logo THE SONGWRITERS 2nd Season Vol.1 / Vol.2 桜井和寿


Mr.Childrenといえば、今、日本で最も人気のあるバンドの一つと言っていいだろう。そのフロントマンであり、ソングライターでもある桜井和寿が、この番組の第2期最初のゲストになった。

僕はこの人たちの音楽をきちんと聴いたことがない。テレビ番組で流れる曲や、だれかが僕のクルマに持ち込んだCDから流れる曲を何となく耳にするだけだ。もちろんそれでも有名な曲のいくつかは自然に記憶に残っている訳だが、曲名も分からず、何を歌っているかを真面目に考えたこともなかった。そんな状態でこの番組を見た。

最も興味深かったのは、桜井が、歌詞、言葉以前に音があると述べた部分だ。メロディに内在する言葉を、デタラメでも、意味をなさなくても構わないから、まず発声してみることから始まるという彼の方法論は、番組の序盤でも語られていたし、後半でも「意味なんかなくてもいいと思っている」という発言で改めて確認されていた。

それは、僕が、この人の歌を聴いたときに桑田佳祐との相似を思い浮かべたこととも通底しているように思われる。桑田も曲を書くときにはまずデタラメな英語で適当に歌うことから始めているのではなかったか。そこには、歌詞とか言葉よりも、音としてのボーカル、サウンドとしての声の機能を優先するソングライティングのスタイルがあると言っていいだろう。

桜井もまた、内発的な叫び、まだ言葉を知らない赤ん坊が何かを求めて絞り出すような声、音そのものの持つ力に信頼して曲を書いているのではないだろうか。時として速射砲のように繰り出される言葉は、敢えてその言葉が持つ意味、その言葉固有のスピードを超えて、ただ発せられた「音塊」としての原初的で呪術的な力を獲得しているのではないだろうか。

ところが、僕が桜井の作品を聴いていて残念に思うのは、その原初の叫び、プライマル・スクリームが、ポップ・ソングというフォーマットに成形される課程で整理され、意味を与えられてしまうことである。そして、そのように意味をなす言葉を紡ぐことにおいて、僕は桜井はまだまだ試行錯誤を繰り返しているのではないかと僕は思っている。

それは彼の歌が、殊更に何か大きなもの、普遍的な真実について歌おうとしているように思われるからである。桜井自身も、個人のこと、ここだけのことを歌っていたくないという意味のことを語っていた。もちろんそれは、私小説的な、だれとも分け合えないような個的な感情に沈潜することは避けたいという意味でもあろうが、桜井には、それを意識するとき、逆に社会的なもの、状況的なものに過剰にコミットしようとする傾向があるのではないだろうか。この日、サンプルとして示されたいくつかの作品を聴きながら、僕はそのようなことを考えた。

言うまでもないことだが、普遍性というのは普遍的な作品を書こうと考えて獲得できるものではない。それは、ただ作り手の意識がどれだけ我々の存在の深いところまで降りて行ったかということによってのみ立ち現れるものであると僕は思う。他愛ないラブソングの中にも普遍性はあるし、逆に一面的で薄っぺらいポリティカル・ソングは数えきれない。桜井の詩作の中には、何か力の入ったもの、いいことを書こうとして作為的になっている部分が目につくことがあるように思われる。

もう一つ興味深かったのは、桜井が、アーティストとしての影響力に縛られたくないと発言していたことだ。自分に影響力があることを意識しながら、そのことと表現の間にある極めて深刻な軋轢を相克することは実際容易なことではないだろう。「だれか第三者のために曲を書いているのではない」という桜井の発言はその覚悟を示すものであり、彼らのファンにとっては重要なステートメントではなかったか。

桜井が佐野や学生の質問に真摯に答えようとしていたことが印象的だった。彼らの作品はこなれきってしまわないところに特徴があると思っているが、それは桜井のこうした不器用で誠実な人柄から来ているのかもしれないと思った。



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