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HERE LIES LOVE David Byrne & Fatboy Slim 6竹

デヴィッド・バーンとファットボーイ・スリムことノーマン・クックのコラボレーション。とはいえ、これはかつてフィリピンの大統領夫人であったイメルダ・マルコスの半生を描いたミュージカルのサウンド・トラックとして構想されたものということで、曲毎に異なる女性ボーカリストが招かれており、デヴィッド・バーンの声が聴けるのは2枚目の6曲めくらい。あとは入れ替わり立ち替わりいろんな女性の声が流れ出してくるという作品。

ファットボーイ・スリムのバック・トラックも自己主張は控えめで、バック・トラックに注意してよく聴けば随所に「らしさ」が出ているところもあるが、普通に聴いていれば普通に流れて行く。敢えてクレジットされなければ彼の手が入っていることも分からないだろう。ファットボーイ・スリムの小気味よいバック・トラックとデヴィッド・バーンの独特のメロディ、ボーカルのマッチングは面白いかも、と思った人には期待はずれのはず。

そもそもなぜイメルダというところからして理解不能だし、仮にそんなミュージカルがあっても見たいとは思わない。その辺が「周縁的なもの」の好きなデヴィッド・バーンらしいところなのだが、僕の女性ボーカル嫌いも相まって、作品として高く買うことはできない。唯一面白いのはやはりデヴィッド・バーンがボーカルを取る上記の「American Troglodyte」。これ聴くとノンテーマで全曲バーンがボーカルのコラボを期待したくなる。
 

 
ISLANDS The Mary Onettes 6梅

80年代に起こったことを今もう一度きちんと説明してみろと言われてもそれは難しい。なぜならそれは僕の15歳から25歳までの10年だからであり、そんな10年のことをきちんと説明できる人間なんて世界中どこを探してもいるはずはないからだ。高校に入り、卒業し、大学に入り、卒業し、就職した。そしてその時期に聴いた音楽はどれも特別な意味を持っている。たとえそれがロック史的には何の価値もないジャンクに過ぎないとしてもだ。

このマリー・オネッツはそんな音楽だ。当時僕が繰り返し聴いたが、あれから20年経った今では僕の記憶にかけらも残っていないたくさんのアルバム、たくさんのアーティスト。時間による棚卸し、洗い替えに耐えられず残ることのできなかった作品たち。ある時期の特別な何かにはフックしても、聴き終わった瞬間に消えて行ってそこに何も残さない音楽。だが、確かに僕にとって特別で重要な何かを含んだ音楽。それが僕の80年代なのだ。

もっともらしく、それなりにメロディもアレンジも洗練されているように思えるのだが、実際にはそこに何の痕跡も残して行かない一過性の音楽、それがこのアルバムだ。聴き終えた後に残るのは一切の無。なぜならここにある音楽は何かと何かの最大公約数であり、ここにしかないものは何一つないからだ。だが、それにも関わらずこのアルバムを素通りできないのは、それが僕の説明困難なアドレセンスに確実にフックしているからだ。
 

 
SHADOWS Teenage Fanclub 8梅

5年ぶりの新譜である。かつてこの人たちはクリエイション・レーベルに所属していて、ブリティッシュ・ギター・ポップの未来はまさに彼らの音楽にあると僕などは思っていた訳だが、考えてみれば名作「バンドワゴネスク」からもう20年近くが過ぎ、ブリティッシュ・ギター・ポップは彼らがいなくても勝手に進歩したり停滞したりしている。要は彼らももはやシーンの最前線に立つバンドではなくなったということだ。それはそれでいい。

そして、そのようなギター・ポップの夢を背負っていた彼らがここにたどり着くまでに、いったい何を削ぎ落とし、何を守り通してきたかが比較的はっきり分かるアルバムになったのではないかと思う。ここにあるのは日曜日の午後の日だまりみたいな束の間のモラトリアム、明日からまた学校や会社があることは分かっていても、取り敢えず夕方までは買ったままになっていた文庫本でも読んでいようというアディショナル・タイムの音楽だ。

