logo 2010年9・10月の買い物


HANDS ALL OVER Maroon 5 7梅

以前からバンドの名前だけは聞いていたが、今回CDを大人買いしたときに目について勢いで買ったアルバム。端的に言えばかなり黒っぽい要素の入ったパワー・ポップという感じで、元気のいいビートとグルーヴで押しまくる。キャリアが長く苦労もしたバンドだからか、ロック偏差値は異様に高く、熱量も大きい。緩急のメリハリもついており、ポップ・ロックのお手本のような出来。テンションの高い演奏で最後まで一気に聴かせて行く。

もちろんこのハッピーさはハッピーでいようという意志によるものであり、何も考えていない能天気なバカ騒ぎとは似て非なるが、ここまで明快に分かりやすくストレスのない音楽を鳴らすのは、逆に相当の覚悟がないとできないことだ。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」に出てくる、イケメンで勉強も運動もでき、リーダーシップがあって同性にも異性にも好かれるが、奥行きがなく薄っぺらな五反田君という登場人物を思い出した。

もちろんこの人たちにはこの人たちなりの大変さとか考えていることとかがあるのだろうが、そうした内省をスパスパと気前よく削ぎ落として自らハッピーでいることを選択した訳だ。五反田君にも、だれからも窺いしれない心の闇があり、彼はそれを抱え込んだままマセラティで入水自殺してしまう。このバンドがいったいどんな業を背負い込んでいるのかは想像するしかないが、それをポップに転化する実力があることは間違いないと思う。
 

 
GRINDWEMAN 2 Grinderman 7松

ニック・ケイヴの新しいプロジェクト、グラインダーマンのセカンド・アルバム。最近のバッド・シーズ名義のアルバムでは、ついにトム・ウェイツの域に達したかのような芸風の深まりを見せる一方で、何じゃこりゃ的な異形のすごみとか訳の分からない前衛性みたいなものは次第に影を潜め、普通にいい歌を歌うオヤジになりつつあったのだが、これは僕のバッド・シーズのイメージに近い過剰性を具えた今日的なブルース・ロックである。

少なくとも何かのはずみで知り合った、洋楽には一切興味のない20代の健康で可愛い女のコに「取り敢えずこれ聴いてみ」と言って聴かせるような音楽でないことは確かだ。そんなことをしたら間違いなく変質者かメンヘラだと思われてしまう。これが彼にとって、当たり前のロックやポップからとにかく離れることで、自分の中の音楽を再発見し、再定義するための試みなのだとしたら、その目論見はかなりの程度成功していると言っていい。

だが、面白いのは、このアルバムがそうした「中心的なもの」からの遁走によって逆に新鮮でみずみずしい音楽としての輝きを獲得していることであり、それはニック・ケイヴの書く曲がその強面な意匠の背後に意外なほど親切で明快な大衆性を常に隠し持っているからだ。ここではそうした彼の本質的にポップなソング・ライティングの資質がストレートに表現されている。破調の向こうから聞こえてくるメロディに耳をそばだてたい作品だ。
 

 
WHO WE TOUCH The Charlatans 7竹

毎回書いているような気もするが、彼らがこうやって20年もシーンに残ってくるバンドだとは僕は思わなかった。あのインディ・ダンスだとかマッドチェスターだとか、いかにもハイプという他ない扱いの中で何とか生き残り、メンバーの死をも乗り越えてここまで当たり前のように音楽を奏でアルバムをリリースし続けているのは実際にはすごいことだと思う。一時的な巡り合わせの妙だけで20年以上もメジャーで活動することはできない。

今作もまた重心の低いロック・アルバムだ。一聴して耳に残るようなポップ・チューン、キラー・チューンがある訳ではないし、時代の最先端を行くような音楽的イノベーションがある訳でもない。ここにあるのはただ、ロックという語義にあくまで忠実な、タメの効いたストロング・スタイルのロックであり、むしろこの2010年代にあっては笑ってしまうほど実直で愚直な意思表明である。これは、驚くほどストレートな表現衝動の表出だ。

