スタイルはメディアである。テクノロジーの力を借りれば一人でどんなオーケストラでも再現できる、楽器ができる必要すらなく音楽を作り出すことができる、そんな、もはや無限と言っても差し支えないくらい何でもありの現代という環境にあって、どのような楽器を手にし、どのようなスタイルを選び取ってみせるかというそのこと自体が何よりも表現の不可欠な一部になりつつあるということに、いまや無関心なアーティストはないと言っていい。
ディランが初めてエレキ・ギターを手にしたときでさえ、そのことは既に明白なことだった。だが、このベル&セバスチャンについて、そのフォーク的なたたずまいそのものについての言及はあっても、8人ものメンバーを集めてわざわざこの世紀末にこの音を鳴らす確信犯的な態度の批評性、現代性について指摘したものは少ないと思う。そこにはこの何でもありの時代にまだ鳴らされていない音、まだ歌われていない歌を探す最も先鋭的な問題意識があるというのに。
音楽的には初期のエブリシング・バット・ザ・ガールを彷彿させるアコースティック・サウンドと初期スミスのスカスカなリズムとノスタルジックなポップ感が混じりあったような非常に聴きやすいつくりだが、今、この音を選んだ彼らにはスタイルに対する明らかな自覚がある。いつの間にか終わりかけている90年代を総括し、ポップ・ミュージックの泉から冷たい水を汲み出して見せる新しいマジックの誕生。スタイルはメディアである。そしてもちろん、メディアはメッセージである。9点。
ダンス・ミュージックとロックが接する境界領域というのは確かに存在するし、ロックがダンス・ミュージックの直接性、肉体性を導入することである種の停滞をロール・オーバーできたことも事実だろう。だけど僕はプロパーのダンス・ミュージックを聴かない。今から新しく手を広げることへの時間的・精神的なキャパシティの問題を別にすれば、それはやはり機能を中心に制作される音楽を部屋で聴くことの退屈さがその理由なのだと思う。
僕のようにクラブ・カルチャーやレイブ・カルチャーにファミリアーでない在宅リスナーにとって、ロックのように作り手や聞き手のむき出しの精神のありようが入りこみにくいダンス・ミュージックは、敢えて聴き始め、そして聴き通すことにエネルギーの必要な難敵なのだ。だから、ロック側からのアプローチには反応できても、完全にフロアに行っちゃってる機能性ダンス・ミュージックそのものには食指が動かない。
このバンドはそうした意味でプロパーのダンス・ミュージックではない。そこにはロック的な文脈とか切実な内的必然性とかいう言葉で語られ得るものが確かにある。しかし、僕的に言ってこれはもうぎりぎりの線を越えている。ここに用意されたロック的なモメントをひとつひとつ拾い出していられるほどの余裕は僕にはないのだ。これを聴くならブラック・グレープや「スクリーマデリカ」を聴いていたいというのは反動的? 守備範囲外なので採点せず。出来は悪くない。
ポール・ドレイパーという頭でっかち君が作り上げた壮大な悪夢の世界。一つ一つの曲の断片は非常にレベルの高い構築力を背景にポップとしてのリアルな通用力を備えているのに、それを紡ぎあわせて作り上げられたはずのアルバムのこのバランスの悪さはいったい何なのだろう。遺伝情報を人為的に書き替えてわざとおぞましい奇形を発生させた実験室のカエルのような怪物性と、攻撃的な観念性、あるいは観念的な攻撃性。
そこにはポール・ドレイパーの抑圧されたルサンチマンがあるはずだ。この端正な顔立ちの男がしかしこれほどまでに美しく狂ったアルバムを作り上げたのは、その頭の中に渦巻く観念の怪物から自らを解放するためだったに違いない。それを順序立てて整理し、コンパクトなポップ・アルバムに仕上げることは彼にはできなかったのだ。なぜならそうすることによって彼の妄想は普遍化してしまい、彼自身の切実さが失われてしまうからだ。
