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COLOUR OF THE TRAP Miles Kane 9梅

最近上司の影響でよく使う言葉が「こなれている」。「あの人はこなれてますね」と言えば「あの人はいろんなことの機微がよく分かっていて話の通しやすい人ですね」ということだ。「空気を読む」にも通じるところがあるが、要は経験が豊富で知識も十分、考え方も柔軟で腹を割って本音で話をしても間違いがない、と。まあ、世の中がそういう人ばかりだと分かりやすくて仕事もしやすいのだが、なかなかそういう訳には行かないのだ。

で、このマイルズ・ケインのソロ・デビュー作はまさにこなれたアルバム。ケインはザ・ラスカルズのメンバーで、アークティク・モンキーズのアレックス・ターナーとラスト・シャドウ・パペッツ名のコラボレーション・アルバムをリリースして高い評価を得たアーティスト。どこかノスタルジックでポップな作風はパペッツと通底しているが、音の響きやアレンジの細部に対する過剰なまでの拘りは何らかのルサンチマンをすら感じさせる。

音楽的に極端なことや革新的なことが何かある訳ではないのに、今までこういうやり方でこういう音楽を提示したアーティストはなかなか思いつかない。そういう意味でこの作り込みは極めてロック的であり、それはベルセバやピチカート・ファイヴが紛れもなくロックであるのと同じ。曲の感触にはジョン・レノンのソロ作からの影響を感じさせる部分も多く、ブリティッシュ・ポップの最良の部分の系譜を継承してもいる。聴くべき作品。
 

 
SO BEAUTIFUL OR SO WHAT Paul Simon 8竹

かつてドリーム・アカデミーのニック・レアード=クルーズが、「ポール・サイモンから曲作りについて教えてやると言われて小躍りしながら馳せ参じた」的なことを言っていた記憶があるのだが、それくらい伝説的なソングライターの最新ソロ作である。正直S&Gのベストしか持っておらず、ポール・サイモンのソロ作はほぼ聴いていないのだが、アルバム「グレイスランド」が大ヒットしたとかその程度のことは事実として認識はしていた。

そのアルバムは所謂ワールド・ミュージックを消化しポップ・ソングとして再構築したということで高い評価を得る一方、そのやり方が収奪的、商業的だと批判もされた。しかしまあ、この人の作曲能力をもってすれば、どんな音楽でも一級のポップ作品に仕上がってしまうのだから、あれはあれで然るべきアルバムだったのだろう。そしてこの作品もまた、ロックというよりは端的に「音楽」と呼んだ方がいいような高品位なアルバムである。

僕としては正直、よくて当たり前の大御所の作品をことさらほめちぎって高い評点を付けるのは、「大人のロック」的な非ロック的モメントが感じられて気が進まないが、ここまでの音楽の確かさ、広がり、奥の深さを見せられると、この年でこのアルバムを易々とマーケットに投入してくること自体がロック的営為であると感じてしまう。悔しいが先にレビューしたロビー・ロバートソン同様、若いバンドが越えるべき壁は高いと感じた一枚。
 

 
HELPLESSNESS BLUES Fleet Foxes 7竹

僕の嫌いな言葉のベスト・スリーは「エコ」「オーガニック」「ヘルシー」である。忙しい現代社会に異議申立をしているようでありながらがっつり商業化、ノベルティ化しているその佇まいとか、所詮は快適な生活を確保した上での贅沢でありながらまるで何か清貧なライフ・スタイルを語っているような高踏的なところが気に食わない。大嫌いだ。ついでに言えばそういうのに関わっているヤツらの「善意ヅラ」も不愉快だ。虫酸が走る。

そういう僕からするとこれは難しいアルバムだ。基本アコースティックで美しいコーラス・ワークを聴かせる。これがセカンドなのだが、デビュー・アルバムは高い評価を得たらしく、こういうアイリッシュ・フォークなどにも通じる地味な音楽が現代に受け入れられているのは興味深い。いろんなレビューを読んでいると、彼らの音楽は、良心的で牧歌的な現代のフォーク・ソングとして聴かれているようである。まあ、それはそれでいい。

