logo 2010年3・4月の買い物


PLASTIC BEACH Gorillaz 8梅

今さら言うまでもないことだがブラーのデーモンのソロ・プロジェクトであり、カトゥーン・キャラクターをフロントに使った架空のバンドの3枚目のアルバムだ。前2作と同様、ラップ、ヒップホップなどのストリート・カルチャーを主なバックボーンとしながらも、全体としては多彩なエレクトロ・ポップに仕上がっている。ゲストもスヌープ・ドッグ、デ・ラ・ソウル、マーク・E・スミス、そしてルー・リードと豪華なラインアップだ。

この作品を聴いて改めて感じるのはやはりデーモン・アルバーンの確かなバランス感覚だ。ゴリラズという意匠を借りることでデーモンはより自由に、より奔放にその才能を解放しているようにすら見える。おそらく単純にソロ名義で音楽を作るのとは違うのだろう。架空のバンドというフィルターをいったん通すことで、デーモンは自分を対象化し、その表現を整理して、最も効果的なフォーマットに落とし込むことができるのかもしれない。

ややもすれば過剰になってしまう自意識や、絶えず進歩しなければならないという強迫観念をコントロールするためにこのゴリラズというスタイルは有効だし、それはゴリラズはデーモンだということが分かっても、いや、分かったからこそより効率的に機能しているのだと思う。自分の外側にそのような第二のエゴを設定することで自分をプロデュースする男。それはこの男なりの「孤独」ということの引き受け方なんじゃないかと僕は思う。
 

 
MERRIWEATHER POST PAVILION Animal Collective 7松

昨年の2月にリリースされたアルバムで、例えば「ロッキング・オン」の年間ベスト5位にランクされるなど、各誌でおしなべて高い評価を得た作品だ。音楽的にはキラキラしたエレクトリックな音の粒がグルグルと空間を漂うようなサイケデリアであり、間違いなくオルタナティブなのに恐ろしく正統的なポップかつロック。僕はこの人たちのアルバムを聴くのは初めてだが、確かに高評価を受けるのも当然のコンテンポラリーなサイケである。

このサイケデリアが際だって今日的なのは、例えばドラッグの影響の下で知覚を人工的に歪ませた20世紀後半のサイケデリアに比べて、これがあまりに真面目で自然であり「素」の音楽であることだ。もちろん、実際にはドラッグをキメてレコーディングしているのかもしれないが、かつてサイケに不可避的に付帯していた反社会性や非社会性、厭世観は希薄である。21世紀では、「健康的なサイケ」はもはや語義矛盾ではなくなったらしい。

そこにはむしろ、すべての問題をいったん個人的な問題と措定した上で、こうした非ロック的なロック解釈を通じてそうした問題を正面から引き受けようとする肯定的な意思を感じる。このような音楽がアメリカの巨大な音楽市場でしっかりと自己主張し、一定の位置を占めているのは驚くべきことだ。旧型サイケが三途の川を渡って彼岸に行ってしまうことを目的とする音楽なら、このアルバムはそこから帰還することまでを内包した音楽だ。
 

 
CRIMINAL ART LOVERS Northern Portrait 8竹

もしあなたがこのバンドのことを何も知らないなら、まずは黙ってどこかでこのアルバムの何曲かを試聴してみて欲しい。iTSでも試聴できる。そして、これが「何に聞こえるか」を教えて欲しい。僕はこれを渋谷のHMVの試聴機で聴いてひっくり返ってしまった。ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートの時も相当ひっくり返ったが、これも相当の抱腹絶倒である。なぜなら、これはもうザ・スミスそのものなのだから。

キラキラしたギターのアルペジオ、テンションを含んだコード感、そして何より時折裏返してみせる非ロック的な歌い上げ系のボーカル、これは間違いなくジョニー・マーであり、モリッシーであり、そしてザ・スミスの生まれ変わりだ。本人たちはデンマークのバンドらしく、ふだんは北欧産には手を出さないのだがついつい買ってしまった。本人たちのその辺の認識がどうなのか分からないが、ラトルズのレベルの「芸」と言っていい。

