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新しい青の時代 山田稔明 8松

僕たちはなぜ歌を歌うのか。歌われるに足るものはどこにあるのか。長い間、僕たちはここではないどこかにあるはずの「夢」や「理想」や「本当の自分」についての歌を聴いてきた。だけど、そうしたものを探している間にも僕たちの毎日は確実に過ぎ去って行く。取るに足りない生活、ありふれた日常。日向で眠る猫、遠くの鉄橋から響いてくる電車の音。歌われるに足るものはそこにあるのかもしれないと誰かが思っても不思議ではない。

このアルバムはそんな毎日の生活の中に、僕たちにとって不可欠なものの手がかりを見つけ出そうとするささやかな営為だ。もちろん、僕たちの毎日の生活は心愉しいことばかりではない。いや、むしろ、思うに任せないことの方が多い。そんな日常の中で、僕たちは何を歌うのか。山田がここで歌うのは新しい日常のブルースだ。些細なことで泣いたり笑ったり、怒ったり悲しんだりする、僕たちの平凡な毎日の暮らしそれ自体のブルースだ。

すべての善きこと、すべての悪しきことの現れ、兆しは、僕たちの毎日の暮らしの中にもれなく見て取ることができる。もし君が十分注意深ければ。僕には山田がそう歌っているように思われる。そして、それが歌われるに足るものなのだとすれば、それは山田がそうした日常のブルースをそのまま受け止め、総体として祝福しているからに他ならない。そこにあるありふれたものにじっと目を凝らすことで僕たちがたどり着く場所の物語だ。

 
MORE LIGHT Primal Scream 8梅

もう何回も言ったことかもしれないが、プライマル・スクリームに音楽的な素養はない。美しいメロディとか流れるようなコード進行とかそういうものはない。そういう意味ではプライマル・スクリームの作品は正確な意味での音楽ではない。音楽の形を借りているし、音楽のようにも聞こえないではないが、それは音楽に似た何かであって音楽ではない。その証拠にボビーは音楽を信じていない。それは何か新しいアート・フォームである。

だからこそここまで作品ごとに無茶苦茶でデタラメな音楽のようなものを臆面もなく垂れ流すことができるのだ。ボビーには音楽がどうなったっていい。明日世界中から音楽が消えてなくなっても構わない。なぜならプライマル・スクリームは音楽ではないので消えてなくならないからだ。アート・フォームというのがさすがにちょっとアレならメディアだと言い換えてもいい。ロックの彼岸からの呼び声を僕たちに媒介するメディアなのだ。

ここで「音楽性」を云々することは難しい。というか虚しい。ここには音楽的実体がないからだ。プライマル・スクリームの音楽を説明することはできないが、実際に聴いてみるとプライマル・スクリーム以外ではあり得ない特定性と記名性。それはもはや音楽のフォーマットの問題を超えている。大げさに言えばプライマル・スクリームとしての実存。何者でもないのに、音楽ですらないのに、奴らはどうしてこんなにカッコいいんだろう。

 
MODERN VAMPIRES OF THE CITY Vampire Weekend 8梅

正直、この人たちがもともとどういう音楽をやる人なのかよく知らないので、本作が彼らの音楽として普通なのか異例なのか分からないのだが、この普通なのに前衛の感じというか、前衛なのに普通の感じというか、自由なのに正統というか正統なのに自由というか、とにかくそういう音楽としての骨格とか体幹みたいなものが恐ろしくしっかりしている上にインテリジェントな意匠が乗っかっているのだからそりゃ評価も高かろうということ。

特にこの人たちの場合、その正統な感じと自由な感じがまったくの地続きで自然に繋がっているところがすごい。そのどちらもが彼らにとってごく当たり前の資質だということなんだろう。前作のレビューでは「アフロ的要素」とか「リズムにおける展開のスリル」とかいう言葉を使い、トーキング・ヘッズを引き合いに出しながら説明した。今作ではよりオーソドックスな「歌」への回帰が見られるが、冒険と日常のミックス感は変わらない。

