silverboy club presents disc review
my shopping bag feb-mar 1999 domestic




THE BRILLIANT GREEN The Brilliant Green

確かに時折おっと思わせるようなメロディの展開を見せるし、筋のいい洋楽をきちんと聴いてきた者にしか出せないようなギターの鳴らし方をする。シングル曲に少しキャッチーなリフレインがあるだけで売れてしまうのももっともな整い方でしかも時代性もあるが、いかんせんあまりにも凡庸ではないか。凡庸という言い方が悪ければこれは本当に空虚だ。それは例えばスーパーカーが天真爛漫に抱え込んでいる空虚やミッシェルが憎悪をこめて焼きつくそうとしている空虚とはまったく別の種類のものだ。

ここにあるのは単純な気分に過ぎない。それはすべての確信という確信がどこまで行っても嘘でしかあり得ない現代にあって、そんな嘘臭い確信よりは気分の方が結局百倍だってリアルなのだという認識ではなく、そうした時代の諸相にもともと無自覚な場所で何となく漂う雰囲気、ムードのようなものでしかない。だからこのバンドが音楽を奏で終わり、CDを止めた後に残るものはまったく見事なほどの空白でしかない、はずだった。

だが、それをかろうじて救っているのは言うまでもなく川瀬智子のボーカルに他ならない。暑苦しい女の情念をむき出しにして聴くものを辟易させる「女性アーティスト」が跳梁する最近のシーンにおいて、川瀬の無機的な不安定さ、不機嫌さは特筆されるべきだ。ロックが何かをキックするための音楽である以上、そこではむき出しの母性は不要であるばかりか有害であり、そういう意味で包容力や母性よりは危うい少女性を基盤にしている川瀬の存在は貴重。その川瀬の危うさを買うが、このバンドが何らかの意味で成長したり進歩することがあるのかどうか疑問。5点でいいや。


JUMP UP Supercar

スーパーカーは自由なんだ。「洋楽」に古臭い郷愁を感じてるようなオヤジどもにジーザス&メリー・チェインだのマイ・ブラディ・バレンタインだのといった「術語」を使って語られるのはごめんなんだ。そうだろう、だって、例えば「My Girl」はギター・ポップでもなんでもないただのラブ・ソングだけど、それはもはやスーパーカーでしかあり得ないかけがえのなさを獲得している。そんなふうにスーパーカーは自由で、一秒毎にスーパーカーそのものになり続けている。今、この瞬間も。

以前僕はスーパーカーの本質のことを「嘘をつきたい自分がいるのならその気持ちを偽らずに嘘をつくような、そんな逆説的な意味あいの『正直さ』」だと書いたことがある。自分の世代意識、自分の音楽の聴き方、自分のハッピーやアンハッピー、そうした現代社会の子供としての本当に「正直」な気持ち(それを「純粋」とは僕は決して呼ばないけど)を無防備なままポーンと投げ出してくる潔さ、だってこれ以外に何も歌うべきことなんてありはしないのだから。彼らにとっても、そして僕にとっても。

石渡淳治の書く歌詞のことについて、僕は今まで言及することを避けてきた。なぜなら僕にとってスーパーカーとは決して歌詞ではなく、音であり声であり、その隙間から聞こえる歌詞が時折突然意味を持つ瞬間であったから。それはつまり、歌詞が総体としてどうかという種類のものでなく、言葉遊びとしか思えないフレーズの一部がいきなりすべてを解体するような強力な異化作用を持つ面白さだ。でも今回の歌詞はちょっとそれを意識しすぎじゃないかな。「『若い世代に愛なんてない。』そんな毎日を笑う。」はもちろん秀逸だけど。限りなく9点に近い8点。


PICADILLY CIRCUS Picadilly Circus

杉真理、松尾清憲、伊豆田洋之、上田雅利等を中心としたスーパー・バンド。音はBOXの延長と言ってしまえばそれまでだが、70年代のブリティッシュ・ロックの良質な部分に対するオマージュでありつつ優秀なオリジナル・ポップでもあるという完成度の高い作品。まあ、曲を書いている人を見ればそんなことは当たり前ではあるのだが。僕としてはやはり杉真理と松尾清憲の曲、声が最も嬉しく、伊豆田洋之は曲、ボーカルともにのっぺり甘すぎてノー・サンキュー。

だが、僕はこのプロジェクトを手放しで持ち上げることに大きなためらいを感じる。それは杉がオリジナル・アルバムを作らなくなって仲良し村のような場所へと引っ込んでしまい、ポップ・ミュージックの現在と関わり続けようとする努力を放棄してしまったようにしか見えなかったからだ。今回のプロジェクトも、今のシーン、今のリスナーとどういう緊張関係に立つのかまったくはっきりしない。意地悪く言えばこれはディナー・ショー的な予定調和に終始した手慰みでしかないのではないのか。