彼らが真面目に音楽で食って行こうとするなら、この路線はあまりにリスキーである。だが、ラトルズがそうであったように、ここには色モノ、キワモノと片づけてしまうことのできない音楽的な裏づけと、ルーツへの深い憧憬があるようにも思われる。このアルバムを何度も聴き返したくなるのは、そのニセスミスぶりを楽しみたいからだけではないはず。このスタイルにどれだけ自分たちのオリジナリティを乗せられるかやってみて欲しい。
 

 
DO THE JOB Baddies 7竹

ロボパンクなんだそうだ。ディーヴォを意識した揃いのコスチューム、フランツ・ファーディナンドやクラクソンズ系のダンサブル・ロック、そしてオフスプリング的なガレージ感、これらを総称して「ロボ」なんだそうで、何となくニュアンスは分かるような分からないような。そう言われて聴いてみれば、確かにヘヴィなリフにポップなメロディを乗せてグイグイとドライブして行くやり方はコンテンポラリーかつ自覚的な手口だろう。

だが、多くのグルーヴ系、ダンサブル・ロック系のバンドがどうも大仰な構築に向かいがちに思えるのに対して、こいつらはグルーヴというよりはあくまでビートを最終的な拠り所にしたパンクの遺伝子を強く感じさせる。特に『Holler for my Holiday』という曲の「Holiday」という単語の連呼は確実にピストルズの『Holidays in the Sun』を想起させる。そういえばピストルズも音楽的には驚くほどオーソドックスなビートポップだった。

だが、もはやあらゆる情報が並列で等価な10年代にあっては、パンクもまた目の前に並べられた選択肢のひとつに過ぎない訳だし、そこで敢えてこれを選び取らねばならない切実さは70年代と比べれば明らかに後退してしまっている。その中でこのバンドにつけられたハッシュタグが「ロボパンク」みたいな一時しのぎではさすがにちょっと寂しい。音楽的には繰り返し聴くに耐える力があるだけに、マルコム・マクラーレンの意見が聞きたい。
 

 
BABY DARLING DOLL FACE HONEY Band Of Skulls 7竹

ドクロ団を名乗るイギリスのブルース・バンドである。いや、そもそもブルースって何なんだろう。僕はよくこのレコード評で「ロックとは何か」的なことを書くんだけど、ブルースもそれと同様、音楽ジャンルのようであり、一応の音楽的な定義も可能でありながら、実際にはブルースを愛し、求める人の数だけ答えがあるような、そんな術語なのだ。僕には僕の、君には君のブルースがある。ヘントフの「ジャズ・カントリー」みたいだな。

で、このドクロ団の人たちがブルースの文脈で語られるのは、やはりその、重く引きずるような、直線的なビートでは解消しきれないいろんな種類、いろんな形の出っぱりや引っこみをリズムの重量で表現しようとする姿勢にあるのだろう。実際、男女2名でこれ以上はないというブルースをたたき出すホワイト・ストライプスのマナーを踏襲する部分もあって、非常に正統的でありながら今日的な、王道でありながら周縁でもあるブルースだ。

だが、特徴的なのはひとつひとつの曲がありがちな独善に陥らず、きちんとポップで聴きやすいこと。小ぎれいにまとまっているという言い方もできるかもしれないが、小難しいものをありがたがる人たちも少なくないことを思えば、この開かれ方は歓迎するべきものではないかと思う。開かれたブルースというのは語義矛盾なのだろうか。仮にそうだとするなら別にブルースでなくたっていい、と言い得るだけの実体は十分に備えている。
 

 
WAKE UP THE NATION Paul Weller 8竹

会社で上司に怒られるヤツというのは決まっていて、その顕著な特徴のひとつが「上司の質問に端的に答えない」。何かを質問されるとまず細部や経緯や例外の説明から入り、全体を過不足なく説明しようとするのだが、上司はたいていそこまで気が長くないので、オレの質問に答えてない、ということになって結局最後まで説明させてもらえない。担当者としては端折れない細部や経緯や例外は、上司にとってはどうでもいい枝葉に過ぎない。

