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SECRET, PROFANE & SUGARCANE Elvis Costello 8梅

老いてますます盛んというか何というか、休むことを知らないかのようにアルバムを発表し続けるエルヴィス・コステロの新譜。作品ごとに目まぐるしく作風が変わるのもいつものことだが、今回はカントリーのカバー集だったアルバム「ALMOST BLUE」に連なる、作品はオリジナルだが中身はベタベタのカントリー・アルバム、なのだそうだ。プロデュースはかつてアルバム「KING OF AMERICA」を手がけたTボーン・バーネット。そういえばあのアルバムも素晴らしくダウン・トゥ・ジ・アースだった。

確かにそう言われて聴けば間違いなくカントリー・アルバムなのだが、そういう事前情報なしにこのアルバムを買ってきていきなりオーディオにセットしたら、流れ出すのはカントリーではなくコステロの歌声だ。もはやこの声、この節回し、この手クセはエルヴィス・コステロというひとつの独立したジャンルであり、今作はたまたまその中でもカントリー編であるに過ぎない。これまでも弦楽四重奏編とかオペラ編とかいろいろあったが、今作もコステロにしてはささやかな振幅のひとつに過ぎない。

この程度のカントリー臭い曲はどのアルバムにも入っていたりするし、何か今までと違うことをやっている訳ではまったくない。それより聴くべきは、どんな趣向で歌われても決して失われることのないコステロの類まれなソングライティングの力とボーカルの表現力だ。カントリーって地味だしとか思ってこの作品を敬遠するとしたらそれは間違いなく大きな損失だ。カントリーを知らなくても、カントリーが嫌いでもこのアルバムは聴ける。なぜならこれはカントリーである以前にコステロだからだ。
 

 
THE ETERNAL Sonic Youth 8梅

このアルバムは乾いている。カラカラに乾いている。そして覚醒しきっている。身体はだるく、胃は重く、心臓の鼓動に合わせてどこかがズキズキ痛むのだが、頭だけははっきりと覚醒しきっているのだ。世界のどんな片隅で起こっている出来事もすべて感じ取れるほど、すべてが研ぎ澄まされ、開ききった瞳孔はずっと遠くまで見えるのだ。だれが何を考えているかも手に取るように分かる。今まで分からなかったことが分かる。すべての断片が互いに呼応し合い、符合してひとつにまとまって行くのが分かる。

音楽的にはここ何作かの彼らの作品の系譜に連なる、驚くほどシンプルで明快なロックンロールである。もちろんそこには彼ら特有の捻れがあり、屈折があり、歪みがあるが、それらは最終的にギターとかベースとかドラムという原始的な楽器のアンサンブルに収束して行く。その意味でオーソドックスな作品ではあるが、それは決して彼らがそうしたフォーマットを楽観的に信頼しているということを意味しない。いや、彼らは何も信じていない。なぜなら彼らには今まで分からなかったことが分かるからだ。

彼らはもうロックというアートフォームにすら依拠する必要がない。彼らは彼ら自身の覚醒の上に音楽を構築することができる。興味深いのは、そうして構築された音楽がロックととてもよく似ていることだ。個体発生が系統発生を繰り返すように、ソニック・ユースは自らの混沌の中から自分たちの力だけでロックを再発見した。それは既存のロックと似ているが、それとは別のところから出てきたものであり、ある種の平行進化だ。覚醒した意識がのどの渇きを訴えるような水分ゼロのハードエッジな作品だ。
 

 
DARK DAYS / LIGHT YEARS Super Furry Animals 7松

会社のひとつ上の先輩にSさんという人がいる。この人は酒がまったく飲めず、職場のみんなで飲み会に行っても最初からウーロン茶を飲んでいる。もうずっとそうなので仲間うちでも公認され、乾杯ぐらいしろよとか無理を言う人もいない。幹事だって「取り敢えず生、あとウーロン茶ひとつ」的に配慮するのが当たり前になっている。それだけならよくある下戸の話なのだが、この人のすごいところはまったくの素面なのにすっかり出来上がった我々とまったく同じテンションで騒げるところなのである。

そういえば六本木の外人パブでペルー人だか何だかの女の子が何千円かでプライベート・ダンスをしてあげると言ったときも真っ先に手を挙げて個室に消えていったのはこの人だった。一滴の酒も飲まずに朝まで騒げるノン・アルコール・ハイはひとつの才能だと言ってもいい。いささか強引だが、今回のSFAの新譜を聴いていたら、なぜだかこのSさんのことを思い出してしまったのだ。骨格はしっかりしているはずなのにどこか初めから酩酊しているような音楽、この独特のユラユラ感がそうさせたのだ。

もはやロック界でも「あいつは最初からウーロン茶でいいんだよ」的な地位を力ずくで公認されているSFA。なぜならウーロン茶でも泥酔者と互角に渡り合えるだけのテンションがあるからだ。聴き続けて、ある時、そうだ、こいつらはウーロン茶しか飲んでないんだった、と気づく。酔って騒ぐより酔わずに騒ぐ方が実はよっぽどヤバいのだということをふと思い起こさせる。相変わらずレベルの高い辺境ロックを素面でたたきつけるヤバ過ぎの連中だが、驚きのようなものは正直希薄なのが残念なところか。
 

 
WEST RYDER PAUPER LUNATIC ASYLUM Kasabian 6松

レコード屋の店頭に試聴機というものがある。僕もあるCDを買うかどうか迷うとき、試聴機でちょっとさわりを聴いてみるのだが、ここにちょっとした罠がある。試聴機をスタートさせると、普通はやはり一曲目のイントロから聴き始めることになる。しかも、ふだん自宅で夜中に聴くときよりも、あるいは地下鉄の中でiPodから聴くときよりも、かなり大きめの音量で立派なヘッドセットから聴くことになる。そうするとたいていのCDは2割増くらいでよく聞こえてしまい、そのCDを手にレジに向かうことになる。

だいたいどのアルバムも冒頭には結構気合いの入ったパワー・チューンをもってくる訳だし、それをガーンと大きい音で聴くのだから、お、これは、と思ってしまうのも無理はない。で、家に帰って何回か聴いてみるのだが、試聴機の鮮烈な印象はなぜかどこかに消えてしまい、こんな感じだったかなあ、と首を傾げるのだ。このカサビアンの新譜も残念ながらそういう作品だ。もちろんこのアルバムの場合、試聴機の印象だけで買った訳ではなく、前作への評価も踏まえて購入を決めた訳ではあるのだが。

彼らの特長はダンサブルなビートに乗せてグイグイ押してくる硬質でメタリックでグラマラスなロックだと思っていたのだが、このアルバムでそうした「圧倒的なモメント」が感じられるのは序盤の数曲だけ。あとはどういう訳か次第に内省的に、地味になって行く。致命的なのは彼らの曲がそうした「勢い」を剥ぎ取られ地味な内省性に直面したときに曲そのものを自律的にドライブして行けるだけの内在的な強さを欠いていることだ。そのためにこのアルバムは凡庸な地点に向けて失速してしまっている。
 

 



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