logo THE SONGWRITERS VOL.3 / VOL.4 さだまさし


前回の小田和正に続いて、さだまさしもまた僕が高校生だった頃にひとつの人気のピークを迎えたフォーク歌手である。多くのフォーク歌手が所詮は雰囲気に過ぎない情緒を単純なコード進行と4度と7度の抜けた鼻歌メロディで「作品」に仕立て上げる中で、さだは比較的高い文学的な教養と音楽的な素養に裏打ちされた物語を相応の「歌」として発表していた。同時代のフォーク歌手の中で比較的才能のある存在であったことは間違いないと思う。

しかし、僕はさだの音楽をきちんとしたアルバムなどで聴いたことはない。当時ヒットしていたシングル曲をFMラジオなどで聴いていた程度だ。それがなぜかを自分できちんと検証したことはなかったが、今回の番組を見てそれが少し分かったような気がする。おそらくそれは、さだの書く曲が僕には技巧的であり職業的であるように思えたからではなかっただろうか。

今回の番組の中で、さだが会場の学生のひとりを指名し、その学生の体験をもとに曲の歌い出しのフレーズ、曲の断片を試作してみるワークショップがあった。学生の語るナマの体験から曲になり得るフレーズを抽出し、純化し、試行錯誤しながらメロディに乗せて「曲」と呼ぶに値するものに仕上げて行くプロセスは確かにスリリングであり、それで何十年もメシを食ってきたプロの仕事としての迫力を感じさせた。

特に、さだがさまざまな可能性の中から最終的に曲として残す表現を取捨選択する方法論は実に興味深かった。ありきたりな表現を巧みに避けながら、色、匂い、温度感などを手がかりに風景を丁寧に喚起して行く手法はさだのソングライティングの核心でもあるだろう。短いワークショップの中で、そのような職業上の大事なノウハウの一端を分かりやすく示し、まさに「歌ができて行く」瞬間を会場の学生や視聴者に追体験させたことは評価できる。

しかし、このワークショップはさだのソングライティングの限界をも同時に示していたのではないだろうか。さだは空の色を形容する表現を探る中で、「青い空」だけはやめよう、と学生に語りかけた。それはイージーなステロタイプに依拠することを戒めるものであり、その結果、学生とさだは「グレープフルーツの色をした空」という表現にたどり着いた。

さだはおそらく、さまざまな表現の可能性の中から、そのように手垢のつかない新鮮な表現を選び取り、リスナーの予期しない「ツボ」を突いて感情を呼び起こしながら物語をドライブして行くのだろう。だが、それは時としてリスナーの「泣き」の「ツボ」を意図的に刺激することで安っぽい「感動もの」に堕するリスクを常に孕んでいる。僕がさだの方法論を技巧的、職業的であると感じるのはそういうところである。

例えば、さだは「青い空」という表現をステロタイプであるとして忌避した。しかし――これは何度も書いたことだが――例えば佐野は『SOMEDAY』の中で、「まどころがつかめるその時まで」と歌った。手垢にまみれ、もはやポップソングの領域ではだれも顧みなかった「まごころ」というような「ベタ」な語彙を、佐野は言葉と、メロディと、アレンジと、演奏という曲全体の中で生き返らせ、そこに新しいイノセンスを吹き込んで流通させた。ソングライターとしてやるべきことはむしろ言葉の強さに信頼することであり、決して言葉の焼畑農業をすることではないと僕は思うし、そうした佐野とさだの資質の違いを確認する意味でこの番組は極めて興味深かった。

最後に付け加えるとすれば、さだの、いかにもテレビ慣れした場の仕切りには正直辟易した。佐野と学生の自律的なリズムに任せることで番組はほぼ問題なく進行したものと思うが、「この場ではオレだけが玄人」的な自意識と作為は、この番組のストレートでシンプルな雰囲気と明らかにミスマッチであり、いかにも「ギョーカイ」的で、全体の流れを阻害していた。それが残念であった。



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