logo 2011年3・4月の買い物


DIFFERENT GEAR STILL SPEEDING Beady Eye 7竹

オアシスからノエル・ギャラガーが脱退した後、残されたリアム・ギャラガー、アンディ・ベル、ゲム・アーチャー、クリス・シャロックが名前を変えて始めたバンドである。ノエル脱退のニュースが流れたときは、またいつもの兄弟ゲンカかとだれもが思った訳だが、こうしてノエル抜きのアルバムが新しいバンド名で堂々と発表されてしまうと、すべてはもう取り返しのつかないことなのだと理解せざるを得ない。そういう重要な作品だ。

リアムのボーカルの力も大きいと思うが、オアシスの新譜と言われてもまったく違和感がない、王道のロックンロールが中心。作曲のクレジットはすべてリアム、ベル、ゲムの共同名義だが、ノエルの作曲ではないかと思わせるようなスロー・バラードがあったりして、素直に質の高いロック・アルバムとして楽しめる。ビートルズ、特にジョン・レノンからの影響も顕著。驚くほど自然体で、どんな批評も受けて立つ度量のあるアルバムだ。

だが、だからこそ言っておけば、これはやはり質の高いオアシスへのオマージュに過ぎない。オアシスの最初の2枚のアルバムがいかにロック史上傑出した作品であったか、そしてリアム自身がそのためにどれだけ大きな十字架を背負ってしまったか、このアルバムは残酷にもそれを浮き彫りにして行く。それはまるで、オアシスの3枚目以降のアルバムがすべてそうであったように。僕たちもまた、その困難に立ち会わなければならないのだ。
 

 
COLLASPE INTO NOW R.E.M. 8竹

最近よく耳にする表現に「普通にいい」とか「普通に美味しい」とかいうのがある。僕の解釈によればこれは、「特に何か突飛なこと、奇を衒ったものがある訳ではないが、正統でオーソドックスで、何の留保事項を付けることなく堂々と評価できる」という意味である。こうした表現が多用されるのは、世の中に新奇なもの、余計な意匠をまとったものが多すぎて、本質を正面から評価するのが難しくなっていることの表れなのかもしれない。

R.E.M.はこれまで「普通にいい」音楽を一貫して鳴らし続けてきたバンドである。僕に言わせればアメリカの良心である。そのスタイルは愚直であり、その音作りはシンプルである。そこに何かの音楽的な革新はないと言っていい。しかし、彼らは表現としてのロックをアルバムごとに更新し続けている。彼らの中に「歌うべき何か」がある限り、ギターをベンベン鳴らしてマイケル・スタイプが歌い出せば、それはもう最新型のR.E.M.なのだ。

本作も期待を裏切らない、生真面目で誠実な作品である。聴くべきはやはりグイグイとギターでドライブしてくるM2、M7、M9などの性急さだろう。前作で見せた直接性をさらに普遍化したような、猶予のない世界と寄り添い続けるために必要なスピードを、彼らは示そうとしているのではないだろうか。やや内省的な方向に傾いているきらいはあるが、繰り返し聴くに値する作品であることは間違いない。どんな革袋にも新しい酒は注がれ得る。
 

 
BREAD AND CIRCUSES The View 8松

セカンドには全然期待してなかったのに思いの外よくて、その分かなり高い点をつけてしまったのだが、今作は逆に高い期待をこめて買っただけに、どんなアルバムか不安もあった。だが、そんな心配が無用だったことは聴き始めればすぐに分かる。歯切れのよい明快なロックンロールと、はっきりしたメロディ、オーソドックスでポップなアレンジ。もったいぶらない21世紀型のパワー・ポップは2010年代に入っても有効に機能し続けている。

こうした初期衝動型のバンドの場合、その初期衝動を燃やし尽くしたところで壁にぶち当たることは目に見えている訳で、それを乗り越えるために普通は初期衝動に代わる何らかの動機のようなものをどこかに見出し、それを新たな燃料にしてエンジンを動かし続けることになる。だが、このアルバムを聴く限り彼らの初期衝動は簡単に蕩尽しきれそうにない。量的か質的か分からないけど、何か圧倒的なモメントがそこにはあるように思える。