そして、それが深刻な顔つきにならないところもまたこのバンドの特長だ。とてもよくできているのに重すぎて繰り返し聴く気になれない音楽というのが確かにあるが、彼らの場合にはオープンで自然なチャームがあり、もう難しい顔をしているヒマなんてないはずだろうという明確なメッセージがある。シニカルを気取っている間に世界は刻々と形を変えて行く。だからこそ彼らは、危機感をハッピーに響かせようとしているのではないか。

 
MONOMANIA Deerhunter 8松

ヨレて歪んだロックンロール。タイトルの「モノマニア」は「単一の嗜好しか持たなくなる偏執症の一種」という意味らしく、このアルバムは「心に病を抱えた人達のためのロックンロール」なのだそうだ。確かに分かりやすいエイトビートの曲があったりもするのだが、これがとっつきやすいかといえば決してそんなことはなく、ぐにゃりと歪んだダリの絵のようなパースの狂った感じが全編を貫いていて、そういうことかと思わされるのだ。

僕たちはみんな同じ世界を見ているのだが、その世界が他人にどう見えているのか僕たちには分からない。僕が赤と呼んでいる色はあなたには緑に見えているのかもしれず、ただ、あなたもそれを赤と呼んでいるので会話は成り立っているのだが、この世界が誰かの目にどう映っているのかは分かりようがない。要は自分の脳が情報をどう処理しているかというだけの問題で、僕にはまっすぐに見えている世界が実は歪んでいるのかもしれない。

心を病んだ人達にはこのロックンロールが真っ直ぐに聞こえるのかもしれない。一時期のソニック・ユースを思わせるような、インテリジェントで優雅なぶっ壊れ方だが、おそらくそんなものは脳みそのチューニングのちょっとしたズレに過ぎないのだろう。でもまあ、この音楽が真っ直ぐに聞こえてしまうのも逆にもったいない。日常にぱっくりと口を開いた裂け目のような壊れたロックンロールが異化して行く世界の風景をこそ楽しみたい。

 
DON'T FORGET WHO YOU ARE Miles Kane 7松

マイルズ・ケインのセカンド・ソロ。前作は若干勢い余って2011年のアワードをやってしまったが、今作もポップ・ミュージックの正統な継承者であることを主張するような躊躇のない英国産のロックが全開だ。何しろプロデューサーがイアン・ブロウディ、2曲をポール・ウェラーと、3曲をアンディ・パートリッジと共作しているのだ。この顔ぶれだけで買ってもおかしくないくらいだが、もちろん中身もよくできているのは間違いない。

何より今作はハードなロックが全体のペースを作ってアルバムをぐいぐいと引っ張って行く。特に冒頭からの3曲で流れを作り、4曲目にジョン・レノンを思わせるアコースティック・チューンを持ってくるところなど構成も万全。そこからは緩急を巧みに使いながら最後まで一気に聴かせる。中だるみや捨て曲が一切ない達者なソングライティング、ツボを押さえメリハリのついたアレンジなど、妥協のない、保証書のついたプロの作品である。

何より素晴らしいのは3分を超える曲がわずか4曲、残りの7曲はどれも2分台で、通して聴いても33分。通勤の片道で聴けてしまう。確かにしっかりした技術がアルバムを支えているのはだれもが認めるところだが、そこにきちんと大きな声でガツンと歌いたい、シャウトしたいという直接性が刷り込まれているのがこの作品のメイン・フィーチャーだ。達者で器用な人のシャウトにグッときてしまうのはそれがロックの本質だからなんだろう。

 
BE Beady Eye 7竹

やっぱりリアム・ギャラガーのこの声を聴くと、反射的に「オアシス」と思ってしまうのは生理現象みたいなものなので仕方ない。おそらくリアムはとっくにオアシスを一生引き受けて行くくらいの覚悟はしているのだろうし、いや、むしろ積極的に引き受けたいと思っているのかもしれないし、実際オアシスからノエルが抜けて残ったのがこのバンドなのだから、彼らがオアシスを引き受けて行くのはある意味当然のことなのかもしれない。