だが、もちろん彼らがこの騒々しい2010年代にこうしたロックを奏でなければならない理由はある。そしてまた僕たちがそれを聴かずにはいられない理由もある。今となってはストイックにすら聞こえるまっとうなロック。だが、彼らの音楽が「大人のロック」的な肥溜めに落ち込んでしまわないのは、そこに僕たちの神経を逆なでする不穏な空気がいまだにしっかりと息づいているからだろう。そういう共犯関係を確認するためのアルバム。
 

 
SURFING THE VOID Klaxons 6梅

デビュー・アルバムについてはひどいことを書いた記憶がある。曲にセンスがないとか歌として成立していないとか、我ながらよっぽど聴きどころを見つけられなかったのだなと思うのだが、とにかく退屈な印象しかなかったバンドで、このアルバムを買うかどうかも迷った。店頭で何度か試聴して、まあ、取り敢えず買って聴いてみる価値は一応あると思ったが、正直あまり期待していなかったしこれでダメならもう買わないつもりだった。

で、結論から言えば、前作からは確実に進歩している。むやみに空疎で大仰なアレンジとそこで歌われる内実のなさのギャップが目立った前作に比べれば、そのギャップはアレンジに抑制とか権衡とかいったモメントが加わったこととソングライティングが向上したことの両面から縮小しており、ポップ・ソングとしての地力がようやく備わってきたことを窺わせる。ロックとして地に足が着いた分、独特の過剰さも武器になるようになった。

彼らの音楽はダンサブルでフィジカルなフロア・ミュージックのように見えて、その実はおそらく極めて冷静かつロジカルに構築された理詰めのポップ・パッケージだ。それだけにソングライティングの貧弱さは致命的かと思っていたが、本作ではメロディの生硬さは残るものの曲としてのまとまりは随分見られるようになった。いかに鋭角さを残しながら表現として成熟し、そこに何らかの強い動機を示せるか。次作も一応買うことに決定。
 

 
RECKORDER Fran Healy 7竹

トラヴィスのソングライターでありボーカリストでもあるフラン・ヒーリーのファースト・ソロ・アルバムである。トラヴィスといえば90年代後半に元気のいいブリット・ポップ然としたアルバムでデビューしたが、一転して静謐な美しさを作り上げたセカンドで一躍ポップ・スターになったバンド。だが、その後は自家中毒的な袋小路に入りこんでセールスも落ち、インディからリリースした前作は意外にも再びロックに回帰した作品だった。

それはそれで悪くなかったし、それはおそらくこの人のソングライティングがしっかりしているので、曲のよさを前面に出すアコースティックな作品でも、ビートの力を借りてぐんぐんと前に進もうとするロック・オリエンテッドな作品でも、きちんと聴くに値するだけの水準には自ずと達するということなのだと思う。ソロ名義のこの作品では、バンドのセカンドに立ち戻ったような内省的かつシンプルなアレンジで、曲そのものを聴かせる。

だが、このアルバムがミレニアム・イヴの頃のバンドの作品と異なっているのは、そこに空気の通り道がきちんと確保されているということだ。音楽の純度を高めるあまり息をすることさえ忘れそうなほどの緻密な表現に向かったかつてのトラヴィスに比べれば、ここにはより自然な呼吸のリズムがある。あっという間に終わってしまう全10曲、30分ほどの地味なアルバムだが繰り返し聴くに足る作品。ポール・マッカートニーがベースで参加。
 

 
A-Z VOL.2 Ash 8竹

1年間隔週で新曲をダウンロード販売するという試みの後半分13曲をまとめたCD。前半の13曲をまとめた「Vol.1」に続く第2弾である。もうこんなレビューなんか読まなくていいからとにかく聴いてくれと言いたくなるようなパワー・チューンの連打である。前作のレビューにも書いたとおり全曲シングル曲なので、緩急とか関係なく全編キャッチーなリフとかフックのあるメロディとか、とにかく否応なく耳を開かせるアルバムになっている。

もともとアッシュはそれほど思い入れのあるバンドでもなく、雑誌のレビューか何かを読んでついでのつもりで買ったアルバムがよかったので新しいのが出る度に買い続けているのだが、これだけ外れがなく、ハイ・エナジー、ハイ・テンションでありながらきちんとメロディと声が際立つという奇跡のような作品を作り続けるバンドは他に例がない。そしてそれが何の作為もはったりもない等身大の音楽に結実していることもまたミラクルだ。