僕は彼がここで述べ立ててみせるひとつひとつの稚拙な妄想そのものにはまったく関心がない。僕が興味を持つのは、彼がそうした妄想と向かい合いながら、結果として得体の知れない危険なアルバムを作り上げてしまったそのダイナミズムの方だ。それこそがロックの本質のひとつに他ならない。異常な密度で積み上げられたポップな瞬間が70分間続いて行くので正面から聴くのは恐ろしく疲れるが、繰り返して聴くに十分値するアルバム。8点に近い7点。
クリエーション・レーベルを離れて発表された3年ぶりのアルバム。泣けてきそうなほどの十代の痛さや青さにあふれたメロディをガレージ・パンク系のストレートなロックン・ロールに乗せてこれでもかというくらいたたきつけてくる手法そのものは不変だが、今作ではギターがよりラウドになり、曲の骨格がよりしっかりし、まるで手に取れるのではないかと思うほどくっきりとした輪郭とともに僕たちの日常に迫ってくる。
ロック・ミュージシャンがある特定のやり方でそのリスナーと約束を交わした後、その約束の有効性を絶え間なく更新し続けることは容易な作業ではない。同じものを作り続けるだけでは、その約束はあっという間に陳腐になり、恐ろしいスピードで転がり続ける大衆資本主義に消費されてしまうだろう。彼らは絶え間なく目先を変えて消費のスピードから逃げ続けるか、あるいはそうしたスピードによって消費されないだけの強靭な内実を作り上げるしかないのだ。
ベルベット・クラッシュは、彼らのロックン・ロールの角度を先鋭化させ、研ぎすますことでそうした消費のゲームを生きようとしている。一つ一つのメロディ、リフ、ギターの音に至るまで、それぞれの音楽のパーツの精度を上げ、そしてそれらを統合する力を磨くことで正面突破を図ろうとしているのだ。今作でのその試みは彼らを確実に新たな高みへと導いた。メイン・ストリームの目立つバンドではないけれど、きちんとフォローしたい。8点。
ヨーロッパを旅行していろいろな街へ行くと、美術館に足を踏み入れることが多くなる。もちろん「モナ・リザ」だの「ゲルニカ」だの「ビーナスの誕生」だのといった有名絵画なら見てそれなりの感慨もわくのだが、他に見るところもなく仕方なく入った普通の美術館で見せられるのは9割方が宗教画、それも暗い色調のキリストの磔刑で、美術的、宗教的には重要な作品なのかもしれないが、極東から来たサラリーマンには退屈な世界が延々と展開されていたりする訳である。
NMEが98年のベストに選んだマーキュリー・レブのアルバム。ここには両手を伸ばして真実を探し求める祈りのように厳粛で荘重な音楽がある。だがそれがむき出しのゴスペルのようにエモーショナルに表出せず、ドラマティックではあってもあくまでアップ・トゥ・デートなロックのフォーマットの上で奏でられるところに、このアルバムが98年の作品として評価され得る基礎のようなものがあるのだろう。確かにアルバムとしての完成度は高い。
しかし、この作品に、たまたま足を踏み入れた美術館で見たくもない宗教画を次から次へと見せられているような重さを感じることもまた確かである。軸足は十分ロックのフィールドに残っているし、作りこんでいながら全体としては10曲で45分と無意味な大作主義に陥っていないところが、このアルバムをポップ・アルバムとして成立させている重要なモメントだと思うが、これが1曲平均8分、全体で70分とか言われると限界。僕としては7点。
ハウスマーティンズが解散というか分裂した後、ビューティフル・サウスを結成したポール・ヒートン組と袂を分かち、ビーツ・インターナショナルと名乗ってダンス・フロアに入っていったのがノーマン・クックだった。そのノーマン・クックが始めた新たなソロ・プロジェクトがこのファットボーイ・スリムである。
当然サンプルありありのダンスものだが、ノーマン・クックのDJ哲学を反映してか、踊れれば何でもよいという機能主義よりは、ダンスを通じてよい音楽を聴いて欲しい、ジャンルは問わないという一種のビート博愛主義のようなものを感じさせる丁寧な作りこみ具合である。このアルバムがメジャー・チャートのトップを独走しているのも何となくうなづける。