彼らの初期衝動もいずれは燃やし尽くされるのか、あるいはそれは何か別のものに深化して行くのか、いや、もしかしたらもはやそれは初期衝動ですらないのか。僕たちは何か別種の燃料で動く新しいタイプのエンジンを目にしているのか。プロデューサーのユースの力による部分も大きいようには思うが、このバンドの成長のあり方、「次」への進み方には見るべきものがあるはずだ。僕は、このバンドのあり方を信頼してみたいと思うのだ。
 

 
JONNY Jonny 8梅

ティーンエイジ・ファンクラブのノーマン・ブレイクとゴーキーズ・ザイゴティック・マンキのユーロス・チャイルズのコラボレーション・ユニットである。こう書くだけで分かる人には分かるし、分からない人には何のことだかさっぱり分からないと思うが、要は知る人ぞ知るグラスゴー・ポップの二つの偉大なバンドのフロントマンによる夢のコラボであり、僕的には店頭でアオリを読んだ瞬間に、音を聴くまでもなく購入決定のアルバム。

グラスゴーといえば古くはオレンジ・ジュース、アズテック・カメラなどのネオアコを起源に、パステルズやこのティーンエイジ・ファンクラブ、BMXバンディッツなど優れたギター・ポップを生み出してきた街。とはいえ、ここしばらくは内輪の仲良しクラブ的なクローズドな地元主義や批評性を欠いた牧歌的な緩さなど、同時代的なロック表現の最前線からは一歩引いたレイドバック感がどうしても気になり、少し馴染めずにいたのも事実。

このアルバムもそういう「いい作品」の殻を破って外に出てくるだけの力があるものかどうか、正直危惧する部分はあった。だが、結論から言えば、この作品はきちんと現代に対して開かれている。ノーマン・ブレイクのポップ構築力と、ユーロス・チャイルズの「ロック」から逸脱しようとする力が、絶妙のバランスで作用しあった結果、できあがったのはオーソドックスな中にも緊張を孕んだ、現代の大人の童謡ともいうべきもの。快作だ。
 

 
WHAT DID YOU EXPECT FROM THE VACCINES The Vaccines 8梅

UKロック期待の新人らしい。まだ音楽雑誌にフィーチャーされる前にタワレコの店頭ディスプレイで見かけ、アオリで手に取り、試聴して買ったアルバム。試聴買いは意外と外れが多いというのが僕的なスタンダードなのだが、こいつらはそこをくぐり抜けてきた。新しいバンドのアルバムを買うのはいつもリスクで、試聴機でそこそこよさそうに思えても、いざアルバムを聴くと冗長だったり凡庸だったりするのは、まあよくあることである。

このバンドは、試聴機で一聴したところでは、ストロークスとかリバティーンズとかアークティク・モンキーズとか、ロックンロールの復権と言われた一連のバンドと似たパンク色の強いストレートなロックだと思っていたのだが、何度か繰り返してアルバムを聴いてみると、影のあるミドル・テンポの曲など曲想のメリハリも意外に聴いていて、パンクというよりはむしろ叙情派インディー・ポップ。クリエーション好きの僕にはど真ん中だ。

2011年にどうしてこういうバンドがポッと出てきて、それがまたメディアでもてはやされてしまうのかはナゾも多いが、この、本当に必要なものだけを慎重に一から積み上げたシンプルな音作りは、もうムダに難しい顔をしているようなヒマはないとでもいった今の気分に結構ぴったりしている。この表現が何かに対するノスタルジアではなく、現代に対するストレートなコミットから生まれてきたものだとすれば次のアルバムも聴いてみたい。
 

 
BELONG The Pains Of Being Pure At Heart 8梅

ネオゲイザーだとか何だとか、マイブラやジザメリなどに影響を受けたと思われる最近の一連のバンドの筆頭格であり、ファーストでは芸の細かさでもレベルの高いモノを見せたペインズのセカンドである。結論から言えばこれは堂々たるロック・アルバムであり、ギターの鳴りも何かの模倣とか何かへのオマージュとかいう域を超えた本格派の趣。まあ、プロデューサーはフラッド、エンジニアはアラン・ムールダーなのだからそれも当然か。

だが、この「本格感」には激しく違和感がある。もともと彼らは80年代から90年代にかけてのインディ・ロックの徒花的リバイバルとして登場し、その箱庭的な偏愛と誠実な模倣で評価された、あくまで二次産品であったはずだ。ところがここでは彼らの音楽は想像以上の太い幹を獲得し、それ自体が2011年にあり得たロックの選択肢の一つとして現在という時点に直接フックしてしまっている。それがこのバンドへの評価軸を混乱させるのだ。

