logo 2010年1月の買い物


IGNORE THE IGNORANT The Cribs 7松

「MUSIC MAGAZINE」で2009年UKロックのベスト・ディスクに選ばれていたことから買ってみたアルバム。もとは三人の兄弟でやっていたイギリスのストレートなロック・バンドらしい。これまでの3枚のアルバムを発表しているということなのだが正直知らなかった。僕のストライク・ゾーンに入っておかしくない路線なのに、最近その辺りを真面目に掘り起こす作業を怠っていて、そのせいで見過ごしていたバンドのひとつなのであろう。

今回、バンドには新たにギタリストが加わった。それだけなら「へえ」ということなのだが、そのギタリストがジョニー・マーだということになると話は変わってくる。もちろんバンドにとって強力な新ギタリストには違いないだろうが、そこにはあまりに大きな「意味」が良くも悪くも生まれてくる。ただの上手いギタリストが入りましたでは済まないニュース・バリューがあり、純粋に音楽を聴いてもらうにはそれはリスク要因でもある。

ジョニー・マーの加入をバンドとして消化した上で、その意味を音楽的に納得させるだけのアルバムを作ることはもちろん簡単ではないだろう。しかし、ここではひとつひとつの曲そのものがマーのギターをその個性も含めて引き受けた上でひとつの有機的な作品として完結している。マーの時として特徴的なギターが、その特徴をたたえたまま彼らのアンサンブルに実に自然に融合しているのである。もしかしてスミスよりいいかもしれない。
 

 
ALBUM Girls 8梅

さて、これは雑誌「SNOOZER」の年間ベストに選ばれていたことから買ったアルバム。アメリカの人たちなので例によってかなり二の足を踏んでいたのだが、他でも結構評価が高く思いきって買ってみた。いや、聴いてみたら中身はいいだろうというのは分かっていたのだが、この種の、アメリカからしか出てきようのない才能みたいなものを見せつけられるのが憂鬱だったのだ。サッカー的に言えばフィジカルで負けてる感じとでも言うか。

いろいろなものを積み上げ構築することで成り立つ表現と、余計なものをギリギリまではぎ取って最後に残ったもので成り立つ表現とがあるとすれば、こいつらは紛れもなく後者だ。そういう意味ではミニマルでストイックな音楽なのだが、そこに何か楽観的な響きがあるのは西海岸の気候のせいなのか。スタイルとしてはジザメリに酷似している部分もあるが、生というものに対する執着、何とかしたいという欲求ではこちらの方がまとも。

とはいえ、これが何かを「通り過ぎた」後の音楽であることは間違いない。あらゆるカタログだけが果てしなく垂れ流されて実際には何一つ選べない、後退不能の袋小路に向かって突き進む僕たちの世界への冷徹な視線があり、しかしそれでも音楽というものの(限定的ではあれ)有効性や記名性を手に何かと引っかかりたいという意外とピュアな衝動がそこに見えているからだ。そういう衝動がきちんと才能と巡り会う場所がアメリカなのだ。
 

 
TURN ONS The Hotrats 7松

ひとことで言ってしまえばスーパーグラスのサイド・プロジェクト。スーパーグラスのギャズとダニーにあのナイジェル・ゴドリッチを加えた三人組が古今の名曲をカバーするという趣向のアルバムである。これを聴いて思うのは、優れたミュージシャン、優れたプロデューサーというのは、時として熱心なリスナーでもあるのだということだ。こうしてカバーをやるときの選曲に、彼らの音楽の出自がはっきり表れているのが面白いと思う。

ヴェルヴェッツに始まりキンクス、ドアーズ、ボウイ、ロキシーから、キュアー、コステロ、スクイーズ、そしてピストルズ、ビースティーズまで。実に正統的な選曲であり、それがまた、意外なほどまっすぐ中央突破のロックを鳴らしているスーパーグラスの成長の軌跡ときれいに重なり合う。原曲を聴いていないものもあるが、アレンジはオーソドックスで曲によってはかなりオリジナルに忠実。そこに彼らの誠実さと自信が垣間見える。

何より彼ら自身がリラックスして楽しんでいるのがいい。そしてリラックスして楽しんだパフォーマンスがきちんと売り物として成立するクオリティを維持できているのはナイジェル・ゴドリッチの仕事だろう。趣味に流れずパッケージとしてのボトムラインをきちんと作りこんでいるからそこにある種の客観性も生まれてくるのだ。未開の地平を拓く訳ではないが、繰り返して聴くに足りる好作品。ピストルズのカバー『E.M.I.』がいい。
 

 
KEEP CALM AND CARRY ON Stereophonics 7竹

前作のレビューを読み返したら、これから書こうとしていたこととあまりに同じで笑ってしまった。そのままコピペして終わりにしたいくらいだ。重心は低いがポップで独特の陰影を備えた島国系のメロディやサウンド・プロダクション、ケリー・ジョーンズの特権的な声、期待を裏切らない作品である、だが、ステレオフォニックスはこの先何を武器にどんな戦い方をして行くのかが今ひとつ見えない、そんなことを2年前の僕は書いていた。

彼らの音楽に対する僕の基本的な認識はその頃からあまり変わっていない。そして今作でもこうした彼らの特徴は健在だ。今風に言えば「普通にいいアルバム」。だが、今作では重厚でうねるようなヘヴィなギターの響きは抑制され、軽快で親しみやすいポップ・ソングが増えたような気がする。アルバムとしての完成度は高いが、その分、このバンドの特徴のひとつであるアーシーなアメリカン・ルーツ的なワイルドさは陰を潜めたようだ。