大方のバンドは初期衝動を消費し尽くした後、どのようにして自分たちのスタイルを深化させ、どこに初期衝動以上の語るべき何かを見出すかというアポリアに直面する。しかし、アッシュの初期衝動はまるで使い減りのしないダイヤモンドのようだ。表現を老成させることなく、瑞々しい音楽をごく自然にたたき出し続けるバンドは彼らの他に見当たらない。もしかしたら僕たちは本当にひとつの奇跡を同時代で目にしているのかもしれない。
 

 
WRITE ABOUT LOVE Belle And Sebastian 7松

ベルセバの音楽はそこにあり得たかもしれない架空のもうひとつの生を歌っているのだとかつて書いたことがあると思う。例えば音楽的なイノベーションや最先端のエクスペリメントを求めてベルセバを聴く人はいない訳で、彼らの音楽は結局のところ擬似的な近過去を、実際にはなかったニセモノの記憶を僕たちに想起させることがその中心的な役割なのだと。その意味では彼らの音楽にイノベーションなどあってはならないのも当然なのだ。

今作もそんな、確かに聴いたことがあるのにいつどこで聴いたか指摘することのできないデ・ジャ・ヴのような、僕たちの胸の奥のふだんはあまり気にしない部分に一瞬冷たい手が触れたような、特殊な切なさや子供の頃に感じたきり忘れていた憧憬、取り返しのつかない後悔といった感情を巧みに喚起する音楽が特徴的だ。彼らの音楽は非常に自覚的で意図的なものであり、技巧的で機能的なものだと僕は思う。その意図は初めから明快だ。

だが、残念なことにこのアルバムでは彼らのそうした意図もさすがに自家中毒に陥っているように思える。作品単体としてのクオリティは決して低くないが、ここではまるでベルセバが架空のベルセバをなぞっているような、限りのない自家撞着を感じるのだ。これなら10年前のアルバムを聴いていれば十分。編集者的なセンスをエンジンにドライブするスタイルの鮮度とか有効期間というものを考えずにはいられない。嫌いじゃないけどね。
 

 
LOOSING SLEEP Edwyn Collins 8梅

僕の中ではアズテック・カメラ、ペイル・ファウンテンズ、オレンジ・ジュースが一応ネオアコ御三家ということになっているが、アズカメ、PFのキレのよさに比べると、OJは今ひとつ暗いというかつかみどころがないというか、ジャカジャーンというギターのかき鳴らし一発に賭ける潔さみたいなものが欠けていると思っている。エドウィン・コリンズはそのOJのフロントマンでありソングライター。前作から3年ぶりのソロ・アルバムだ。

前作のリリース前に脳出血で倒れたということだが、本作ではその影響を感じさせないスピード感、爽快感。むしろOJの時よりもアグレッシヴに、シンプルに、ギターの響きやエイト・ビートが内在的に持つ説得力を自在に操っている。ここまでグイグイと前に出てくるとは想像もしていなかった。M2なんか歌詞がシンプルなこともあってか別に覚えようとも思っていないのに思わず口ずさんでいる調子よさ。筋の通ったストレートなロックだ。

もちろんこの人独特の影を含んだ節回しや粘りのあるボーカルは健在だし、ソングライティングの確かな裏づけがあるからこそこのライブ感のあるアルバムがきちんと地に足の着いたものになっているのは間違いないところ。年齢を重ね、健康上の危機も乗り越える中で本質的なものとそうでないものとの腑分けがしっかり行われ、余分なものをできる限り削ぎ落としたことが窺える。オレンジ・ジュース名義で出して欲しいくらいの佳作だ。
 

 
NATIONAL RANSOM Elvis Costello 7松

前作に続いてTボーン・バーネットをプロデューサーに迎え、アメリカン・ルーツを意識したダウン・トゥ・ジ・アースな感触の作品に仕上がった。もっとも、カントリー色の強かった前作に比べれば軽快なカントリー・ロックからアコースティック・チューン、バラードまで、アルバムとしての音楽性の幅は広がったようにも思える。もちろん、曲作りの巧みさと聞き違えようのない声はどこまで行ってもコステロ独自のものであり唯一無二。