ポップは楽しければいい、これを喜んで聴いてくれる人がいるのだからそれでいいという言い方もできるかもしれない。だが、僕は杉真理がテクノ・ポップに席巻された80年代始めのシーンで懸命にマージー・ビートを伝えようと闘い続けたことを知っている。その時彼が取り組んだ音は今回と同様に決して時代の最先端ではなかったにも関わらず、そこにはポップの最前線と切り結んでいるのだという彼の強い意志、当事者意識があったし、それが彼の作品を輝かせていたのだ。今、作品の質、方向性は似ていてもそのコミットメントは天と地ほど違う。5点。


L Original Love

メジャー・デビューしてからこっち、オリジナル・ラブというか田島貴男は長い間自家中毒のような状態にあったと思う。もちろんその才能は万人の認めるところであり、天才少年と呼ばれたインディペンデント、ピチカート・ファイブ時代から、今作に至るまで、彼の作る曲、アルバムはどれも余人には成し遂げ得ない高い水準を保っていたと思う。しかし僕はそこに田島が本当のところ何をやりたいのか、何をたたきつけたいのかという表現衝動の核のようなものを見ることはできなかった。

それがますます曖昧になったのは、沖縄音楽を初めとする民族音楽的なアプローチに走ったここ数年である。僕はもちろん周縁や辺境にもそれぞれの宝や真実があると思うが、周縁や辺境にこそ宝が、真実があると見るのは極めて不健全である。そしてそのような見方を自らの表現に持ち込もうとするとき、そこには必ず収奪的なニュアンスが生まれる。なぜなら周縁の宝は周縁にあってこそ宝であり得るという相対的な眼差しがそこには決定的に欠けているからだ。ロックは都市の音楽なのだ。

今作でも田島の才能は健在だが、その才能がどこに向かうのか、田島貴男という男がその才能をもって吐き出さねばならないものとはいったい何かという問題には残念ながらやはり答えが出されていないように思う。そのような巨大な才能を抱え込んだ表現者というテーマそのものが田島貴男の表現だという言い方をするしかないのだとしたらそれはちょっと痛ましすぎる。才能のとんがり具合がかなり前向きに出ている点ででき自体は悪くないが、フラストレーションは今回もたまる一方。7点。


GEAR BLUES Thee Michelle Gun Elephant

このアルバムについてはディスク・レビューの本体の方に書いたのでそっちを参照して欲しいんだけど、確実なことはとにかくかっこいいということ、でも彼らの突き進んでいる道がすごく困難などん詰まりだということだ。奇跡が必要だ。さもないとこの無茶苦茶な時代とミッシェルは心中することになるぞ。そういう確信犯としてのミッシェルももちろん僕は支持するけどね。


SHINY, WINDY-DAY Roboshop Mania
SMILE & SHINE Roboshop Mania

夏休みは8月31日に終わる。終わるからこそ夏休みなんだし僕たちは成長して行ける。そしてやがてみんな夏休みを持たない大人になる。それが分かっていたからこそフリッパーズ・ギターはすごい勢いでシーンを駆け抜け、ネオアコ少年にはストレートに愛しにくい「ヘッド博士」を作って行方をくらましてしまった訳だ。彼らはきちんと自分の手で彼ら自身の夏休みを終わらせたってこと。それは正しい。圧倒的にね。

でも、時折こう思うことはない? 「海へ」や「カメラ」みたいなのもっと作って欲しかったなあって。僕はある。9月になってもこっそり夏休みに遊んだ秘密基地を見に行くように。夏休みが終わるってことはだれもが知ってることなんだから、だからこそいいだろう、たまには「もし夏休みが終わらなかったら」なんて空想してみても。ロボショップ・マニア、そんな終わらない夏休みと最高のカップリングのバンド。

例えばデ・ジャ・ブみたいにしか存在しない架空の洋楽のパクリというのは矛盾した言い方? でも、ちょっと前にもどこかに書いた通り、そんな幸せな夏休みの記憶そのものがどっちみちどこにも存在しなかった架空のものなんだから、そのための音楽がまた架空のものであって悪いはずがない。「恐るべき子供たち」って言葉をちょっと思い出した。次は冬休みでもいい。どうせ架空の幸せな記憶なんていくつでもあるんだから。8点はちょっとためらうが7点じゃ低すぎ?


FM/CM Cornelius

99EP スピッツ
CASH & MODEL GUN The Collectors



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