具体的に言えば、穏やかで暖かいメロディ、混じり気や濁りのないストレートなアレンジ、そんなギター・ポップのイデアみたいな音楽である。だが、すごいのはここに「上がり」感がまったくないことだ。穏やかなアルバムの中でギターの音だけが意外なほどしっかり鳴っていて、そこにはそのささくれを介してだけ世間とコミットできるこの人たちの業のようなものさえ窺える。何も留保しない音楽の強さを改めて感じさせる意外な名盤。
 

 
THE DRUMS The Drums 7竹

期待の新人だと聞かされていたのでどんなに重厚なヤツがジャ〜ンと来るのかなあと思っていたら、最初の曲を聴いたところで思い切り笑ってしまった。何このペラペラ感は。何この潔癖なまでの素っ気なさは。確かにサーフィンと言われればサーフィンなのかもしれないが、何かもう、そういう形容よりも、手近にあるもので取り敢えず鳴らしてみたらこんな感じになりました的な。でもそれが2010年という「今」をきちんとキックしている。

この複雑に、ブルーにこんがらがった世界をリセットすることは簡単ではないけれど、仮にそれができるとすれば、その方法は決して複雑なものではないはずだ。なぜなら世界の隅々まで届く声はいつも明快なものだから。まるでポップのスケルトンみたいに見通しがよく風通しのいい音楽。もちろんそれがそれだけで通用するためには曲としての並ではない強度が必要なのだが、そこも軽くクリアしているように聞こえるのはシンプルさ故か。

おそらくもう僕たちには難しい顔をして腕組みしている余裕すらないということなのだろう。そんな状況の中で、取り敢えずそこにあるものでシンプルな音楽を鳴らしてみたら、どん詰まりをぶち壊す想定外のエネルギーが生まれたという実例を僕たちは30年ほど前にも見たことがあるはずだ。2010年型の革命は静かに始まり、だれも気づかない間に僕たちの間に深く入り込むのかもしれない。それはペラペラでスカスカの音楽を武器にして。
 

 
SEA OF COWARDS The Dead Weather 8竹

ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトとザ・キルズのアリソン・モシャート、クイーンズ・オブ・ストーン・エイジのディーン・フェティータらが結成したバンドのセカンド・アルバム。ジャック・ホワイトのサイド・プロジェクト的なバンドであり、内容的にはフリー・フォームのモダン・ブルースとでも言おうか、とにかくジャック・ホワイトのブルース的資質が何の遠慮会釈もなくむき出しで炸裂している。傑作と言っていい。

ジャック・ホワイトはこのバンドではドラムをたたいているらしいが、何をやろうがここに暑苦しいくらい盛り込まれているのは彼の音楽的エゴそのものであり、音楽的エゴをそのまま音楽に写し取るだけで店頭に並べられる商品になり得るところがこの人のすごさ。ハード・エッジでもはやブルースと呼ぶのももどかしいような「音楽の塊」が最初から最後まで鳴っていて、この人の頭の中は鳴りやまない音楽でいつもいっぱいなのだろう。

頭の中に新しい音楽があふれてきて、これを演奏して外に出さないと気が狂ってしまいそうだと言ったのはジミヘンだったか。本業でもサイド・プロジェクトでも何でもいいからとにかく毎回すごい勢いで飛び出してくる「音楽の塊」は、それ自体がこの人にとってある種の排泄行為に近いものではないのかとすら思ってしまう。曲が短くアッという間にアルバムが終わるのもカッコいい。凶暴だがインテリジェントで美しく、圧倒的な音楽。
 

 
青春ミラー(キミを想う長い午後) The Collectors 7竹

僕がザ・コレクターズを聴き始めたのは大学生の頃だったと思うので、もう25年以上のつきあいになる。彼らの最初の何枚かのアルバムは僕の成長と分かち難く結びついていて、ひとつひとつの曲に大事な思い出がリンクしている。無様で苦しく、孤独で、自意識だけが有り余っていた僕に、彼らの音楽は寸分の狂いもなく同期した。それは、彼らの音楽もまたコントロールのできない自意識だけが先走りするアンバランスなものだったからだ。

