいたかったのだ。DAVID BOWIEのように絶えず変化し続けるアーティストもいるが、アーティストサイドに器用さ、時代を読み取る鋭さ、そして変化を自分に吸収する柔軟さが備わっていないと違和感を残したまま消えてしまう恐れがある。僕にはOASISにそんな器用さを感じられないのだ。OASISに期待される「今日的可能性」、そもそもそんなものを無視して登場してきたのがOASISだったというのに…。結局のところ、この「使命感」にウンザリしてきたのだろう。

さて新作『STANDING ON THE SHOULDER OF GIANTS』はどうだったか?メロディはキャッチー、LIAMも相変わらず良い。しかし全体的に「使命」を引きずったままだ。「FUCKIN' IN THE BUSHES」は猛々しいドラムで始まる実にグルーヴィでOASISで新境地のインストナンバーだが、正直THE CHARLATANSのCHEMICAL BROTHERSミックスの二番煎じ的で中途半端な感が拭えない。ストリングスのゴージャスさは失せて骨太なバンドサウンドは強調されているのは好感が持てるのだが、ゴスペル風の女性コーラス導入は不似合いに思える。SMALL FACESとのセッションも有名なPP.ARNOLD、フリーソウル界では名の知れたLINDA LEWISの起用には驚きを隠せないが、PAUL WELLERを目指そうとしているのか?どこか背伸びをして、大きく魅せようとしているところが不満だ。「PUT YER MONEY WHERE YER MOUTH IS?」「GAS PANIC!」「SUNDAY MORNING CALL」等、歴代のOASISソングに負けない好曲も揃っているし、LIAMが初めて書いた曲「LITTLE JAMES」も予想以上にOASISにフィットしているし、日本盤にはボーナストラックに収録されている「LET'S ALL MAKE BELIEVE」は本編から漏れたのが不思議なくらい素晴らしい曲といえる。問題は、OASISのベーシックなところにブラックミュージック的エッセンスが感じられないが故だと思うのだが、今作のグルーヴィなサウンドアプローチが少々OASISには荷が重いというところにあると思う。サンプリングの使い方も浮いてしまっているし、NOELがどんなに「グルーヴ感あるだろ?」と言っても濃慣れていないのは確かなのだ。

どんなに文句を垂れてもOASISに引き止められてきたのはシンプルなメロディとLIAMの声。今のところ正直これだけで良い。だからまだOASISを諦められないのも事実だ。 まるで変化を認めないかのように思われそうだが、新加入の二人が本格始動する次回作からこそ「新しいOASIS」を期待してみたい。NOEL主導だったOASISがソングライティングもこなす二人によってどんな変貌を遂げるか?それからでも新機軸は遅くない。『STANDING ON THE SHOULDER OF GIANTS』でやったことはOASISでは新しくても、今日的は使い古された手法、だからこそでは直球勝負をして欲しかった。今や世界的に熱烈な支持を集めるOASIS、その期待の大きさが今作の不完全燃焼状態の原因に繋がったと思えて仕方がない。
 


光さん


オアシス。その名前はもちろん知ってはいたが、フルアルバムでは一度も聴いた事はなかった。カーラジオからよく流れていた少し前の一曲をかろうじて今思い出せるくらいである。

噂は知っていた。ビートルズの再来とか何とか。よくブラーと比べられてはいなかっただろうか? 私はブラーはおろか、ここ十年程の洋楽はほとんど何も聴いていない状態なので、どのバンドに関しても興味はなかったのだが、この二つのバンドの名前はよく耳にしたし、目にした。一体どれほどの音楽を奏でるのか?

