彼らの新譜が出る度に「出来は悪くないがもはやエコバニではない」といったような保守反動的というか回顧主義的というかイアン・マッカロクが読んだら確実に気を悪くしそうなレビューを書き続けてきたが、今作もそんな作品に仕上がった。実際、ギター・ポップとしての出来は「悪くない」を通り越して「良い」。鮮烈なギターの響き、絶妙なタメとキメ、印象的なメロ、そしてタラコ唇から発せられるあの声、これはかなりの良作だ。
しかし、それでも僕はこの作品に苛立たざるを得ない。少年期の潔癖さをそのまま音に置き換えたような、世界への歩み寄りを予め拒絶した絶対零度の音楽を鳴らしていたエコバニの名前は、果たしてこの薄汚れた2010年に持ち出され得るのか、と。そしてさらに僕を逡巡させるのは、この良くできたギター・ポップが、しかし、今、僕の立つ地平とどこで繋がっているのかが見えないことだ。この音楽はまるで彼岸で鳴っているようなのだ。
そう、この音楽はこれから世界と渡り合いに行く音楽ではない。そうした闘争とは無関係な地平で、ただ音楽それ自体のために鳴っている音楽なのだ。そしてその是非を論じることは虚しい。なぜならそれを論じることは結局僕が今ここで何をしているかを問うことだからだ。僕が世界との闘争だと信じているこの日々の意味を問うことに他ならないからだ。そのような困難さをすべて引き受けて鳴らされたという前提でなら、これは名作だ。
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