そういう圧倒的な声の力をリアムは持っている訳だが、結局僕たちはどうしたって「ノエルのいないオアシス」をここに見つけてしまうのだし、まず「そこに何が足りないのか」を探してしまう。そういう意味では初めからビハインドを背負ったバンドなのだ。で、そういう観点からこのアルバムを聴けば、実際のところかなりよくできている。いや、誤解を恐れずに言えばかなりオアシスっぽい。もっと言えば曲調がノエルっぽいってこと。

そしてもちろん、それはオアシスとしては物足りない。デイヴ・シーテックなる人物をプロデューサーに立てたことで意欲的、実験的な音になったというのが巷間の評価らしいが、僕にはリアムの声しか聞こえてなかった。前作がいかにもジョン・レノンだったのに比べるとグッとオアシスらしくなり、それはまたリアムらしくなったということなのだが、結局ここに必要なケミストリーとは何なんだろうと考えてしまう、そんなアルバムだ。

 
SLOW SUMMITS The Pastels 7梅

パステルズというのはギター・ポップの歴史の中でも特別な意味を持ったバンドだ。どんな意味かと訊かれると困るのだが、一切の商業的な成功とは無縁でありながら、アノラックの始祖とも言われてグラスゴー・シーンを形成するたくさんのバンドに大きな影響を与えた。どう聴いても下手くそとしかいいようのない演奏に息も絶え絶えのヘロヘロのボーカルでロック史にこれだけの存在感を認められたバンドもそんなにはないだろうと思う。

サントラや他のバンドとのコラボ・アルバムを別にすれば16年ぶりのオリジナル・アルバムということだが、内容的にはこれまでの緩いポップ感をそのまま敷衍したもので特に新機軸とか新境地といったものはない。だが、ヘタり感そのものが表現であり価値であり得た時代から30年近くを経て、今作はむしろヘタり感の奥に何があるのかを意識させる作りになっている印象を受ける。それが彼らとしての進化ということなのかもしれないなと。

それはつまり、バタバタしたギター・ポップそのものが象徴していたひとつの「態度」のようなものが40代になった僕たちの中でどのように位置づけられて行ったのか、そのことの行く末を確かめようとする試みなのかもしれない。あのヨレた感じがなくなったと嘆くのは勝手だが、それはつまり僕たち自身がヨレた世界からどこかに向かって踏み出したことの写像みたいなものだということ。この頼りなさを僕たちは引き受けるしかないのだ。

 
SHE PAINTS WORDS IN RED House Of Love 7梅

ハウス・オブ・ラブはガイ・チャドウィックが率いるギター・ポップ・バンド。1988年にクリエーション・レーベルからセルフ・タイトルのファースト・アルバムをリリース、冒頭に収められた『クリスティーン』が高く評価され、ネオアコ、ギタポの主流を継ぐべきバンドとして注目された。クリエーション・レーベルの音源なら何でも聴くくらいの勢いだった僕は当然セカンド、サードとアルバムを買い、その動静をフォローし続けてきた。

だが、もちろん彼らはスタジアム・バンドにはならなかったし、ザ・スミスのようなカルト的な存在にもならなかった。その名前は次第に人口に膾炙することも少なくなり、僕のようなギタポ愛好者の残党みたいな人だけが記憶にとどめるようなバンドになった。いや、僕だって93年に出たアルバムを持っていないことに長い間気づいてなかったくらいだ。その後彼らは解散を経て2005年に再結成、アルバムをリリースしたがこれはよかった。

さて、肝心の本作であるが、まあ、僕にはそういう前史抜きでは聴けないバンドだということで今回も買ってしまった。ここにある音楽は美しい。美しいが繊細でもろく、儚い音楽だ。それがこのバンドがメジャーになりきれなかった理由なのだが、それがなければハウス・オブ・ラブではあり得ない訳で、結局彼らは優しすぎるバンドだったのかもしれない。全体にスローでやや陰鬱ですらあるが、『ホーリー・リバー』が素晴らし過ぎる。

 



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