彼らの方法論自体は今作でも彼らが愛してやまない音楽の誠実な模倣である。しかし、それをここまで本格的にやってしまうと、僕たちはもう彼らを同時代のアーティストとして評価し直さない訳に行かないし、その時にこの音を現代のどこに位置づけるかというのは難しい問題だ。もちろん彼ら自身はアーティストとして次に行かねばならず、いつまでも箱庭に閉じこもっている訳には行かないのだろう。作品としては素晴らしいが次が問題。
 

 
ANGLES The Strokes 7梅

このアルバムをレビューしようとして何度も聴き直しているのだが、一向に自分の中で明確な像が現れてこないので、そもそもストロークスとはどんなバンドだったのだろうかと考え始めて、僕自身にとってのストロークスの印象がすごく曖昧になっていることに気づいた。あわてて今、2001年に出たファーストを聴いているのだが、当時はあれほど衝撃的に感じられたそのアルバムが、まるで普通に聞こえてしまうことにむしろ驚いてしまう。

当時、ストロークスの何がそこまで衝撃的だったかといえば、21世紀が始まる喧噪の中で、もうだれも振り向かないのではないかと思われていた普通のロックを「別に難しいこと考えなくてもこれでいいんじゃね?」的に当たり前のように鳴らしてしまった点だった訳で、そういう意味ではアルバム自体が普通なのは逆に当然のことなのかもしれない。彼らはもともとロックに内在していた「熱」を解放した。それが「ストロークスの意味」だ。

それに比べれば本作は音楽的には随分こなれてプロっぽくなった。コンパクトにまとまったポップな曲のひとつひとつはよくできているし、曲想のレンジも広がっている。デビューして10年も経っているのだからそれもまた当然かもしれない。だが、かつて「これでよかったんだ」と僕たちに一瞬で悟らせた、プリミティブであるが故の説得力はここにはもうない。彼らが何をよりどころに勝負しようとしているのかなかなか伝わりにくい作品。
 

 
THE KING OF LIMBS Radiohead 7松

僕にとってレディオヘッドはどちらかというと「これは聴いておくべきなんだろうな」と思って聴き始め、「こういうのがいい音楽なんだろうな」と思って聴き続けているアーティストだ。何か根っから僕の好きな音楽とか進んで繰り返し聴きたいと思うようなアーティストとはちょっと違う。イヤなら聴かなければいいだけの話なのだが、彼らの音楽にはどこか「これは聴いておかないと」と思わせるだけの正しさのようなものがあるのだ。

ロックにおける正しさに何の価値があるのか僕自身にもよく分からないが、圧倒的に正しいアーティストというのは常にいて、僕にとってこのカテゴリーに属するのはベックとレディオヘッドである。そういう意味ではレディオヘッドのこの新作もまた、僕たちの期待を裏切ることのない正しい音楽だ。おそらく現代のポップ・ミュージックの可能性を誠実に追求して行けば、表現はこういう形に落ち着くということなのかもしれないと思う。

問題はこれが果たしてもはやロックと呼び得るものなのかということだ。今作では比較的メロディもリズムもはっきりしており、僕たちがよく知っているポップ・ミュージックとの連続性は確認できる気がするが、少なくとも僕たちが単純に「ロック」という言葉から想像する音楽とは成り立ちにおいてかなり異なっているんじゃないかと思う訳だ。トム・ヨークにはおそらくロックという術語など関係ないんだろう。真面目で正しい作品だ。
 

 
BLOOD PRESSURES The Kills 8松

CDを聴くきっかけにもいろいろあるが、キルズの場合、最初はTシャツだった。ユニクロがドミノ・レーベルとのコラボTシャツを展開していたのでキルズのシャツを買い、音も一応聴いておかねばならないだろうと思って旧譜CDを買ってみたのだ。そうした経緯からすれば、ホワイト・ストライプスへのイギリスからの回答とも言うべきモダン・ブルースは意外な発見だった。そして今回、ようやく彼らの新作を手にすることができたのだ。