もう私は大人になってしまった。商売用の音楽はもう必要としないし、体を動かしてくれる「音」はあっても、うまくその気にさせてくれる「ROCK」はもう無くなってしまったのだ。だが・・・。

「ROCK」はつまるところ結局は、徒手空拳で生きていかざるを得ない大多数の生活者にとっての、「武器」になり得るかどうかだ。言葉が翻訳されなければならない洋楽の場合、「音」だけが重要だ。「武器」に、過去や歴史は関係ない。「ROCK」は即時性が一番重要なんだ。

そんな事を思いながら、久しぶりに「聴く気」でセットしてみた。

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1.これは何だかどこかで聴いた事があるリフだな。
しかし、ギターフレーズもバッキングヴォーカルの入りも
古いやり方だな。巨人たちの肩に立ってるって、こういう事かね?
オープニングにはふさわしいとは思うけど。
2.入りはいいね。
しかし、ヴォーカルの声はいいね。
できそうで、できない声の出し方だな。
だけどメロディはありきたりだし、アレンジもやっぱり古い。
ドラムのスネアの音の出し方くらいかな、面白いのは。
3.つまりは、遠くを見てると言うよりも、遠くしか見る事ができない
って感じなのかね。今は。4作目って書いてあるけど、
そういう時期ではあるんだろうな。けど、退屈だな。
中盤はビートルズそのままだし、レノンそのままじゃないか。

曲の印象はもうやめとこう。

この後、AC/DC、ニールヤングなんかの印象を受ける曲もあったけど、結局オアシスというバンドの事はわからずじまいだった。誰が曲を書いてるのだろう? メロディがとにかく面白くないよ。アレンジのアイデアも何もない。聴く人に影響を与えたい、というものが何もない。自分たちの為だけに音を出している、といった印象だなァ。セッションアルバムだな。これは。もちろん、どんな作品でも体験が増えれば、一度目以上の何かがあるのは間違いないだろうけど、やっぱり「ショッパナ」に何か感じないと「武器」にはならないだろうと思うんだよな。

というわけで、オアシス初体験はオアシスというバンドの「演奏」を聴いてみた、といった感じでした。

ところで、「オアシス」というバンド名はいいのだろうか? 私の場合、バンドの名前というのは結構重要にしてるのですが、「オアシス」って微妙な感じです。
 


KOBさん


 とてつもないプレッシャーに苛まれたことはあるだろうか?これを絶対成功させなければいけない。そんな局面に出会うことがあるだろうか。仕事上でそんな局面を迎えた時の自分を思い返してみる。周囲の期待と圧力と緊張で、ことごとく自滅してしまう自分の姿ばかりがフラッシュバックして、ロクなもんじゃない。でも、彼らはガシッとやり遂げて見せてくれた。レベルが違いすぎて比較するのもおかしいかも知れないが、このアルバムはそういうことだ。作品云々を語り始める前に、巨大な成功のあとの憂鬱から、見事に帰還して見せたオアシスには拍手を送りたい。

フル・ヴォリュームで降臨した重戦車アルバム"BE HERE NOW"は、その意志の不透明さとメロディの後退をコテンパンに言われ(僕は結構気に入ってるんだが…)、ワールド・ツアーはなんだか空回り。日本なんて、武道館3デイズ・オンリー。何だよそれ?そしてそのライヴ・レヴューは読むもの全て、「魔法は解けてしまった」っていうトーンで戸惑いばかりが鬱積している状態。当然本人たちも自覚的で、「(あの時は)病んでいた」というノエルの告白が鮮烈に物語る。これまで「絶対負けない」存在だったオアシス。でも、本当はそんなもんはありませんよ、全て幻なんですよ。そう、「魔法は解けて」しまっていい。そこからオアシスはまた走り始めたのだから。デビュー以来破竹の快進撃を続け、いつの間にか大きな十字架を背負い込まされる羽目になった彼らは、ここからまた、身軽になって進んでいこうとしている。そしてそれこそがオアシスの底力だ。変な例えかもしれないが、ここまで超重量級のトレーラーで走ってきた彼らは、遂に海の見える場所まで来た。ここから船出なんだ!!その船出を高らかに、だけど、ちょっと思慮深く祝福するのが今回のアルバムの位置付けだと思っている。