世の中をきちんと知るためにはもちろん細部や経緯や例外は大切なものなのだが、僕たちの持ち時間が砂時計のようにどんどん滑り落ちて行くこの2010年にあっては、もう細かいことには構っている余裕はない。もう何かに気を遣ったり配慮したりしている場合じゃない。答えだけを端的に、簡潔に言え。分かるヤツだけ、ついてこられるヤツだけ一緒に来ればいい。このポール・ウェラーの新譜はそういう、気の短い上司のようなアルバムだ。

全16曲のうち、3分を超えるのは4曲のみ。次から次へと、イントロももどかしく繰り出されるこれ以上ないウェラー印のロックの凝縮版。J.G.バラードのコンデンスト・ノヴェルというのがあるが、これはまるでコンデンスト・ロック。もちろん暑苦しく、テンションが下がる隙間は一切与えられないので40分を聴き通すとぐったり。でもいい。ちっちゃいことは気にすんな。「そんなの関係ねぇ」と看破した小島よしおはやはり正しかった。
 

 
A-Z VOL.1 Ash 8梅

A-Zシリーズと銘打って隔週で新曲をダウンロード・リリースする企画の前半13曲をまとめたアルバム。2009年10月から2010年3月までにリリースされた曲に、サブスクライバーにボーナス・トラックとして配布された曲を加えて構成されている。僕はこのCDが出て初めてそんな企画が進行していたことを知ったくらいで、まだまだCDという物神崇拝から抜け出せないオールドタイマーなのだが、このフォーマットは果たして何を意味するのか。

アッシュと言えばもともとメタリックとすら形容し得るほどのヘヴィなリフをベースにしながら、みずみずしいメロディとパンキーなボーカル、そして淀みのない疾走感で、奇跡のようなポップさを惜しげもなくたたきつけてくる希有なバンドであり、ブリティッシュ・インディの至宝とも言うべき存在。彼らのその特質は、隔週ダウンロード・リリースというこの性急かつ実験的なフォーマットでよりラジカルに開花したのではないだろうか。

なにしろ全曲がシングルなのでアルバム全体の緩急とか構成とかを無視したハイテンションなポップが次から次へと流れ出してくる。隔週で新曲のリリースを心待ちにするのはきっと楽しいと思うが、これだけためておいて一気に聴くのもかなりダイナミックな悦びだ。いうまでもなく新しいメディアは新しい表現、新しいコミュニケーションを作る。この性急さ、この一発勝負感の集積は彼らに似つかわしい。清々しい前進の仕方だと思う。
 

 
CONGRATULATIONS MGMT 7松

デビュー作がかなりハイプな持ち上げられ方をしたデュオのセカンド。だれしもファーストの桃源郷的なサイケデリア、スタンダードなアート・フォームから知らない間に少しずつ乖離して行き、気がつくと随分遠くまで来ていたというような逸脱の仕方が印象に残っていると思うのだが、その頭で本作を聴くといきなり少し戸惑うことになる。エイトビートに導かれて始まるのはあからさまなサーフ・ロック。思ってたのとはちょっと違う。

もちろん、深いリバーブがかかって彼岸から聞こえてくるようなボーカルはファーストから特徴的なものだし、サウンド・プロダクションは間違いなく2010年型のエレクトロニカなんだが、端的に言ってしまえばこれは40年タイム・スリップしたブライアン・ウィルソンあるいはトッド・ラングレン。色鮮やかなサイケデリアは健在だが、そこにはもっと根源的な楽曲本位への傾倒があり、すべての音がより明確な意図の下に鳴らされている。

マッチョイズムからは最も遠いところにあるような中性的なボーカルが、単純明快なエイトビートに乗ってくるのは意外な快感だ。ファーストからの短い時間で、自分たちの持ち物の中から何を手がかりに次を探しに行くべきかの整理がなされたように思えるし、その取捨選択は間違っていなかった。このままどんどんシンプルなロックに近づいて行くと面白いと思う。その方が彼らの何が特殊であるかが一層明らかになって行くだろうから。
 

 
KEEP ON YOUR MEAN SIDE The Kills  
ORIGINAL GOLDEN GREATS Brinsley Schwarz  
FRESH Sly And The Family Stone  
LIVE AT HOLYWOOD HIGH Elvis Costello  
 



Copyright Reserved
2010 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com