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4:13 DREAM The Cure 7松

ザ・キュアーというかロバート・スミスという人は、例えば日本のロックで言えばどういうポジションにいる人なのだろうか。例えば日本ではかつてアーティスト然としていた人も年を食うと結構バラエティに出たりCMに出たりして親しみやすいおじさんになったりするのだが、ロバスミはあくまで硬派のミュージシャン・キャラで押しているのだろうか。だが硬派といってもあのメイクとあの体型ではあまり凄みとか怖さはないのではないか。あるいはバラエティの雛壇とか座ってイジられたりしているのか。

なんてことを書いてみたくなるのも、このアルバムがまた笑ってしまうくらい予想通りのキュアー・サウンド、ロバスミ節に仕上がっているからだ。僕がキュアーを聴き始めたのは90年代初頭、マンハイムで一人暮らししていたときに出たアルバムを買って以来だと思うんだけど、当時と何ら変わることのないこのサウンド・プロダクション、節回し、そして何より半泣きの子供のようにうわずったロバスミの声、ボーカル。ここまで書いて前作のレビューを読み返したらまったく同じことを書いていて笑った。

だが、前作と異なるのは、前作がロバスミ節でありながらそこに開き直りというか居直りとも言うべき割り切り、風通しのよさがあるように感じられたのに比べ、本作ではどこか自意識過剰の閉鎖的な暗さが戻ってしまっているところだろう。古くからのキュアー・ファンならこれこそがキュアーだというのかもしれない。しかし僕は、どうもロバが手癖でひょいひょいと作ってしまったような印象が払拭できない。何が何でもキュアー印に仕上げてしまう芸は達者だがもうちょっとすっきりして欲しかった。
 

 
THE AGE OF THE UNDERSTATEMENT The Last Shadow Puppets 8梅

アークティク・モンキーズのアレックス・ターナーが親友のマイルズ・ケインと新たに結成したバンドというかユニットのアルバム。売れっ子バンドのフロント・マンによる課外活動ではあるが、むしろそういう予備知識なしで聴きたい作品で、ストリングスによるオーケストレーションを大々的にフィーチャーし、曲によっては露骨に60年代的なサウンド・プロダクションを施して、アークティク・モンキーズでのギター・ロック的なアプローチとは明確に一線を画したクオリティの高い作品に仕上がっている。

これを聴いてみると、アークティク・モンキーズが他のノリ一発のギター・バンドとどこが異なっていたのかということがよく分かる。それは結局アレックス・ターナーのソング・ライティングの力であり、背景となる音楽的引き出しの多様さである。そうした豊かな音楽的背景を持ちながら、敢えてそれをギター・ロックの一点に集中して投入することで、単位あたりの熱量を圧倒的なものにし、高い評価を得たのがアークティク・モンキーズだったのだということを、この作品が雄弁に物語っているのだ。

そういうバックボーンを衒いなく開花させるとこういうことになるんですよというのが本作であり、それは課外活動ではあっても、余芸とか趣味とかの域を完全に逸脱しており、それ自体作品として完結している。パーマネントなユニットとして活動を続けて行くのかは未知数だが、本人たちはそのつもりであるとコメントしており、僕はアークティク・モンキーズよりむしろこちらの方を楽しみにしたいくらいだ。とはいえ、この路線で大向こうをうならせられるのは一回限り。ベルセバが好きな人はどうぞ。
 

 
EVERYTHING THAT HAPPENS WILL HAPPEN TODAY David Byrne & Brian Eno 7松

デヴィッド・バーンといえばロックを愛好するインテリ少年少女のアイドル的存在であり、頭が悪くなくてもロックはできるのだということを身をもって示したロック史上の重要人物の一人である。トーキング・ヘッズは、ロックという表現形態の進むべき方向性を措定し、そこから論理的に敷衍される音楽を自ら実践して見せた明晰な音楽的実験であり、それがポップ・ソングとして商業的に成功したことが何よりロック的でありパンク的であった。彼らの残した音楽は21世紀の今日でも燦然と輝いている。

本作はトーキング・ヘッズのフロント・マンであったデヴィッド・バーンが、ヘッズ時代からの盟友ブライアン・イーノと共作したアルバム。トーキング・ヘッズが解散してから、僕はデヴィッド・バーンのソロを全然聴いていない。それはトーキング・ヘッズという身体性を失ったデヴィッド・バーンの音楽が頭でっかちに陥り、その辺境への眼差しがいかにも植民地主義的、収奪的に響いていることを懸念したからである。本作もある音楽誌の今年のベストにランクインしていなければ聴いていなかった。

