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PILGRIMS PROGRESS Kula Shaker 7竹

アルバムを買う前に何かの雑誌のレビューを先読みしたところ、非常に枯れてレイド・バックした内容であることが示唆されていたので二の足を踏んでいたが、レコード屋の試聴機で聴いてみたら思いのほか腰の据わったネチこいグルーヴもあり、もちろんインド趣味も惜しみなく披露されているので結局買った。第一期の頃に比べればもちろん落ち着いた感はあるが、むしろクリスピアン・ミルズの音楽的才能の在処が明らかになった好盤だ。

タメの効いた「Modern Blues」「Figure It Out」などの曲がいいのは当然だが、「枯れた」とか「レイド・バックした」とか言われそうなアコースティックな曲が意外にいい。グルーヴで押すタイプのバンドかと思っていたが、曲の骨格がはっきりしていてメロディが際立っているのだ。彼らがデビュー以来高い評価を受けたのも、決して勢いやインド趣味、70年代趣味の物珍しさだけではなかったのだということが今さらながらよく分かる。

もちろんインド風味も効いていて、それを楽しみにしている人の期待も裏切らない。僕はビートルズの曲の中でもジョージ・ハリスンのインド系の曲は全然嫌いじゃない。シタールの音も好きだ。その立場から言えばもう少しインド入っててもいいような気はするが、曲をきちんと聴かせるという意味ではこの程度のインド風味がちょうどいいのかもしれない。アルバムの最後の方でやや大仰に流れる感があるのは白人ロッカーの悪しき伝統か。
 

 
RPA & THE UNITED NATIONS OF SOUND RPA & The United Nations Of Sound 7竹

もはや「あのザ・ヴァーヴの」という枕詞は不要か、いや、むしろ邪魔か。リチャード・アシュクロフトの新しいプロジェクト、ユナイテッド・ネイションズ・オブ・サウンドのアルバムである。この人のこの存在感というのは日本でいえばだれにあたるのだろうか。そしてこの人が打ち出してくるこの音楽のことを僕たちは何と呼べばいいのだろうか。そこにあるのはもはやアシュクロフト印としかいいようのないような壮大なポップなのだ。

典型的なビート・ポップではなく、もちろんテクノやダンス・ミュージックでもなく、さまざまな音楽がゴッタ煮状態になっているこのアルバムを聴けば、「ユナイテッド」というこのプロジェクトの名前も頷ける。だが、ストリングスを荘重にフィーチャーしたソウルフルなヴォーカル曲を聴いていると、この人の自我がジャンルを超えて果てしなく拡張され、その結果この人の過剰な存在感そのものが音楽として現出していると思えてくる。

誇大妄想すれすれの大風呂敷感は以前から間違いなくこの人の属性としてあったものだが、「ユナイテッド」の名を冠して開き直ったこのプロジェクト作品では、それがよりストレートに出ているだけむしろ好感が持てる。しっかりコントロールしていないとどこまでも「自分」の領域が広がって、結局どこまでが自分か分からなくなってしまいそうな危うさは明らかにロックの範疇だ。そのようなロックとして聴くならこのアルバムは名作だ。
 

 
BUTTERFLY HOUSE The Coral 8梅

このところイギリスから新しく聴きたくなるようなバンドがなかなか出てこない一方で、アメリカからはMGMT、ガールズ、ドラムス、アニマル・コレクティヴ、ヴァンパイア・ウィークエンド、アーケード・ファイアなどもはや聴かざるを得ないような作品が続々と撃ち込まれてくる状況の中で、僕もそろそろ宗旨替えをしなければならないかと思っていたが、そうだ、こいつらがいた、と安心させてくれたのがこのザ・コーラルの新譜である。

前作の時にも書いたと思うが、ここには時代性のようなものは希薄。5年前にリリースされていても、10年前にリリースされていても、あるいはもっと前にリリースされていてもおかしくなかった正統的なメロディとアレンジだけで作られた純度100%のポップ・ロックであり、おそらく10年後にリリースされても同じように評価を受けるだろう。結局音楽の核となるべきものは昔から変わらないし、これからも変わらないのだろうと思わせる。

ドイツにはビールの原料には麦芽とホップと水しか使ってはいけないと定めたビール純粋令という法律が昔からある。ビールの本質はそこにあり、そこにしかないのだとドイツ人は認めている訳だ。同様にこのアルバムもポップの本質だけを追究したらこうなったというような出来。明快で起伏のはっきりしたメロディと、アコースティックでオーソドックスでありながらひねりの利いたアレンジ。ポップの本質はそこにあり、そこにしかない。
 