ビューティフル・サウスの最新作にはこのノーマン・クックが「リズム・コンサルタント」として参加、そのせいかベース・ラインやリズム・パターンに今までにないグルーブを感じさせる意欲作に仕上がった。僕個人としては守備範囲外の音で採点対象にしないが、ダンス・ミュージックと記名性という微妙な問題を考えるときの指標になり得るアルバムであり、単純に聴いてもそこそこ楽しめる。
一緒に歌えるはっきりとしたメロディ、ビートのしっかりした曲としっとりしたバラードの取り合わせ、ギターを中心にしながら要所にはピアノやストリングスも効果的に取り入れるアレンジ、ロックを僕たちの「歌」として日常と接地させようとする企てが新人とは思えない深みと広がりを持って迫ってくる傑作、ってそれじゃまるっきりオアシスじゃねえかよと言いたくなるくらい、方法論のみならずたたずまいまでも似すぎのエンブレイスのデビュー作である。
もちろんそれはオアシスが再発見した方法論がいまや英ロック界の一つの大きな潮流になりつつあることの証左でもあるし、そうした方法論の内部において何か目新しい個性を求めること自体がもともとある意味での矛盾を含んでいることは承知している。したがって、エンブレイスがオアシスとの差別化を図って行くためには、ひたすらいい曲を書き、アレンジに工夫を凝らし、要は歌そのものとしての通用力を地道に向上して行くしかないのだ。
それはもちろん簡単な作業ではない。しかし、ロックの保守本流を目指そうとすれば、そしてこのモンキー・ビジネスの中で、生き残り、勝ち残って行くためには結局そうやって正攻法でバンドの存在を訴えかけて行くしかない。REMも、U2も、オアシスもみんなそうやって力づくでいくつもの壁をぶち破ってきたのだ。この場所でやって行く意志を明らかにしたことの重要性も含めて破格のデビュー・アルバム。7点でいいかとも思ったが期待をこめて8点をつけておこう。
中堅バンドの貫禄さえ出てきたシェド・セブンのサード・アルバム。もともときちんとした曲作りと王道を外さないアレンジで正統派ギター・ロックの道を歩んではいるものの、シーンで大きな存在感を示すことも少なく、どちらかと言えば地味な扱いに甘んじてきたバンドだが、おそらくはその間にも地道にロードをこなし、着実にバンドとしての力をつけてきていたのだろう。見違えるほどしっかりした骨組みと豊かな肉づきを持った力作に仕上がった。
ここに新しいものはない。しかし多様に枝分かれし、他のジャンルとの交配を繰り返し、時に原型とは似ても似つかない進化を遂げている現代のロック表現にあって、それでもその底辺を支え、その直接性を保障しているのは結局こうした正統派のロックなのだということを認識させるのもまたこういうバンドでありこういうアルバムなのである。僕たちの日常と地続きの場所で鳴っているという実感こそがロックのユース・カルチャーとしての本質に他ならないのだ。
そういう意味でこのアルバムは、ちょっとばかり目立ちたがりの少年が幼い頃からの友達を誘ってバンドを作り、オリジナルを作ってライブをするようになり、メジャーの目にとまってデビューし、シングル、「トップ・オブ・ザ・ポップス」出演、アルバム、ライブ・サーキットというバンドの成長物語のストレートな延長として聴かれ得る。ギター・ロックというフォーマットが西暦2000年を目前にした今でも表現としての重要な有効性を持ち続けていることの確証。8点。
例えば小西康陽がなぜ「女性上位時代」を作ったのか、その行きがかり、ポップ・ライターとしての匿名性への指向とある種の極めてロック的なルサンチマンのせめぎあいのようなもの、さらには彼自身の才能のありようなどを僕は理解することができる。それは「カップルズ」からピチカート・ファイヴを聴いてきた人間にとって、極めて自然で、ある意味で必然的な流れだった。あのアルバムは作られるべくして作られた小西康陽の信仰告白だったのだ。
