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PORTAMENTO The Drums 7竹

新時代のサーフ・ロックとして一躍有名になったザ・ドラムスのセカンド・アルバム。もはや世界の枠組みをまったく信用していない奥行きのなさは前作と変わらない。すべての音がそれ以上でもそれ以下でもないくらい即物的に鳴っていて、それはまるで表面だけがあってその奥には何もないと看破したアンディ・ウォーホルのようだ。軽妙で突っかかるような性急なビート感も健在で、ヘロヘロなボーカルも含め明快な記名性のある作品。

しかし、この作品では、サーフには似つかわしくない暗さが気になる。普通に聴けばチープでミニマルでチャーミングなティーンエイジ・ポップだが、何度も繰り返し聴いていると、達者なメロディが確かに抱えている陰鬱な響き、どんなに軽快なスピードで走っていても宿命的に伝わってくる躊躇や諦念といったものがどうしても耳についてくるのだ。そこには、ピクシーズを初めとした4ADレーベルのアーティストを思わせる何かがある。

それが何なのか、一時的なものなのかこのバンドにとって本質的なものが露わになっただけなのか、それはここでは分からない。ただ、そうした閉塞感、息苦しさみたいなものがアルバム全体の箱庭感を際立たせているのは確かだ。生き急ぐような、取り返しのつかない事態が目の前でどんどん進んでいってしまうような切迫した緊張感は十分感じられるだけに、また曲の質は高いだけに、このバンドがここからどう展開して行くのか楽しみだ。
 

 
FATHER, SON, HOLY GHOST Girls 7竹

ほぼ宅録のファーストが高い評価を受けたガールズのセカンド・アルバム。きちんとスタジオで制作された初めてのアルバムということだが、これを聴いてファーストがどんなだったかさっぱり思い出せなくなってしまった。僕の中に漠然とあったガールズのイメージというか記憶と、このアルバムの印象があまりに乖離していたからだ。何かこう、もっと楽観的で最終的にはすべてを肯定して行くような、そういうものを想像していたのだ。

しかし、このアルバムは内省的である。ロックンロールもあるものの多くの曲は陰影のあるミドル・テンポの緩やかな曲調であり、フォーマットとしてはロックという音楽のスタンダードをきちんと踏襲したオーソドックスなもの。前作ではジザメリを引き合いに出したが、今作はむしろティーンエイジ・ファンクラブを思い起こさせる曲が多いように思える。それというのもこのアルバムの曲がひとつひとつ端整に仕上げられているからだ。

もともと宅録という出自からしてミニマルかつ内省的なモメントを備えた人たちであることは間違いないが、それがきちんとスタジオに入りプロデューサーを立てて本格的に制作したこの作品で露わになってくるのも面白いところだ。言いたいこと、歌いたいことのサイズが新しい器を要求したのかもしれない。デビュー作では非正統派としての印象が強かったが、もしかしたらメインストリームの真ん中で勝負できる人たちなのだろうか。
 

 
JUNK OF THE HEART The Kooks 7松

イギリスの若手バンド、ザ・クークスのサード・アルバム。とはいえ僕はこの人たちのアルバムを聴くのは初めて。結論から言えば、ここ何年か失敗に終わった何枚ものアルバムへの投資をもっと早くこのバンドに振り向けておくべきだったと思った。どうでもいいようなCDを何枚も買ってそのたびに「ああ、やられた」と天を仰いでいたが、どうしてこのバンドのアルバムは買わなかったんだっけ…。まあ、たまにそういうことはあるのだ。

1曲目から思わず笑ってしまうくらい分かりやすく明快なポップのオンパレード。感触としては所謂ブリット・ポップのポピュラーさに近いものがあるが、ここにあるのはもっと身も蓋もないオープンさであり近さ。それはつまり、意識してポップであること、平明であることを指向しているのに他ならない。「君をハッピーにしたいんだ」というこれ以上ないくらい直接的なメッセージが力を持ち得るのは、まさにその直接性ゆえなのだ。

そして、それが音楽としてしっかりと成立しているのは、それぞれに輪郭のくっきりした曲ひとつひとつの存在感がこのアルバムを支えているからだ。既に何度か書いていることだが、もはや難しい顔をして難しい音楽をやっている場合ではないというギリギリの選択としての明快さ、そしてポジティブさ。すごいスピードで回転している世界の中で最も通りやすい声は、いつでもシンプルで美しい。2010年型のポップネスを示した快作だ。
 

