logo 2014年5・6月の買い物


INDIE CINDY Pixies 7松

23年ぶりのオリジナル・アルバムらしい。ピクシーズといえば80年代から90年代にかけて活躍したアメリカのバンドで、オルタナティブという言葉の先駆けのような存在だと思うが、何がメイン・ストリームで何がオルタナティブかももはや区別できないような2014年に、まさか彼らの新しいアルバムを聴くことになろうとは思ってもみなかった。雑誌で写真を見たが、ブラック・フランシスが当時のままの不細工なデブだったので安心した。

音的には硬質なギター・ロックであるが、インディペンデントとかオルタナティブという言葉から連想する「何を聴かされるか分からない」という凄みのようなものは確実に影をひそめた。代わりに見られるのは「細かいことは取り敢えずどうでもいい」とか「そんな時間はない」という一種の開き直りだ。年を食うと森羅万象すべてをコントロールする訳に行かないことが分かり、何を捨てるかを考え始める。これは切実で切迫した問題だ。

このアルバムが聴くに値するのは、そうした切迫感があるからこそ。だが、それにも増して重要なのは、ブラック・フランシスが今も不細工なデブのままだということ。この音楽は不細工な男が作り、歌ってこそ価値のあるもの。今やデブが似合う正真正銘のおっさんになったブラック・フランシスを見ると、ようやく歳月が彼に追いついたのだと感じる。ピクシーズはアメリカのサンボマスターだとツイートしたが誰もRTしてくれなかった。

 
EVERYDAY ROBOT Albarn Damon 7竹

デーモン・アルバーンの初めてのソロ・アルバムである。アルバーンはブラー以降、ゴリラズを初めとしてさまざまなユニット、コラボレーションなどで活動を続けてきた訳だが、ここへきて逃げの利かないソロ名義でアルバムを作る気になったのはどういう心境の変化なのだろうか。企画モノ的な枠組みの中で相対的に自己を確認しながらペルソナを作り上げる方法論を自ら放棄し、アルバーンはジャケットに無防備な姿すら晒して見せた。

内容的にはエレクトロニカと生ギター、生ピアノが穏やかに共鳴する今時のフォーク・ミュージックというのが最も分かりやすい形容か。ボン・イヴェールやジェイムズ・ブレイクあたりを思い浮かべれば大外れはない。もっとストレートでポップなガチャガチャしたアルバムかとも思っていたが、出来上がってきたのは静謐でたゆたうような、何かをひとつひとつ確かめながら訪ね歩く巡礼のような作品だった。蒸留酒のようなアルバムだ。

おそらくはこれが等身大のデーモン・アルバーンなのだろう。あらゆる前提を取っ払い、自分自身について歌うとすれば、という前提で彼の中から汲み出された水はこんな透き通り方をしていたということなのだろう。よく聴けば、ひとつひとつの曲は曲想もアレンジもバラエティに富んでいるが、アルバム全体のトーンは穏やか。まるで彼の記憶の森に迷いこんだかのような、美しく、哀しく、個人的で率直なアルバムと言っていいだろう。

 
DAYS OF ABANDON The Pains Of Being Pure At Heart 7竹

シューゲイズ・リヴァイヴァル的な文脈(ネオゲイザーなんて呼び名もあったがいったい何を「見つめる」というのだ)で現れたバンドのサード・アルバム。もともとは80年代英系インディ・ポップのあからさまな模倣であり、そのあからさま具合にこそ存在意義のあるバンドだったが、2011年のセカンドではそうしたルーツへの偏愛をベースにしながらも同時代の音楽を鳴らす意思を鮮明にし、それに見合う力量とオリジナリティを示した。

音作りの面ではシューゲイズというよりもより広く80年代英系インディ・ポップ全般を下敷きにし、マイブラよりはジザメリ、その他クリエーション・レーベル周辺でもハウス・オブ・ラブとかジャスミン・ミンクスあたりの、むしろよりオーソドックスなギター・ポップに接近したと言っていい。前作同様、曲作りはしっかりしているし、良質なポップ・ミュージックであることは間違いないし、ルーツへのリスペクトも見間違いようはない。

だが、前作のレビューでも書いた通り、同時代のロックとして勝負するにはこの音楽はナイーヴ過ぎるし、特定の層の特定のノスタルジーを前提にした音楽以上のものと評価するのはまだ時期尚早のように思える。彼ら自身も、「こういうもの」を特に愛好する人たちのニッチなマーケットで商売を続けたい訳ではないだろうし、そのために音楽を開かれたものにしようとする意思は十分窺えるが、超えるべき壁はまだまだ高いと言うべきだ。