それはコーネリアスについても同様だ。小山田圭吾があえて典型的な3分間ポップを逸脱して「ファンタズマ」のような重層的な作品を作らなければならなかった理由を僕は理解できる。彼が欧米の市場で受け入れられるためには「ファースト・クエスチョン・アワード」ではなく「ファンタズマ」でなければならなかったという事実もよく分かる。フリッパーズ・ギターの小山田であればこそ、彼は「ファンタズマ」の土俵で勝負せざるを得なかった。
そうした傑作に比べ、このアルバムは僕にはあまりにイージーに聞こえてしまう。言葉の問題もあるのかな。何かとんでもないことが起こりつつある現場に居合わせたような緊張感が真に迫ってこないし、身も蓋もない言い方をすれば少しばかり退屈。イギリス人ってセイント・エティエンヌもそうだけどこういう系統をありがたがる傾向があるのかもしれない。中におっ、これはと思わせる曲もあるがそれが結局一番オーソドックスな歌ものではね。採点せず。
●LADIES AND GENTLEMEN WE ARE FLOATING IN SPACE Spiritualized
「紳士淑女の皆様、私たちは宇宙に浮かんでおります」という宣言で始まる正味70分のサイケデリック・トリップ。フリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」を思い浮かべたのは僕だけだろうか。壮麗なオーケストレーションを動員した音世界の広がりにもかかわらず、その構築美が決してニュー・エイジ的デタッチメントとしてではなく、僕たちのこのクソまみれの世界の日常に訴求してくるコミットメントとして作用している。
よくできた曲、よくできたアルバムというのはこの世の中にたくさん存在する。しかし、その中で僕たちの感情の根っこを直接つかんで揺さぶるような音楽としての力を備えた作品はそれほど多い訳ではない。ノイズ、ガレージからゴスペルまで、雑多な音楽的要素をぶちこみながら、もはやサイケデリックという形容さえ意味を持たないような神なき宗教性とでもいうべきものを獲得したこのアルバムは、90年代後半におけるその数少ない1枚に数えられ得るだろう。
単純なロックン・ロールが僕たちの情動と同期した瞬間に起こる奇跡を僕たちは何度も目にしてきた。この一連のレビューだってそうした瞬間のことを書きとめようとする営為に他ならない。このジェイソン・ピアーズもまたそんなロックの魔法にとりつかれたジャンキーの一人だ。70分通して聴くとさすがに最後の方はしんどくなったりもするが、このアルバムを99年初の今まで聴かなかった自分の不明を恥じる。おこがましいようですが9点をどうぞ。
●BREAKING GOD'S HEART Hefner
これはなかなかのめっけものである。ジャンジャカ鳴るギターとポコポコしたスネアがたたき出すチープなビートにストレンジなボーカルが乗っかって行くひとつの典型ではあるが、そういう方法論をとる優れたバンドの多くがそうであるように、ロックが決して高圧的で特権的な芸術ではなく、僕たちの日常のスピードの中から立ち上がってくるおもちゃとしてのジャンクであることを再認識させる気安さ、キュートさをいっぱいにたたえている。
しかし、ロックが僕たちのおもちゃとしてのジャンクであるということは、それが表現として質の低い自己満足であってよいということではもちろんない。おもちゃとしてのジャンクというのはあくまでその表現が寄って立つ精神的基盤のことであり、そこから生み出される具体的な表現のひとつひとつは、死んでしまった純粋芸術よりはるかに生き生きとした現代性、直接性と、アーチザン的な質の高さを備えていなければならないのだ。
このヘフナーはそういうおもちゃとしてのジャンクであるロックの本質を忠実に受け継ぎながら、ポップなメロディとアレンジの妙で確実に次を展望させるバンドだ。いかにも勢いに任せて作りとばしていそうに見えながら、実際にはおそらく綿密に書きこまれた物語が演奏の隙間から顔をのぞかせる愛すべきアルバム。ギター・ポップを愛するものにとって、21世紀が生きるに値する時代になるべきことを祈るよすがになるアイテムだろう。8点に近い7点。