だが、彼らの歌は次第に整理され、バランスの取れたものになって行った。曲は洗練され、メンバーチェンジを経て演奏もしっかりしたものになり、コードは複雑になった。そして、そこからは僕の毎日の生活と直にフックする何かは失われて行ったように思う。しかし、本作では、バランスの悪いやんちゃなコレクターズの顔が少し見えるような気がする。「エコロジー」や「twitter」の無茶振りは是非ともライブで見てみたいと思わせる。

サウンドもいつになくギターがシャキシャキしており、吉田仁プロデュースにありがちな作りこみ感はミニマム。きれいにまとめなくていいからもっと自分の実感に近いところで歌おうというある種のパンク・スピリットが感じられる。難点があるとすれば、いくつかの曲で詩がステロタイプな処世訓やオヤジの説教に堕してしまっていること。暗いと不平を言うより進んで明かりをつけようなんて加藤ひさしが言い出すとは思わなかったわ。
 

 
世界のアロハ・ブラザース アロハ・ブラザース 6梅

アロハ・ブラザースは杉真理と村田和人のユニット。タイトル通り世界旅行をモチーフに、世界のさまざまな音楽の形式を借りながら、軽妙なユーモアとコンスタントに質の高い音楽で地球を一周するという、いわばノヴェルティ・アルバム。行き先はハワイ、ジャマイカ、メキシコ、ロシア、インド、フランス、スコットランド、西海岸、バリ…。途中、何カ所かには杉によるコントが挿入され、ゲストとのナンセンスなやりとりが楽しめる。

もちろん、世界一周といっても本格的なワールド・ミュージックという訳ではなく、いかにも杉らしくアレンジされた異国調のドメスティック・ポップ。僕たちがここに出てくるような地名を耳にしたときにふと連想するベタな疑似ワールド・ミュージックだが、このアルバムを買う我々はもともとそれを聴きたい訳だからだれも文句は言うまい。そしてそういった種類の和風ワールド・ポップスとして極めてよくできていることは間違いない。

このアルバムはその音楽の革新性とか先進性で評価されるような類の作品ではない。最初にノヴェルティ・アルバムと書いたとおり、あるいはまたここで演じられるコントが如実にそうであるとおり、このアルバム全体が壮大な楽屋落ちであり内輪受けなのである。結局のところ、このアルバムをどう評価するかは、その内輪受けを許せるかどうかということに他ならない。オーソドックスな「浜辺のあの娘」がいちばんいいのもまた道理だ。
 

 
HOME SWEET HOME 山田稔明 9竹

前作「pilgrim」と対をなすソロ第2作。タイトル通り「家路」をテーマにした作品である。もちろん、僕たちにとって「ホーム」はただの「家」ではない。それは、僕たちが限りない旅の途中で、ひと仕事を終えて疲れ果てるたびに立ち戻っては自分の成長を見定める「根拠地」だ。山田はここでそんなホームのことを歌う。君が笑ってくれるなら、そこが僕の帰る場所だ、と。ホームはここにあり、どこにもない。どこにもなく、ここにある。

だからここにあるのは、自分の今を確かめ、自分が今立っている場所、自分が今ここにいる理由、根拠を自分自身に問い直す音楽だ。ホームに帰るというのはそういうことであり、それは外へ飛び出し、旅路をさまようことと同じくらい未知の冒険なのだ。「さあ、ここで」と山田は細い声で歌う。自分が今いる、今、ここで。それは自分の今を改めて受け入れ、ここで地面に立つことを肯定する覚悟だ。僕たちは不意をつかれてはっとする。

家路は即ち自分の内側への旅路。時にはレイドバックしているとすら感じられるカントリー色豊かなアコースティック・アルバムだが、そこで歌われる認識はどれもどんなハードロックよりも硬質で、自分自身とのギリギリのせめぎ合いの中から直接に立ち上がってきたものであり、まさにロックとしか呼びようのないもの。細い声で歌われる物静かなロック。言葉を頼りに、僕は生きて行こう。細い声で、細い肩で、僕たちは生きて行ける。
 

 
THEM CROOKED VULTURES Them Crooked Vultures  
AROUND THE WORLD IN A DAY Prince And The Revolution  
ALL WE NEED IS LIVE The Collectors  
 



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