 
GHOST STORIES Coldplay 5松

「ロッキングオン」を読んだら、コールドプレイは実はロックではないという結論が出てて、腹を抱えて大笑いすると同時に深く納得した。そうか、これはロックではなかったのだ、クリス・マーティンは初めからロックであることなど目指してもいなかったし望んでもいなかったのだと。だからこそ彼らの音楽はこれほどまでに安定し、調和し、時計のように正確だったのだ。隙間もなく耳障りなノイズもなく母胎のように安らかだったのだ。

「ロックとは何か」というのはある種テクニカルな問いであり、説明概念としていかようにも利用できる便利なロジックだが、今のところ僕が答えとして用意しているのは「ロックとは人の抱える過剰と欠損を表現した音楽だ」というものだ。ただでさえ不完全な人間が、暑苦しい都市環境の中に寄り集まって窮屈な集団生活を行う以上、そこには必然的に過剰や欠損、ささくれが生まれる。ロックとはそうした過剰や欠損をキックする音楽だ。

初期のコールドプレイは、完全な調和を志向しながらも、どこかにさざ波を残してしまう不完全さがあり、それこそが彼らをロックたらしめていた。しかし、彼らにとってそれは不本意なエラーであったらしい。この作品で彼らはそうしたエラーを極限まで排除することに成功している。そうやって出来上がったのは完全なポップ・ミュージックであり、同時に無であった。何度聴いても何も残らない完全に空っぽな音楽。非ロックの極北だ。

 
SEVEN DIALS Roddy Frame 8竹

ネオアコという言葉自体がもはやアレなので口に出さないように気をつけているが、アズテック・カメラとペイル・ファウンテンズには確かに何かがあった。特にアズテック・カメラは僕にとってまだ大学生だった頃の自分の一部分を象徴し、代償するアイコンだ。そこにあったのは、ギターのジャカジャ〜ンというストロークが、回りくどく面倒臭い躊躇とか配慮とか行ったものを乱暴に切り裂く瞬間に見えた、発火の鮮やかさのようなもの。

あれから30年近くが過ぎた。本作はロディ・フレームがソロ名義で発表する4枚目のアルバムになる。最近のソロ・アルバムはフル・アコースティックだったりしてレイド・バックした感が否めなかったが、ここではポップ・ソングというフォーマットを通じて騒々しい日常にコミットする意志を明確にしている。身も蓋もないジャカジャ〜ンは、2010年代にあっても面倒臭い配慮を乱暴に切り裂き、高温の白い発火の瞬間を僕たちは再び見る。

この人にしか書けないような、美しい起伏と慈しみに富んだメロディが曲の骨格をなしているのは疑いようのない事実だが、素晴らしいのはそれを惜しげもなくたたみかけるオープンさ加減。そしてこの人の伸びやかなボーカルの価値、少しばかり鼻にかかったような声の特別な色気は、この機会に明確に指摘しておきたい。アズカメの未発表音源と言っても通用する、世界への清新で真摯な眼差しに貫かれた作品。音楽に愛された男の現在地。

 
LAZARETTO Jack White 7松

僕はブルースという音楽にはまったくカンがないのだが、ジャック・ホワイト関連の音源を聴いていると「ブルースというのはこういうものなのかなあ」と思えてくる。前作のレビューで「胸の中からどうしても流れ出し、あふれ出してくる、ネガティブなものも含めた過剰なナマの感情を、何とか音楽としてプロセスし定着したのがブルース」という仮の定義を与えてみたのだが、ここにはそういう形でブルースに言及したくなる何かがある。

ジミ・ヘンドリックスは「頭の中で鳴ってる音楽を何とか外に汲み出さないと死んでしまう」と言ったといわれるが(ソースを探したが見つからなかった)、僕がジャック・ホワイトの音楽を聴くときに感じるのも、そのような、何か人為的に構築したものではなく、予めどこかに所与のものとしてあった音楽をまるで「汲み出す」ように空気中に解放する内発的なモメントである。優れたブルースマンは音楽的イタコだということなのだろう。

ただ、このアルバムではそうした内発的なモメント、音楽的口寄せとも言うべきインプロヴィゼーションは巧みに商業音楽としてプロセスされ、定着されている。大事なのはこの部分で、音楽的な才能が暴発に近い捲き散らかし方をされているにも関わらず、それが「歌」としてポップに成立していることがこの人の福音。卑近であることもまたブルースという音楽の重要な要素であり、それが彼自身にビルトインされていることは見逃せない。

 
緑の時代 山田稔明
DEFINITELY MAYBE Oasis
 



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