 
THE WHOLE LOVE Wilco 8梅

R.E.M.なき今、アメリカの良心と言えるバンドの筆頭格に躍り出たウィルコの新しいアルバム。自ら設立したdBpmレーベルからのリリースらしい。僕が初めて聴いたウィルコのアルバムは出世作「ヤンキー・ホテル・フォクストロット」で、そこではいかにもひとクセありそうなひねりの効いたオルタナティブ・カントリーが演奏されていた。しかし、最近では実験性は影をひそめ、このアルバムも含めて随分オーソドックスになった感がある。

今作ではツボを押さえながらも多彩なアレンジで骨格のしっかりしたポップ・アルバムに仕上がった。オープニング・ナンバーこそエレクトロニカというか音響的というか、実験性を感じさせるものがあるが、そこを突破してしまえば聞こえてくるのは多様な曲想のナンバーであり、もはやこのバンドをオルタナ・カントリーなどとよく分からない名前で呼ぶ必要もないということが実感できる。もはや彼らは次に進んでしまったのだなと思う。

それはここにある音楽を虚心坦懐に聴いてみればよく分かるはずだ。ここにあるのは何かひとつのジャンルに自閉することを拒絶した音楽だ。「ロック」としか呼びようのない直接的で開かれた音楽だ。当たり前の楽器で、当たり前のリズムで、当たり前のメロディで、しかしそこにあるのは後戻りができないほど壊れてしまった21世紀の人間存在にコミットする意志だ。そこで音楽になし得ることがまだあるのか、それを問う堂々たる作品。
 

 
NOEL GALLAGHER'S HIGH FLYING BIRDS Noel Gallagher's High Flying Birds 7松

ああ、さて、いよいよ満を持してリリースされたノエル・ギャラガーのソロ・プロジェクト。何かしばらくは音楽活動から遠ざかるとか言ってなかったっけ。ま、いいけど。リアム・ギャラガーを中心とする「ノエル抜きオアシス」はビーディ・アイの名前で先にアルバムを発表していたので、ノエルとリアムのバンド解散後の作品が出そろった訳だ。当然発売を待ちかねて買ってみたのだが、これは…。予想されたこととは言え地味な作品だ。

オアシスの初期のシングルのカップリングでは半ばデモテープみたいなノエルの弾き語りが何曲か聴けたりもしたが、ここで披露されているのはそうした作品の系譜をそのまま引き継いだシンガー・ソングライター的な曲が中心で、ビートに乗せてガツンとくるようなロックンロールは皆無。オアシスを二つに分ければガツン系をリアムが担当してノエルがこっち系に傾倒するのは理解できる。しかし、このカタルシスのなさは想定以上だろう。

もちろん、曲そのものはどれもよくできている。耳への残り具合、聴き手の内側への浸透具合は並のソングライターの比ではない。だがこのあまりにミニマルで内省的なトーンは聴き手を戸惑わせるだろう。イメージとしては小沢健二が「犬」を発表したときに近いかもしれない。おそらくは聴きこむことによってしっかりと馴染んでくるタイプのアルバムだと思うが、それにはもう少し時間が必要。まあ、少なくともビーディ・アイよりいい。
 

 
MYLO XYLOTO Coldplay 8梅

今や泣く子も黙るビッグなバンドになったコールドプレイの5枚目のオリジナル・アルバム。一聴して分かる音のよさ、キラキラした質感のギターやキーボードと腹に響くようなベース、ドラム、そして、それらが一体として響き合う音楽としての成り立ち。通勤の電車の中で、数千円程度のイヤホンで聴いていても分かるくらい、いかにもカネのかかってそうな重厚かつ軽妙で質の高い音作りがなされている。まさに王道を行くという感じ。

個々の曲はあくまでも明快で、輪郭も骨格もはっきりしており分かりやすくポップ。独善的な難解さに自閉することなく、「歌」として成立することを前提とした開放的な音楽だ。彼らの作品は、時として曲としての精度を高めるあまり、細部までギチギチに音楽が充満して息苦しいことがあったが、今作では構築度はむしろ上がっているのに、風通しは逆によくなっているようにすら思える。完成度の高いアルバムであることは間違いない。

だが、ひとつ気になるのは、そうやって音楽の完成度を極限まで上げることによって、彼らの音楽がどんどん記名性を失って行くことだ。クリス・マーティンの声によってかろうじて個別性を保っているが、アルバムそのものの感触は「ロック」とか「ポップ」という一般名詞を強くイメージさせる。もしかしたらそれは、彼らの音楽が、もはやコールドプレイという個性を越えた「普遍」にすら近づきつつあるということなのかもしれない。
 