安易にブルースという言葉を使ってしまうのはよくないのかもしれないが、ブルースとしか形容のしようのないフリー・スタイルかつ情動的なうねり。しかしそこには間違いなくパンクを通過した者だけが持つ、世界への懐疑的な眼差しが存在している。確かにアリソン・モシャートの声はブルースと呼ぶにはあまりに細く可憐だし、音作りも豪胆に見えて実は精密に構築されていることが窺われる。これは実に慎重で繊細な音楽なのだと思う。

アリソン・モシャートはホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトとデッド・ウェザーというユニットを組んでアルバムを発表しツアーもこなした。それがこのアルバムの思いきったラウドで、アナログで、ダークな色調にも少なからず影響しているのか。あちこちで閉塞している世界にあって、閉塞している暇なんて本当はないはずだということをだれよりも雄弁に鳴らしているバンド。インテリジェントかつプリミティヴ。本格的だ。
 

 
WASTING LIGHT Foo Fighters 8竹

僕はだいたいアメリカのヘヴィ・ロック的なものを好まない。おそらく本気で聴いてみれば悪くないということは分かるのだろうが、一種の体力勝負のようなマッチョさが聞こえてきてしまうものはどれも苦手だ。そんな中でもニルヴァーナだけは普通にかっちょええと思うんだが、それはやはり音像のヘヴィさとは真逆にあるカート・コバーンの文系臭いダメさ加減と独特のメロディのせいだろう。ニルヴァーナはコバーンのバンドだった。

コバーンが死んでから、ニルヴァーナのドラマーであったデイヴ・グロールが始めたバンドがこのフー・ファイターズである。僕としてはアルバムを買ってきちんと聴くのはこれが初めてなのだが、既に世間ではニルヴァーナ以上かとも思われる成功を収めたバンドとして知られており、もはや「元ニルヴァーナの…」とかいう形容も不要になりつつあるのだろう。重心の低い正統派のアメリカン・ヘヴィ・ロックとでもいったものを聴かせる。

それが決してマッチョに陥らないのはやはり彼らのソングライティングの巧みさによるのかもしれない。そこにはねじ曲がった節回しや特徴的なコード感で否応なく人の耳を開かせたコバーンのような突出した天才はない。しかし、彼らがここで聴かせるヘヴィ・ロックは、ストレートでラウドでありつつも、逡巡や迷いのようなものをきちんと内包しており、確かにニルヴァーナの遺伝子を感じる。クリス・ノヴォゼリックもゲストで参加。
 

 
THE FALL Gorillaz 7竹

全米ツアーの合間にiPadで作られたアルバムということで、スタジオでコンセプトを大々的に展開するオリジナル・アルバムとはかなり趣が異なる。スケッチに近い実験的な掌編が淡々と繰り出されるミニマルな作品であり、その意味でデーモンの個人的な習作に近い企画盤的位置づけのアルバムだということができるだろう。制作の経緯からかボーカルものは少なく、ほとんどの曲はいかにもDTMと思わせるインストのエレクトロニカである。

かつて、YMOが「テクノポリス」や「ライディーン」といった曲をひっさげて登場した当時、技術的にはシンセサイザーを駆使したポップ・ミュージックだが、メロディはまるで演歌だと評されたことがあった。例えば「スター・ウォーズ」のC-3POやR2-D2が時として人間以上に人間らしい仕草を見せたりするように、エレクトリックなものの中にどうしようもない人間くささが宿ることはある。ここでも印象的なのは音像よりメロディなのだ。

例えば単音のシンセが奏でる妙に泣きの入ったオブリガート。例えばヴォコーダでつぶされて遠くから聞こえる人声らしきもの。深夜ツアー先のホテルで一人iPadをいじっているデーモンの肉声は匿名的なバック・トラックの背後に巧みに隠されているが、そうしたところから少しずつ見え隠れするアーティストとしての記名性がこの作品の聴きどころになっているのだと思う。歴史を変えるような作品ではないがファンなら聴いておくべきだ。
 

 
S/T II:THE COSMIC BIRTH AND JOURNEY OF SHINJU TNT Akron/Family 7松

ロックであることからひたすら逃避する音楽というのはいろいろあるのだが、そういうニュアンスともちょっと違った土俗的な香りのするサイケデリック・ロックとでもいうべきか。ネットで情報を探していたら「もともと4人組だったが、前作の録音終了後に、ギタリストが仏門に入るために脱退」という記事にぶつかってさもありなんと笑ってしまうようなそんな感じ。何でも日本滞在時に阿寒湖のほとりの山小屋で着想を得た作品らしい。

