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WILCO (THE ALBUM) Wilco 7松

ウィルコというバンドについては正直多くを知らない。アメリカのバンドだし、顔だって見たことないし。だが、オーソドックスなカントリー・ロック、フォーク・ロックを背景にしながらも、今日的な音楽状況、危機意識に自覚的であり、予定調和に鋭利なひっかき傷をつけることでそれを表現しようとする彼らの意図はよく理解できたし、何よりそれがポップ・ミュージックとして高いレベルで成立していたのは間違いのないことだった。

しかし、今作ではそうしたひっかき傷の痕跡は希薄だ。そうした予定調和への挑戦、何かを敢えて歪めずには喚起することのできない景色を彼らの原風景として共有していたリスナーには、幾分肩すかしのような、意外なほどオーソドックスなロック・アルバムに聞こえるかもしれない。ここでは、丁寧に練り上げられた歌が、まるで今生まれたばかりの赤ん坊のようにみずみずしく、最低限の楽器編成で、ただそこにあるがままに歌われる。

この軌跡はティーンエイジ・ファンクラブと通底するものがある。そして僕は、彼らのこの変化は受け入れられるべきものだと思う。なぜなら、そこにある音楽そのものが聴くに値する豊穣なものだからだ。彼らは意匠を剥ぎ取ったら何も残らない空疎なアーティストとは違う。カントリー、フォークという彼らの出自に忠実でありながら、その忠実さをメロディの前衛と呼応させる点でこのアルバムはロックであり、彼らの成熟の証なのだ。
 

 
PANDEMONIUM ENSUES Glenn Tilbrook And The Fluffers 7松

もはやスクイーズのグレン・ティルブルックと説明してもスクイーズを知る人自体が少なくなってしまっているかもしれない。僕が初めて彼らの音楽を聴いたのは1987年リリースのアルバム「Babylon And On」だったから、それからもう20年以上が経った訳だ。スクイーズは、パブ・ロック的な尻尾を引きずりつつも、老成した職人的世界に自閉せず、小気味よいブリティッシュ・パワー・ポップをたたき出す非常に良心的なバンドであった。

そのスクイーズで作曲とメイン・ボーカルを担当していたのがこのグレン・ティルブルックである。これまでのソロでは持ち前のソングライティングで高い水準のポップ・ソングは披露するものの、最後に振りかけるバンド・マジックという魔法の粉が欠けている感が否めなかったのだが、今作はフラファーズというバンド形式で制作したからなのか、作品のレンジがグッと広がり、分かりやすく良質なポップ・アルバムに仕上がっている。

幅広く奥深い音楽的引き出しを自在に開け閉めして、まるで衣装を合わせるようにそれぞれの曲にアレンジやサウンドを合わせて行く。その点においてこのアルバムは多くのアーティストが望んでも簡単には到達し得ないポイントを軽く凌駕している。ビートルズ直系の美しいメロディに、しかし聴けばこの人と分かるクセをしのばせる手管もある。そして少し鼻にかかったような、耳に残るボーカル。魔法の粉の在処を思い出したようだ。
 

 
TWO SUNSETS Pastels / Tenniscoats 5竹

一部の人には激しく偏愛されているネオアコの裏ボス的な存在であるパステルズ。2003年にほとんどインストのサントラをリリースして以来の作品となる本作は、日本のポップ・ユニット、テニスコーツとの共作である。もはやあのヘロヘロでガチャガチャなギター・ポップを期待していた訳ではないのだが、そこは頭が拒んでも身体が反応するというか、この人になら何度騙されてもいいのというか、そんな感じで思わず買ってしまったのだ。

まあ、だいたい日本のユニットとのコラボとかいう時点で脳内でアラームが鳴るべきだったのだが、思った通りこれはまた、パステルズの名前が冠されていなければ絶対に聴かない類の緩いアルバムだった。あの、僕たちが勝手にロックとかポップとかいって頭の中に作り上げたボトムラインを嘲笑うように越えて行く逸脱感の面影はところどころには残っているものの、全体としては箱庭インディ・ポップと呼ぶしかないチマチマした作品だ。

ヘタなのか上手いのか分からないような日本語の女性ボーカルが流れ出してくるだけで僕的にはギヴ・アップに近い。ここにあるのは実体のないただの雰囲気であり、限りなく自閉したお約束の世界だ。外国人には可愛く不思議に響くのかもしれない日本語詩も僕たちには興ざめ。化石化したグラスゴー・スクールが極東での局所的な人気に便乗するのを見るのは悲しい。いよいよアノラックからパステルズ・バッジを外すときがきたようだ。
 

 
LET'S CHANGE THE WORLD WITH MUSIC Prefab Sprout 8梅

何しろタイトルが「音楽で世界を変えよう」だ。プリファブ・スプラウトの新作は1993年に製作したが結局リリースされずお蔵入りになったテープを、今や一人プリファブ状態となったパディ・マクアルーンがもう一度丹念にリプロデュースして完成させたものと言われる。したがって完全な新作という訳ではなく、日の目を見ずに残っていた音源のリサイクルとでも言うべき作品である。アルバム「Jordan:The Comeback」の次に来る作品だ。

だが、これが単なるアウトテイクという訳ではないことは一聴して明らかだ。ここにあるのはあまりに美しく、あまりに純粋な音楽の結晶である。それは僕たちがプリファブ・スプラウトの音楽を聴くときに必ずそこに求めるものであり、そして必ずそこにあるものである。それは何らかの事情でたまたま仕舞いこまれていたものの、その音楽の持つ普遍的な力は十数年の年月を経てもいささかも古びてはいない。この作品は期待を裏切らない。

深みをたたえたサウンドスケープ、ドラマティックでありながら親しみやすいメロディ・ライン、どこかにひっかき傷を残して行くような声、どれもが間違いなくプリファブ・スプラウトだ。ここに目新しいものは何もない。しかしそのことでこのアルバムの価値が損なわれることはない。なぜならそこには16年のブランクをすら超えるポップ・ミュージックの「イデア」があるからだ。凄みをすら感じさせるポップの本質を聴くべき作品だ。
 

 
HUMBUG Arctic Monkeys 7竹

アークティク・モンキーズのアルバムもこれが3作目。独特の節回しとリズム感を引きずるようにしながらすごいスピードで駆け抜ける特徴的なスタイルもそろそろ真価が問われ始める頃。音楽自体の質量とその運動速度の積がロックとしてのエネルギーの総体なら、彼らの場合はその両方を兼ね備えていたことによって高い評価を得てきた訳だが、その両方をずっと拡張し続けるのは至難の技であり、何らかの整理が必要になる時期である。

そういう意味でこのアルバムで彼らは実に正しく成長しているといっていいだろう。闇雲なスピードや楽観的な無邪気さは後退し、正面に出てきたのは音楽としての深まりでありソングライティングへの傾倒である。それはつまり彼らがハイプ期を脱し、ストロング・スタイルのロック・バンドとして次へ行こうとする意思表示に他ならない。聴くだけで彼らだと分かってしまう個性はそのままに、本当に必要なものを吟味した形跡が窺える。

もちろん、その分爽快感とか疾走感、痛快感は正直失われ、アルバム全体の印象は重たいものになっている。そう、この道は正道、王道であるが故にそれだけの資質、技量が伴わない者には極めて険しいのだ。彼らにこの道の真ん中を行くだけの実力があるかどうかはこれから試される訳だが、今作を聴く限り少なくともその資格はあると言っていいだろう。もともと音楽的には密度の高いものを作っていた人たちで、この方向感は悪くない。
 

 



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