だが、彼らの音楽は本当にスローでアコースティックで爽やかなオーガニック・ミュージックなのだろうか。僕たちがここで聴かなければならないのは、曲調の意外な暗さや全編に張りつめる不穏な緊張感、時折苛立ったようにかき鳴らされるギターの方なのかもしれない。かつてポーグスがアイリッシュ・トラッドをパンクに仕立てたように、どんなスタイルでもそこに喚起力を持ち込むことは可能。慰撫するだけの優しさならいらないが。
 

 
PALA Friendly Fires 8梅

僕がかつてレコード屋でバイトしていた頃、店長から吉川晃司の新譜のディスプレイにつけるコピーを考えて欲しいと言われ、「メジャーでも真実はつかめるさ」というのをひねり出したことがあった。なかなかの自信作だったのだが、バイト仲間のバンド野郎から「まさか本気でそんなこと思ってないよね」と訊かれて驚いた。僕としてはもちろん本気だったし、むしろメジャーだからこそ真実がつかめるのではないとすら思っていたのだ。

もともとインディーズ系の「ダンス・パンク・バンド」と位置づけられているらしいが、このアルバムでは「インディーズ」とか「パンク」という形容が似つかわしくないほど明快で堂々としたメジャー感あふれるダンス・ポップを展開している。ソングライティング、サウンド・プロダクションともに強い確信に裏づけられた表現力、喚起力を備えているし、アフロ系のリズムを巧みに取り込んだビートの訴求力は高い水準にあると言える。

素晴らしいのはこのアルバムが流行の音楽に対する商業的なアプローチからではなく、XLというロック系のレーベルに所属するインディー・バンドから内発的に生まれてきたということだ。いい音楽を作っているという自負があるのならなおさら、それをきちんと多くの人の許に届けることが必要だ。この音楽にはそうした土俵で十分勝負できるだけの、メジャーであることを恐れない態度と開かれたクオリティがある。飽きの来ない力作だ。
 

 
HERE BEFORE The Feelies 7松

ああ、何というか、まさかフィーリーズの新譜を手にする日が来ようとは思っていなかった。フィーリーズは1980年代に活躍したアメリカのカレッジ・バンドで、決してだれもが知っている存在ではなかったが、確実にヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響を受けたと思われる体温の低いケイレン系のギターとボソボソ系のボーカルで、よりアートに振れたR.E.M.とでもいうか、そういう位置づけで高い評価を受けていたバンドである。

各種情報によれば1992年に解散していたが、2008年に再結成し今回新たにレコーディングしたのがこのアルバム。前情報なしにタワレコの店頭で見つけたときにはマジ身体が震えた。聴いてみるともう笑っちゃうくらい十年一日(実際には二十年一日)の如きギターとボーカル。それも挑戦的なアフロ系のビートで突っかかるような性急さを見せたファーストよりは次第に脂が抜けていい感じのギター・ポップになった後期を引き継いだものだ。

初めからクライマックスを拒否したつぶやきのようなボーカルと、永遠に続いて行くようにジャカジャカかき鳴らされるギターの響きは、どこまでも今日が昨日になり、明日が今日になって行くだけの僕たちの日常のやりきれなさ、凡庸さをそのままなぞっているかのようだ。そしてその凡庸さこそが生の核であることと、それにも関わらず僕たちが怒ったり笑ったりすることとのギャップがロックであることを改めて思い出させる。快作だ。
 

 
DEMOLISHED THOUGHTS Thurston Moore 7松

ソニック・ユースのサーストン・ムーアがベックのプロデュースで制作したソロ・アルバム。と書くだけである種の人たちは視聴もせずにアマゾンをポチってしまいそうな作品だ。もちろん僕もその一人。まあ、アマゾンをポチるのではなくタワレコで現物を買ったのだが。音楽的には枯れたアコースティック・ギターにストリングスが乗っかる彼岸モノ。ミニマルな音楽にサーストン・ムーアの詩人としての表現が融合したアートな一品だ。