そういう意味では自然回帰というか何というか、祝祭的に奏でられる非典型なビート、芸能山城組とかそういうものも思い起こさせるような民族音楽的アプローチが印象的ではあるのだが、それでもやはりここにあるものはロックの範疇に属するものだと僕は思う。それはこれが正統的な民族音楽でも何でもなく、ただ力任せに普通と違うことをやってみたらそれが結果的にこんな感じになっちゃったという「我流感」のせいなのかもしれない。

何であれ、ロックの典型から逸脱しようとしたものが結果的にロックとしか呼びようのないB級表現になるのはあり得ること。東洋的なものとかスピリチャルなものとか禅的なものとか、西洋の良心的なアーティストが陥りがちな中途半端な東方趣味みたいなもののよからぬ影響も感じられないではないが、そうしたインチキ臭さも含めて持ち得る圧倒的なエネルギーの奔流を音楽に変えた力量そのものは確かだ。何じゃこれと笑うのが正しい。
 

 
EUPHORIC HEARTBREAK Glasvegas 6竹

僕は基本的に真面目で引っ込み思案で人見知りのする気の小さい性格である。だれかが何かを大きな声で主張しているときには、それが少々アレな意見でも黙っているタイプである。前をしっかり見据えるよりは足許を見つめている。大事なことを言うタイミングをいつも見誤って逃し、本当にやりたいことをやりたいと言えずに譲ってしまう。僕のこれまでの人生は、そのような自分自身との絶え間ない闘争であったと言っても過言ではない。

ロックの中には、大仰系とでも言おうか、むやみに大げさなオーケストライゼーション、歌い上げ系のボーカル、劇的な曲展開などを駆使して殊更ハッタリをかますようなものが昔から存在する。それが芸の域に達していればそれはそれで笑えるのだろうが、僕はどうもそうした系統の音楽が苦手だ。なぜなら僕にとってロックとは基本的に情けない自分と向き合うための縁であり、僕の日常と地続きの場所で鳴らされなければならないからだ。

グラスヴェガスはデビュー作もかなり大仰系で正直あまり評価してなかったのだが、今回新作を試聴機で聴いてまた買ってしまったのである。しかし1曲目のシンセのイントロが長々と流れるのを聴くだけで僕はもうダメだ。いったい試聴機で何が気に入ったのか思い出せない。このアルバムは僕の日常のどこにもコミットしない。それなりに端正に作りこまれてはいるが、残念ながら僕の情けない生の切実さとは交わることのない音楽だった。
 

 
HOW TO BECOME CLAIRVOYANT Robbie Robertson 8梅

お勉強的に説明すれば、ザ・バンドのギタリストであったロビー・ロバートソンの13年ぶりのソロ・アルバムである。とはいえ僕もザ・バンドについてはデビュー・アルバムを持っているだけで活動の全体をきちんと聴いた訳ではない。ロバートソンのファースト・ソロは大学生だった頃に聴いたような気もするがよく覚えていない。いずれにしても、僕にとってロビー・ロバートソンは、歴史上の人物であり、教科書に出てくる偉人の一人だ。

今回、このアルバムを買ってみたのは、佐野元春のラジオ番組で聴いたのがよかったので、タワレコで新譜をまとめ買いしているときにふと手に取ったということに尽きる。だが、聴いてみるとこれがいい。少しばかりレイドバックした感は確かに否めないが、そこには奥行きのあるソングライティングがあり、オーソドックスで抑制的だがツボを押さえたアレンジと演奏があり、もう決して急がないと覚悟した者だけが持つ強い説得力がある。

問題は、こうした音楽を評価し始めると、新しいバンドの試行錯誤につきあうのがだんだんバカらしくなってしまうことだ。ここで僕たちは自分自身の成長とロックとの緊張関係というアポリアに再び突き当たる。こうした間違いのない良質な音楽を有り難く拝聴するのが「大人のロック」なのか。40代も半ばにさしかかればそれが分相応なのか。だが、このアルバムはそのように聴くにはもったいない強さを持っている。まず聴いてみていい。
 

 
BRING IT ALL BACK HOME Bob Dylan  
 



Copyright Reserved
2011 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com