だが、聴いてみて驚いた。ブライアン・イーノとの共作なのでかなり前衛的でアンビエントなものではないかと半ば覚悟を決めていたのだが、非常に分かりやすくポップな仕上がりであり、明快なメロディを持った「歌」がしっかりと構築されたオーソドックスなバック・トラックに乗っている。デヴィッド・バーンの声もあり、21世紀型トーキング・ヘッズと言ってもいいくらいだが、唯一惜しまれるのは音楽全体が万全に構築され過ぎたこと。もう少し動的なモメントがあれば一段階高く評価できたのだが。
 

 
GLASVEGAS Glasvegas 7梅

各誌の年間ベスト企画でも一致して高い評価を受けたことに加え、クリエーション・レーベルのアラン・マッギーがジザメリ以来の衝撃とコメントしたとか、ネオ・シューゲイザーだとかいうサイド・インフォメーションにも釣られて買ってみた。まあ、そういう意味ではもともと期待度が高く、その分評価が辛くなってしまうのは仕方ないのかもしれないが、そこまでのすごい新人とは思えなかったというのが正直なところ。アラン・マッギーとかジザメリの名前が出た時点で期待マックスですから。

確かに幾重にも塗り重ねた地鳴りのようなギターの響きはあの我が青春の80〜90年代を思い起こさせるものもあるが、当時のノスタルジーとして聴くにはボーカルが暑すぎ。ジザメリにしても当時僕が好んで聴いたライドにしても、ボーカルは全然やる気のないつぶやきみたいなものだったし、声は極限まで特徴を消し去った匿名的なものだった。だが、このグラスヴェガスのデビュー・アルバムでは暑苦しいまでの「歌い上げ」で起伏の大きなメロディをドラマティックに際立たせて行くのである。

むしろ彼らにとってはジザメリとのアナロジーで聴かれる方が迷惑な話だろう。その意味ではこの暑苦しさは悪くない。ここには80〜90年代に僕が好んで聴いたバンドにありがちだった厭世観とか白けのようなものはまったくなく、微笑ましくなるくらい真面目でストレート。時代相はあの頃より確実に複雑になり、社会は確実に生きにくくなっているのに、その中でこのまっすぐな視線を保ち続けるのはむしろエネルギーの要る作業。丁寧に作られた良質なアルバムだがもう少し肩の力を抜いてもいい。
 

 
HOME AGAIN Edwyn Collins 7梅

今では口に出すのも恥ずかしい忌み言葉になってしまった「ネオアコ」。すっかり消費されてしまった術語ではあるが、パンク以後、ロックが僕たちの生の実感とのコミットメントを回復して行く文脈の中で、アコースティック・ギターを武器にまるで冬の朝の空気のようにくっきりと僕たちの心象風景を切り取って見せた一連の音楽は、その呼び名はともかく、ロック音楽史に何らかの形で記憶されるに値する実体を備えていた。そして、その中心として語られるアーティストにオレンジ・ジュースがあった。

オレンジ・ジュースのメイン・ソングライターでありシンガーであったのがこのエドウィン・コリンズである。本作は2005年頃までにはレコーディングされていたが、その後コリンズが脳出血で入院、退院後にミックス・ダウンしたものだという。どうもこの人を見るとつげ義春を思い出してしまい、作風もネオアコと形容される割には爽快なところが少なく地味で暗め、何より声がヌメヌメしている。あのイルカのジャケットのイメージで聴くとそのあまりの地味さにめまいを誘発することは間違いない。

だが、もちろんそれがこの人の持ち味。曲作りは文句なく達者だしアコースティックなアレンジやしっかりしたボーカルには彼の作る音楽の誠実さがにじみ出ている。ヌメヌメしたボーカルも聴きこんで行けば「味」に思えてくるから不思議だ。ジャケットを見るとこの人も老けた。大きな病気をしたから余計にそう見えるのかもしれないが、この人もまた、ロックと成熟という大きな問題に取り組んでいるのだろうと思う。年相応のロックという語義矛盾に対するひとつの回答になり得るアルバムかもしれない。
 

 
LED ZEPPELIN II Led Zeppelin  
LED ZEPPELIN III Led Zeppelin  
BOX POPS Box  
JOURNEY TO YOUR HEART Box  
EXPRESSIONS 竹内まりや  
MISSING TRACKS The Collectors  
 



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