初っ端のインストは別段新しくも何ともないのだが、なぜに僕らの心を昂ぶらせるのか?そう、続く"GO LET IT OUT!"のイントロで、全てが分かる。ぶきっちょなサンプリングと前面に出てくるメロトロンの柔らかな和音、程よい饒舌さを保ったギター。しかし、やっぱりメロディがど真ん中をぶち抜いて緩やかに駆け上がっていく姿は紛れもなくオアシス!!結局のところ、器用でもなんでもないのだが、それは全く違和感のないもんだ。"WHO FEELS LOVE?"でのリアムは全くもってジョン・レノンを連想させるが、もっと太く、もっと伸びやかに、その天から授かった声を十二分に生かしている。ゆったりして、ちょっぴりサイケだがどうしようもなくシングアロングな構成は、ここでもオアシスならでは、を痛感させる。オアシス史上初のリアムズ・ソング"LITTLE JAMES"はアルバム中で一番ビートルズ色の濃いものだが、非常に洗練された仕上がりだ。ノエルが歌えるように、リアムが書けるとなると、また持ち札が増えてしまうわけだ。いや、書くっていう面に関していうと、新メンバーであるゲム、アンディだって力持ってるだろうから、どんな札の増え方か、もうよく分からんという状態(笑)。"GAS PANIC!"(今のとこ一番気に入ってる)はまさに"BE HERE NOW"後の憂鬱の中でノエルが襲われた不安が描写されるという、オアシスとしては異例の題材を扱う。もう自分たちをむやみに強がったりしない。"I NEED TO BE MYSELF."というオアシスの原点は、少し形を変えはしたが、ここに完璧に守られている。ノエルが歌う2曲は、これまでのオアシスの路線を踏襲する素晴らしいメロディが全開のナンバー。ラストの"ROLL IT OVER"はこれでもかっつーほど装飾してあるが、結構地味に響く。その分、ジワーッと何かが広がってくるようだ。そうそう、ボーナス・トラック"LET'S ALL MAKE BELIEVE"についても触れておかねばならないだろう。なんでこんなセンチメンタルで泣けるのをアルバムから外すんだ??と思うくらいだ。が、そういやかの"ROCKIN' CHAIR"をアルバムに収録しなかったような奴らなので、あんまり取り沙汰しても仕方ない気がしてきた。いや、むしろこいつがシングルのカップリングだとしたら(実際外国盤はそうだったのだが)、オアシスのシングルはすげえ!!っていう感覚が久々に復活してくる。

まあ、こうして収録曲を大まかになぞってみると、物凄い野心があるわけでもなく、かと言ってこれまでのオアシスとは一味違うのだがやっぱりオアシス、という、微妙な感じではある。ただアルバム全体のムードはこれまでになく優しく、柔らかく、ちょっとうつむいたり、ちょっと弾けたり、と多彩な表情を見せるようになってきたとも言える。それに、リアムの怒号はドッシリと太くなり、ノエルの紡ぎだすメロディは少し陰影が深くなってきたが、健在だった。 オアシスはここから行く。自分を、自分たちを正視できるようになり、行き先を見誤ることはないだろう。僕は僕を正視しようとして、目を覆いたくなるようなことばかりだが、このアルバムを聴いて、やはり今一度、そんな底力を、そんな真っ直ぐな姿勢を、奪還しなくてはならない。それこそがオアシスが僕らにもたらす正のフィードバックって奴だ。

蛇足だが、オアシスの現在の状態を把握する際に、確かにこのアルバムは非常に重要なのだが、それは全てではない。彼らのライヴを観て、一緒に歌って、それを強く感じた。今の彼らの状態の良さはあのステージに全部、叩きつけられているのだから(この辺りはライヴ・レヴューを参考にしてください)。逆に言えば、今のオアシスというバンドを語るにはライヴという要素が不可欠ではないか、とさえ思う。
 


Silverboy


いうまでもなく、僕たちの日常はクソだ。僕は大学生の頃完全な夜型の生活を送っていたので、会社に入って毎日6時だの7時だのに起きなければならないようになったときには、独身寮に鳴り響く道上洋三の「さわやかな」ラジオ放送に殺意さえ抱いたものだ。上司に行きたくもないカラオケに引っ張られて夜中まで帰らせてもらえなかったのに後日料金の分担を請求されたときも切れそうになった。毎日会社へ行くのが本当にイヤで、「マジカントへ行きたい」とつぶやきながら近道の公園を横切って砂を蹴りながら駅まで歩いたこともあった。最近はそんなダイレクトな「イヤ」な感じはさすがに少なくなったが、僕の日常がクソであることには今も変わりはない。仮に僕が何かの間違いで人生の成功者になっても僕の日常はおそらくクソであり続けるだろう。なぜなら生き続けるということ自体が初めっからクソだから。Oh! My Big Brother!!