だが、この作品で何より顕著なのは、コステロの率直さ、フットワークの軽やかさだ。ここでのコステロは、いつもにも増して近い声で、バラエティに富んだ曲を軽々と歌いこなしている。音楽すらネットを介して秒単位で消費されて行く2010年代にあって、コステロはあくまで自分のノドから絞り出した生身の肉声を、驚くほど近い場所から僕たちの目の前に差し出し、その近さこそが消費のスピードに対するオレの答えだと言いたげなのだ。

変化の速い時代であればあるほど、変わりようのない本質が問われることになるだろう。だれもかれもがいろんな意匠を身にまとう時代であればあるほど、むき出しの核の強固さが問題とされるだろう。もう余分なものに構っている余裕がない現代にあって、聴くべきものの中心に最短距離で到達しようとする音楽。ポップさという意味ではやや聞き手を選ぶ部分はあるが、有り難がってないで日常に持ち込むのがこのアルバムの正しい聴き方。
 

 
LAMP & STOOL HARCO 8梅

「HARCOは、日本のミュージシャン・青木慶則のソロ変名ユニット」とウィキペディアには書かれている。僕がこの人を知ったのはゴメス・ザ・ヒットマンの関係だったか何だったか。最初に買ったのはベストだったし、その次に買ったのはオムニバスだったので、きちんとしたオリジナル・アルバムを居住まいを正して聴くのはこれが初めてなんだけど、期待に違わぬ音楽的広がり。ジャズ・ピアノをバックボーンにした格調高い音作りだ。

だが、もちろんここで聴くべきなのはそこじゃない。この格調高さを僕たちの日常の地平まで軽々と接地させる青木のポップなソングライティングの方だ。曲自体も決して単調だったり単純だったりする訳ではないのだが、それをあくまで平明なポップ・ソングに仕立てるスタイルは確かな音楽的素養に裏打ちされているからこそ可能なものだ。耳に残るメロディはCMソングの仕事の中で培われたものか、ポップであることへの意志を感じる。

加えて歌詞も、ちょっと甘え声系のボーカルも心地いい。ピアノはもちろんドラムも自分で演奏している。こうしたマルチ系の才能にありがちな小さくまとまる感も見られず、あくまで明快に駆けぬけて行くポジティブな運動エネルギーが印象に残る。残念なのはラストに収録されたトッド・ラングレンのカバーの英語の発音に違和感を抱かずにいられない部分があることくらい。僕たちの日常に、とても自然に寄り添ってくれるアルバムだ。
 

 
とげまる スピッツ 7松

長いつきあいになったスピッツの新譜。彼らの音楽にはメロディやコード感に独特の「アク」のようなものが確かにあるが、比較的平易な進行の中にドラマティックで耳に残るフレーズを忍ばせるセンスはおそらく草野正宗自身も意識していない天性のものかもしれない。今作でも硬軟取り混ぜた曲調の中からリスナーの痛いところを突いてくる大衆性は変わりようもなく、あくまで口語で語る草野の矜持が2010年代にも更新されたアルバムだ。

だが、僕がスピッツに求めているのは必ずしもそうした聞きやすさではない。草野が分かりやすさの裏側にそっと忍ばせた、彼にしか分からない符丁のような歪んだ世界観の端っこや、ラブソングに聞こえる曲に潜むかすかな違和感や破綻こそがスピッツの本質だと僕は思っている。本来ならおかしな歌詞を上質のポップ・ソングに乗せて無理矢理流通させ、イノセントなリスナーをヒィヒィ言わせる極悪バンドだからこそ僕は彼らを支持する。

表層を成り立たせている音楽的な洗練の高度さと、その深層に横たわる独自の眼差しという二重構造は今作でも有効。暗喩に満ちた表現の迷路の中で、僕たちは草野の頭の中に構築された妄想の体系を追体験する。その深みは果てしないが、浅瀬を渡るだけでも十分な音楽体験ができるところがミソで、ビギナーからアディクトまであらゆるリスナーに対応できる懐の深さの進化が彼らの成長に他ならない。みんな意味分かって聴いてるのかな。
 

 
SURFER ROSA Pixies  
TROMPE DE MONDE Pixies  
BOSSANOVA Pixies  
SQUIRREL AND TWENTY FOUR HOUR PARTY PEOPLE... Happy Mondays  
LEISURE Blur  
ONE STEP BEYOND... Madness  
 



Copyright Reserved
2010-2011 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com