僕としては大陸的な骨太さ加減と海峡的な湿り気を帯びた繊細さのバランスこそがこのバンドのコアだと思っているので、そういう意味では本作は楽しくはあるもののややポップにまとまり過ぎて物足りない感じがする。だが、それがただの無記名なブリティッシュ・ポップの枠をはみ出しているとすればそれは間違いなくケリー・ジョーンズのこの声のせいだろう。結局ステレオフォニックスとはケリーの声次第ということなのだろうか。
 

 
CODEINE VELVET CLUB Codeine Velvet Club 8竹

ザ・フラテリスのボーカリストであるジョン・フラテリことジョン・ロウラーがルー・ヒッキーという女性シンガーと組んだサイド・プロジェクトである。持ち前の気持ちのいいロックンロールを基調にしながらも、フラテリスの時とは異なったオーケストレーションの広がりや、背景としてのクラシック・ポップへの言及など、より自由に、ゴージャスに遊んでみた結果、非常にレンジが広くレベルの高いポップ・アルバムに仕上がった。

これを聴けば、フラテリスのシンプルでストレートなロックンロールがどれだけの豊かな音楽的バックボーンに裏打ちされていたかが改めて実感される。フラテリスがスリーピースでオーケストラを奏でることができるのは、ジョン・ロウラーの頭の中で初めからオーケストラが鳴っているからなのだということを実証して見せたアルバムである。このソング・ライティングや構成力は10年、20年のレンジでこの世界に残って行くべきものだ。

素晴らしいのはすべての曲において迷いとか躊躇のようなものが微塵も窺えないこと。どの曲も、目標とする一点に向けて少しの無駄もなくまっすぐに組織されており、そこにはジョン・ロウラーの「これでいいのだ」という明快な確信がある。それこそが表現の強度であり、フラテリスのアルバムにも顕著だった突破力とか説得力の本質に他ならない。フラテリスの成功が決してフロックでもハイプでもないことを側面から示した快作だ。
 

 
IRM Charlotte Gainsbourg 7竹

僕のCD棚にはこの人のデビュー・アルバムがある。まだローティーンであった彼女が、実の父親であるセルジュ・ゲンズブルのプロデュースでどう聴いても音域や声量を完全に超過した歌唱を強いられ、結果として息も絶え絶えにヒィヒィ喘がされた過酷な作品で、これが児ポ法にも抵触せず21世紀の今日でもカタログに載っていることが奇跡とすら言えるような不穏当で無茶苦茶な作品である。これを大学生の時に生協で買った僕は偉かった。

今作はそれから20年以上を経てリリースされた3枚目のアルバム。2006年にリリースされた2枚目はエールのプロデュースでまず穏当なポップスに仕上がっていたが、今作ではベックと組み、聴きようによってはシャルロットがボーカルを担当したベックのアルバムと言ってもおかしくないような作品になった。そしてこれがまた―まあ、ベックの作品だから当然なのだが―あのデビュー・アルバムとは違った意味で不穏な作品なのである。

このミニマルかつラウドな独特の音の触感は紛れもなくベックの名前がはっきりと刻まれたものであり、物心ついたときにはすべてのフォーマットが目の前に並列に提示されていて、そこから何でも自由に選ぶことのできた世代でなければ鳴らせない類の音楽だ。部長も課長も係長もないフラットな音楽なのだ。難点はついそっちを聴いてしまって肝心のシャルロットの声の印象が薄いこと。もっとシャルロットの口から洩れる息を聴きたい。
 

 
TRIANGLE Perfume 8梅

この人たちについてはもういろんな人がいろんなことを言い尽くしてきたと思うので、僕が今さら何かを書くのも意味のないことかもしれないが、それにしてもこの覚醒感について何か書いておかない訳には行かない。もちろんテクノを歌うアイドル・ユニット程度の予備知識は僕も持っていたし、紅白で「ポリリズム」や「ワンルーム・ディスコ」を聴いて興味はあったのだが、それでもこれはアイデア勝負の企画ものだと思っていたのだ。

だが、アルバムをきちんと聴いてみて、これがいろんな音楽誌でこぞって取り上げられる理由が少し分かったような気がした。つまり彼女らは、たまたま三次元のナマ身を持つ初音ミクなのではないか。彼女らは合成音声をシミュレートする肉声なのではないか。このあらかじめ剥奪された実存性の残滓としての肉体、そこから逆説的に再生するデジタルな肉感の生々しさはどうだ。これはリアルがバーチャルをシミュレートする倒錯のスリル。

もちろんそれは中田ヤスタカの卓越した音楽的な地力のなせるワザであり、ひとつひとつの曲がそのデジタルな意匠の背後に隠し持つ恐るべき叙情性を忘れることはできないが、その中でも「edge」は圧巻のヤバさ。これとて2008年の曲だから今さらだろうがこのリフレインのポップさ、そして突然のブレイクで「誰だっていつかは死んでしまうでしょ」と言い放たれる瞬間の甘美なショック。これは機械の身体を手に入れた少女たちの神話だ。
 

 
告白 チャットモンチー  
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BLEACH Nirvana  
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