 
LOVE AND ITS OPPOSITE Tracey Thorn 7松

前作のレビュー(2007年3・4月)を読み返したらあまりにボロクソ書いていて我ながら笑った。「今、もっともダメなアレンジの見本になり得る作品」って、それ、いくら何でも失礼だろ。まあ、それだけ、僕がこの人に求めているものと前作の方向性の間に大きなギャップがあったということだ。では、僕がこの人に求めているものとは何か。それはギリギリまで突き詰めて最後に残った一粒を拾い上げるような絶対的な緊張感に他ならない。

ひとつひとつの音が寸分の狂いもなくそこにあり、少しでもズレてしまうと音楽自体が成り立たなくなるような、絶対零度のように厳密で厳格な世界。そしてそれはそれ故に恐ろしいほど美しい。僕がトレイシー・ソーンに求めているのはつまりそういったものだ。本作は前作とはうって変わって静謐でミニマルなサウンドに乗って、彼女のハッとするほど近く、生々しい声が運ばれてくる。この人の本質は何も変わっていなかったと思わせる。

「次はだれ」と離婚を歌うM1や、「シングルズ・バーにもう一つ空いた席はあるかしら」と歌うM7など、題材は俗っぽいが、おそらく今の彼女に最も切実なテーマはこうしたことなのだろう。それを素直に歌ったからこそこの声の近さ、切実さが生まれたのだろうし、メロディの美しさも逆に際立ってくるのだろう。最低限の楽器で、今、最も自分の近くにあるもののことを歌う。トレイシー・ソーンは間違いなくロックであり続けているのだ。
 

 
THE SUBURBS Arcade Fire 8梅

まあ、僕がアメリカのバンドを基本的に好まないことは以前から公言してきたのだが、こいつらに至ってはカナダのバンドである。カナダ。北米のバンドだということで僕としては当然ヘヴィ・ロック的な重厚なものを想像していたのだが、レコード屋の試聴機から聞こえてきたのは予想を大きく裏切るミニマルなアコースティック・チューンだった。そうでなければ僕はこのアルバムを買わなかったかもしれない。それは意外な出会いだった。

しかし、彼らの音楽はミニマルではあってもシンプルではない。そこには周到に積み上げられた音色の重層的な響きがあり、グッド・ミュージックへの回帰がある一方で、このアルバムは21世紀にロック音楽がどのようにして僕たちの生の実感、半径数メートルのリアリティと切実にフックし得るかという問いに対するひとつの解であるように思える。その答えはひとつではないが、少なくともここに示された選択肢は間違いなく有意なものだ。

このアルバムを聴き進むと、僕たちは彼らの音楽の間口の広さよりはむしろその奥行きの深さに気づくことになるだろう。およそ内省などといったものとは無縁に思える北アメリカ大陸で、こうした多義的な構造の音楽が生まれてくることは興味深い。冷静に聴けばいろんなところからの影響を感じることができるが、それらを統合する素養はオリジナルなもの。その実体は捉え難いが、聞き逃すことのできない重要なモメントを孕んだ作品。
 

 
TOTAL LIFE FOREVER Foals 7竹

もうかれこれ50年以上も前に発明されたロックという音楽のフォーマットがいまだに有効なのは興味深いことだと思う。特にここ30年ほどは、音楽の世界においても技術が進歩したり嗜好が多様化したりして、テクノやらハウスやらヒップホップやらといったジャンルが派生し、演奏も機械が勝手にやってくれるようになったりしたが、それでも伝統的なドタバタしたエイト・ビートを自分たちの手で演奏したがる人たちは後を絶たないようだ。

そして、そのような音楽を好んで聴く人たちもまた絶えることがない。脳波を電気信号に変換することすら不可能ではなくなりつつある21世紀において、ロックはいまだに僕たちの感情のどこかと確実にフックしているのだ。このフォールズが奏でるのも、基本的には伝統的なロックである。それも聴きようによっては非常に緻密で構築的な、情動よりは整合性を重視するような、例えば一面ではトーキング・ヘッズを思わせるロックである。

だが、このバンドが現代にあって評価を受け、支持されているのはむしろ、彼らの音楽が緻密であるからではなく、その緻密さの底が抜けていて、どこかと空気が通じているからなのだと思う。情報密度が上がり社会の回転速度が高くなる現代社会においては、前置きや言い訳や説明といったような、迂遠な修辞はいずれ無用になるはずだ。そんなことを考えさせる率直さ、無防備さこそ、このバンドの新しさであり最大の武器なのだと思う。
 

 
TALKING HEADS: 77 Talking Heads  
 



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