どこまで行ってもクソな日常、クソな人生。いいだろう。でも、いや、だからこそ、僕にはロックが必要なのだ。クソったれな日常を今ここでけとばす力が僕には必要だ。何の根本的な解決にならなくてもいい。今ここで、僕がここにいることを自分自身に納得させることが必要だ。僕はかつてオアシスについてこう書いた。「彼らが身をもって示しているのは、日常の閉塞を打ち破る力は日常の向こうにしかあり得ないということだ。嫌いなものを呪文ひとつで消し去るのではなく、嫌いなものと対決し続ける中である日奇跡のような勝利が訪れること。ロックン・ロールのマジックは、そうした営為の中にしか存在し得ない」と。クソにまみれた日常から、一足飛びにウソみたいなパラダイスを夢見るのではなく、クソにまみれた日常の中で今まで見たこともなかったような光を一瞬目にすること、その残像を網膜に焼きつけること、奇跡というのはそういうふうに訪れるものだ。

いうまでもなくオアシスはクソのような日常と徹底して寄り添い、その場所からありふれた歌を歌うことで地平の彼方に奇跡のような光を見ようとしてきたバンドだ。彼らの歌には何の音楽的な革新性もなかった。しかし彼らがあまりにストレートであまりに分かりやすい歌を歌うとき、その強さと近さが僕たちのクソのような日常と確かに呼応したのだったし、僕たちは僕たちと同じクソ溜めで奇跡のようなメロディを歌い続けるそのバンドに信頼したのだった。

オアシスの新譜「Standing On The Shoulder Of Giants」。僕たちはここでそんな光を目にすることができるだろうか。このアルバムで彼らが言おうとしているのは、スターダムにのし上がってクスリ食って女食ってもそれはやっぱり日常だったしそれはやっぱりクソだったよ、オレたちはどこまで行ってもクソから逃れられないんだよ、ということに他ならない。前作「Be Here Now」を僕は決して駄作だとは思わないが、そこでのオアシスは確かに風呂敷を広げすぎた感があった。そこには、もしかしたらオレたちはあの失業手当とお友達のクソみたいな日常とおさらばできたんじゃないかという切ない喜びのようなものが、彼らをいたずらに壮大でエラそうなロック・シンフォニーに導いたのだが、そこには僕たちの日常と呼応するクソの香りが希薄だった。多くの人があのアルバムに強い共感を持つことができないのはそのせいだと僕は思う。

しかし今作でオアシスは、たとえ失業保険とおさらばしたところで日常はどこまでも追いかけてくるということの認識を歌っている。だからオレたちはオレたちの日常について、つまりクソの香りについて歌うしかないのだと。だが、日常性の地平にとどまりながら、そこで同じようにありふれた、しかしそれでいて「新しい歌」を歌い続けることは至難の業だ。手を変え品を変えて持ちネタを使い回すだけではアーティストは容易に消費されてしまう。だが今作でオアシスはあえてその場所からどんな「新しい歌」を歌えるのかというテーマに正面から取り組む道を選んだ。もちろんその挑戦は十分に結実したとは言い難いかもしれない。退屈な曲もある。少なくとも耳に残るフックとか思わず歌ってしまうメロディという意味では前作にも増して地味な印象を残すアルバムだ。

だがそんなことはどうでもいい。今回は中期ビートルズのフレイバーだって? そんなこともどうでもいい。重要なのはここでオアシスがクソのような日常性の香ぐわしさを再発見したこと、そしてそこで自分たちの表現を更新しようと再びあがいていること。そういう現実的な基盤にきちんと接地した曲は必ず歌われるし残って行く。個々の曲を細かくレビューする体力はないけど、「WHO FEELS LOVE?」なんか高く買えると思う。今作はオアシスがバンドとして基盤にすべきものと更新されるべきものを初めて自覚的に選び取った重要なアルバムとして記憶されるだろう。クソのような日常をこそ愛すべき。僕はそんなクソのような日常を少しだけ愛せるようになったと思う。
 



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