 
IN THE KEY OF DISNEY Brian Wilson ---

ブライアン・ウィルソンがディズニー・ソングをカバーしたアルバム。そういえばかつてハル・ウィルナーもディズニー・ソングをいろんなアーティストがカバーするオムニバスを製作したことがあった。ブライアン・ウィルソンのカバーはどれもオーソドックスで外さない。どこかで聴いたことのある曲も多く、それを端整なアレンジで聴かせる仕上がりにはもはや余裕すら感じる。まさに鉄板というか、いい意味で期待を裏切らない作品。

だが、もちろん、ブライアン・ウィルソンはディズニー映画を無邪気に楽しんですくすくと育った健康優良児ではない。ある時期、彼の魂は深く病み、復帰は絶望とまで言われるほど暗い世界をさまよった。その背景には幼少期の抑圧があり、ポップ・スターとして過大な期待を背負わされるプレッシャーがあった。サーフィン、ホットロッドとはかけ離れたスタジオでの果てしない作業の中で、彼の精神は少しずつ追い込まれて行ったのだ。

そのブライアン・ウィルソンが奇跡のカムバックを果たしてコンスタントに作品を発表するようになってから久しいが、こうした経歴を持つ彼が、ディズニー・ソングをカバーすること自体に何か鬼気迫る凄みを感じてしまう。考えてみればディズニーのプロダクツもアメリカの娯楽資本主義とでもいったものを象徴する狂気をその内に孕んでいるように思える。幸福なアルバムの背後にあるアメリカの闇の深さをこそしっかり聴くべき作品。
 

 
BAD AS ME Tom Waits 8梅

いうまでもないことだが僕たちは一人で生まれ、一人で死ぬ。今はどんなににぎやかな友人に囲まれていても、あるいはどんなに親密な恋人と寄り添っていても、目を閉じたときそこにある闇をだれかと分け合うことはできない。そのような意味で僕たちは本質的に孤独であり、そのことは都市生活の中でより露わになる。一人で生まれ、一人で死ぬべき運命にあるからこそ、僕たちはだれかを求めずにいられない、都市はそれを教えてくれる。

そのような都市の語り部がトム・ウェイツである。トム・ウェイツの音楽を聴いたことがない人にそれを説明するのは難しいが、もはやそれ自体ひとつのジャンルと言っていいくらい独特のしゃがれ声と、ロックというよりは舞台音楽に近い異形の音楽。子供が泣き出すようなシャウトと、ピアノで奏でられるワルツの際立った対比。そこにあるのはどこまで行っても僕たちが一人でしかあり得ないことのステートメントでありその肯定である。

このアルバムでもそうしたトム・ウェイツの本質は変わらない。というか変わりようがないのだろう。世の中に間口の広い音楽と奥行きの深い音楽とがあるとしたら、この人の音楽は間違いなく後者。少なくともこの人以外には表現しようのない音楽だが、メロディは意外なほど分かりやすくセンチメンタルだ。もはや癖とか芸の域に達しているとも言えるが、彼の音楽にしか慰撫することのできない都会の夜の孤独は確かに存在しているのだ。
 

 
LULU Lou Reed & Metallica 7松

ルー・リードとメタリカのコラボレーション・アルバムである。当然メタリカのハード・エッジな演奏に乗せてルー・リードが歌う、いや語るというスタイルなのだが、まず驚かされるのは、両者の相性が思っていた以上にいいということである。それはもちろんメタリカの演奏がルー・リードのトーキング・ブルースに絶妙にマッチしているというようなことではなく、ルー・リードが演奏をねじ伏せているということに他ならないのだが。

ルー・リードの「語り」の存在感はもはやバックの演奏がどんなものであっても関係ないくらい際立っている。そのような「存在そのものの意味」で直接勝負するルー・リードの声に対抗できるのは、「語り」に寄り添うような従順な演奏ではなく、それ自体独立して高い緊張感を孕んだ硬質な音楽のはずだ。そうした両者のエッジがぶつかり合って火花を散らす中でこそルー・リードの表現はよりリアルにリスナーに届き得るのではないか。

その意味で、この組合せは納得性がある。メタリカの重心の低い演奏は見事で、ハード・ロックの旗手としての貫禄を十分に感じさせるものだが、結局、彼らが自分たちの色を出そうとすればするほどルー・リードの存在感が増すのは皮肉。ただ、ひとつひとつの曲が無用なまでに大仰で、特にアルバム後半に行くほど悪い意味で演劇的になるのはいただけない。まあ、この顔合わせでシンプルにやれという方が無理な注文なのかもしれない。
 

 
THE SMILE SESSIONS The Beach Boys  
1 The Beatles  
 



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