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LET ME GET BY Tedeschi Trucks Band 8梅

デレク・トラックスとスーザン・テデスキの夫婦を核とした大所帯ブルース・バンドの新しいアルバム。デレク・トラックスはもともとギタリストとして高い評価を受けている人らしく、妻のスーザン・テデスキもブルース・シンガーで、夫婦して重心の低い、ファンダメンタルなブルース・ロックを聴かせる。こういうの聴くと、もうアメリカもイギリスもブルースもロックもどうでもよくなって、取り敢えずこれを聴けという気がしてくる。

こういう系統の音楽の常として、コンパクトなポップ・ソングよりは、ジャム・セッション的な演奏を聴かせる長尺の曲が多く、8分台と7分台の曲がそれぞれ1曲、6分台が3曲となかなかの聴きごたえ。レコーディングもスタジオで一斉に演奏する一発録りらしい。しかし、それをダレることも退屈に流れることもなくがっちりと聴かせるのは、トラックスの抑制的かつオーソドックスでありながら饒舌なギター・プレイに負うところが大きい。

もちろんそれを支えるバンドの確かな演奏、テデスキのエモーショナルだが端整なボーカルの力も大きい。そうしたものが一体となって奏でる音楽の迫力は、確かな構想力、喚起力を具え、ロックという音楽が最初はどこからやってきたのかということを思わずにはいられない。そういう、足腰のしっかりした、安産型かつ多産型のロックだが、例えばアメリカでこれを聴いているのはどういう層の人たちなんだろう。それをちょっと知りたい。

 
K2.0 Kula Shaker 8竹

いや、これはあかん、ここを責められたら弱い。僕は別にインドが好きという訳ではなくというかインド音楽そのものが好きでもないのだが、この、ロックの文脈に収奪的に取りこまれたインド・フレイバーにはとことん弱いのだ。いや、ほんと、こういうのが植民地主義的収奪なのは分かっている。例えば尺八だの笙だの三味線だのが取り入れられたロックとか失笑モノだというのも経験ある。でもインドはダメだ。これには反応してしまう。

その原体験は中期ビートルズなのだと思うのだが、ビヨ〜ンというシタールの無音階的で脱構築的な、西洋人のツボにはまるあのオリエンタルな感じがいい。クリスピアン・ミルズ自身にはたぶん収奪的な意図はないのだろうし、久保田利伸やミック・ハックネルが黒人になりたいのと同じようにインド人になりたいのかもしれないが、それが宿命的に白人的なロックの血と交わるポイントこそがスリリング。純粋なインドでないのがいいのだ。

しかし、このアルバムがいいのはもちろんこれがインド・フレイバーだからというだけではない。どんなにフレイバーがよくても土台になる音楽が適当ならそんなものは初めから聴くに堪えない雑音に過ぎないからだ。ロックとして必要なものを具えているからこそインドとの異文化衝突がインパクトになり得る。例えば冒頭の『INFINITE SUN』の泣くほどカッコいいリフはどうだ。デビュー作の「2.0」を名乗るに足る原点回帰、渾身の一撃。

 
PAINTING WITH Animal Collective 8竹

通勤電車に乗る時に聴き始めたら、会社に着く前に終わってしまった。最も長い曲でも4分台で、全部聴いても42分。この手のサイケデリック系では陶酔感を強調するために曲が長尺になりがちなのに逆らって、この潔さはいい。インタビューを読むと彼ら自身がこだわった点のようだが、疑いもなく正しい判断だ。曲を短くまとめることでビートの密度は高まり、次から次へと展開される曲が逆に極彩色の異世界へのトリップ感を加速する。

パーカッシヴでロックとしては非典型なサイケデリアだが、エクスペリメンタリズムをどんどん突き詰めて行った結果、出来上がった音楽がマチズモの対極とも言える無邪気でオプティミスティックな表現になったのが興味深い。このアルバムを聴いて思い出したのは、かつてNHKの「みんなのうた」で流れていた「コンピューターおばあちゃん」。飛び交う電子音やボーカル・エフェクトは童謡のようにプリミティヴな面白みにあふれている。

すごい高いシーケンサー買ってきたのに、3歳児に「おっちゃんの機械な、おもろい音出るんやで」とビヨヨ〜ンみたいな音を聴かせてるアホなおっさんみたいな微笑ましさというか、これでええんやんという表現に対するオープンな態度が清々しい。世界は困難なものだが、にもかかわらずその根底において肯定すべきであるとでもいったようなすごみのある無邪気さがこのアルバムを童謡の境地に近づけているのだ。何かすごいアルバムだ。

 



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