そういう意味ではアーティストとプロデューサーの組合せから今日的で前衛的なロック表現の突端のようなモノを期待した人にはおとなしすぎる印象を与えるかもしれない。確かにここには想像を絶するような音楽的実験もなければ敢えて正調を外すことで何事かを示唆しようとするオルタナティブ的なアプローチは希薄だ。だが、この端正なアコースティック・ミュージックをよく聴けば、そこに不穏なモメントが隠されているのに気づく。

それは微妙な和音の鳴りであったり、いささか過剰に思えるギターのかき鳴らしであったりという、ある種の音楽が内発的に発する過剰と欠損のブルースだ。ハープまでを導入した美しいアレンジを試みれば試みるほど、サーストン・ムーアとベック・ハンセンが宿命的に抱え込んだ、オッドな資質が聴き手の中に不協和音を喚起する。余芸の範囲に収まるサイド・プロジェクトではなく、これ自体として評価するに値するオルタナティブだ。
 

 
SUCK IT AND SEE Arctic Monkeys 7竹

アークティク・モンキーズってそもそもどんなバンドだったっけと思ってファーストから旧譜を聴き直してみて、このバンドの印象が随分変わった。ストロークスに始まったロックンロール・リバイバルのイギリスからの最終兵器、あるいはファイナル・アンサーがアークティク・モンキーズだと思っていたのだ。だが、今思えば、その印象が少し変わったのはマイルズ・ケインと組んだ例のラスト・シャドウ・パペッツだったのかもしれない。

そこにはアレックス・ターナーの意外な音楽的な引き出しの多彩さと正統性が、サイド・プロジェクトならではの率直さで表現されていた。それを念頭に今回旧譜を聴き直すと、あれだけビート至上主義に聞こえたデビュー・アルバムさえ、そこに正統的なメロディや音楽的マナーの萌芽があったことに気づく。そしてセカンド以降、音楽的な試行を深化させる方向で確かに成長してきた彼らの軌跡がそうしたものに裏づけられていたことにも。

そういう意味では本作には彼らの順調な成長がはっきり跡づけられる。アークティク・モンキーズというバンドの本質は、そのビートやスピードではなく、むしろビートやスピードを背後から支えていた音楽的資質の確かさにあったのだ。セカンド、サードでのプロダクションもこれで納得が行く。もちろんそうした資質をコマーシャルなロック表現として定着して行く仕事は簡単ではないが、少なくとも彼らは旗色を鮮明にしたのではないか。
 

 
ONE AND TEN VERY SAD SONGS Pizzicato One ---

小西康陽がピチカート・ファイヴ解散後初めて発表するソロ・アルバムである。とはいっても、これは大方の人が想像する「ソロ・アルバム」とは随分趣が異なっている。ここでは小西は歌わない。そして曲も書かない。曲によって異なるゲスト・ボーカリストがカバー・ソングを歌う、これはそういったアルバムだ。そんなアルバムに小西は「ピチカート・ワン」というアーティスト名義を与えた。小西康陽=ピチカート・ワン。その通り。

曲も書かない、歌いもしないソロ・アルバムっていったい何だ。そこにおいてアーティストという概念の実体はどこにあるのだ。だが、ここにあるのはまぎれもなく小西康陽の作品である。このコンセプト、この選曲、この人選、このアレンジ。これがプロデュースということなのか、あるいは小西康陽が発明した新たなアート・フォームなのか。アーティストとしての記名性を、肉声でもなく楽曲でもない何かに刻印する、それがこの作品。

このアルバムを聴いて思い出したのは、ハル・ウィルナーがプロデュースしたクルト・ヴァイルのトリビュート・アルバムである。ルー・リードやトム・ウェイツ、トッド・ラングレンといった錚々たるメンバーが顔を揃えつつも、アルバム自体は間違いなくハル・ウィルナーの作品だった。この作品も、小西康陽が何によって小西康陽であり得ているかを小西自身が世界に向けて宣誓したアルバムだ。小西康陽は今もロックであり続けている。
 

 
WHAT'S GOING ON Marvin Gaye  
玉姫様 戸川純  
 



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