logo 2008年1・2月の買い物


IN RAINBOWS Radiohead 8梅

正直に告白すると僕が真面目にレディオヘッドを聴き始めたのは「KID A」からであり、「OK COMPUTER」はリアルでは聞いていない訳であり、考えてみればいきなり難易度の高いところから問題集を解き始めたみたいな状況だった訳だ。だから僕にとってのレディオヘッドはいつもすごく静かな、彼岸から聞こえてくる音楽のかすかな呼び声に耳を澄ますようなものだった。そこで鳴る音そのものがどんなにラウドでも、トム・ヨークの声は常にその裏側から、とてもか細く、でも逃れようのない宿命のように遠く響いてきた。

だから僕はその声に耳を澄ませた。遠く、細く、しかしまとわりついて離れない蜘蛛の巣のように、その声は僕に絡みつき、耳の奥にいつまでも残った。そこにあったのは静寂だったと思う。すべてのノイズ、すべての機械的なビートの背後にある本質的な静寂だったと思う。レディオヘッドの音楽はいつでもそのようにして聞こえてきた。そして、このアルバムもそのように聞こえてくる。随分分かりやすくなったロック然とした音楽の隙間から、変わりようのないあの静寂が流れ出してくる。これはそういうアルバムなのだ。

唯一僕が危惧するとすればこの正しさだろう。このアルバムでレディオヘッドはもはや無謬の境地に到達してしまったかのようにすら思える。そうした自動性はしかし、ロックにとって忌むべきものだ。レディオヘッドは過ちを犯さない。トム・ヨークは常に正しい。そのようなドグマを自ら背負ったとき、彼らの音楽は大きなリスクに晒される。もしかしたら閉じた無謬の神話の内側からエントロピーを汲み出したのがトム・ヨークのソロだったのかもしれない。静寂の奏でる音楽を聴きながら、僕たちは次作を待つしかない。
 

 
HATS OFF TO THE BUSKERS The View 7竹

引き合いに出して悪いが、レディオヘッドなんかを聴いていると、確かに正しいものを聴いている気がして非常に居住まいを正したくなる一方で、もっとプリミティブでいいからストレートでガツンと来るロックを聴かせてくれよとも思ってしまう。すべてのロックンロールが一巡どころか二巡も三巡もして、あらゆる種類の音楽が同じ地平に並んでそれぞれ自由に選んだり選ばなかったりできる00年代にあって、しかし、そのような欲求というのは実は最も充たされにくいもののひとつであったりするのかもしれない。

ストロークス、リバティーンズ、アークティク・モンキーズ、確かにストレートでガツンとくるロックンロールではあるが、どれもこれもある種の時代性というか意味性というか、本人たちが望んだものではないのかもしれないが、そこには何か付加価値が含まれていた。もちろんそれゆえに彼らは21世紀のロックンロールになり得たのだろうが、逆に、本当に何の付加価値もないただのロックンロール、うるさくてドタバタするだけの、だがそれゆえ新しくもなく逆に古びることもないロックンロールが聴きたいこともある。

ザ・ヴューはそういう意味ではかなりいい線行くバンドであると思う。最初の2曲がパンキーでストレートなロックンロールなのでこのまま最後まで行くのかと思ったら緩急もついているし、そのどれもが楽曲として高いレベルで完結している。奇を衒ったところは何もなくて、音楽的にはオーソドックスなロックの文法を踏襲しているが、ステロタイプに埋没することのない彼ら自身の音、彼ら自身の声をきちんと聴かせる。大げさかもしれないが、ロックの未来もあながち捨てたものではないと思わせる痛快な作品。
 

 
WE'LL LIVE AND DIE IN THESE TOWNS The Enemy 7梅

ザ・フーやザ・ジャムを引き合いに出して語られることも多いらしい。確かに、キレのよいカッティング、シンプルなリフから直接的なメッセージをたたき出すパンキッシュなロックンロールのスピード感という意味ではこうしたバンドを思わせるものもある。いかにも労働者階級の叫びっぽいところもあって、ミュージシャンになるかサッカー選手になるしか金持ちになる方法はないのだと言われる典型的なイギリスのロックバンドの立身出世物語を思い出させる。たぶんこういうバンドはイギリスには腐るほどいるのだろう。

その中で彼らがデビューし、全英1位を獲得できたのは、クソったれな日常に対する憎悪の強さ、そこから抜け出したいという欲求の切実さ、自分たちには何かができるはずだという根拠のない確信の硬質さが彼らに備わっていたからだと思う。逆に言えば、そうした意志的な側面を抜きにしたとき、このバンドの純粋な音楽的実力がどこまでのものかという点については疑問がある。ロックとして残って行くには彼らの音楽はあまりに生真面目で生硬である。ソングライティングには工夫もあるが、メロディが致命的に硬いのだ。

硬さと脆さは常に裏腹のもの。こうした硬さを前面に押し出したまま初期衝動の質だけでどこまで勝負できるかは難しい問題だし、それ以上に問題なのは、そうした彼らの硬さをウェル・プロデュースして尖った部分の面取りをしたときに、それでも彼らの音楽に何か聞くべきものが残るのかということである。僕としてもこういう音楽は嫌いじゃないし、アルバムをよく聴いて行けば「次」につながる手がかりはいくつか見つかるはず。次作はたぶんプロデューサーの選択が重要になるだろう。がんばって欲しいバンドだ。
 

 
SHOTTERS NATION Babyshambles 6竹

そうだった、リバティーンズのセカンドを僕は徹底的に批判したら、まあ、そのせいでもないだろうが彼らは活動を停止してしまい、で、ピート・ドハーティが新たに結成したバンドがこのベイビーシャンブルズだった訳だが、そのファーストは僕は聴きもしなかった。何かそこに聴くべきものがあるともあまり思えなかったからだ。確かに彼らのファーストは沈滞するロック・シーンに「これでいいのだ」という一撃を加えた点で価値があったが、僕の中では結局それだけのバンドだったということで終わった人たちだった訳だ。

それが今回セカンドを買ってみる気になったのは、一言で言ってしまえば「Rockin' On」の2007年のベスト・アルバムにランク・イン(15位)していたからである。プロデュースはスティーブン・ストリートというのにもちょっと惹かれた。もしかしたらそこにギター・ロックの新しい可能性が示されているかもしれないとかちょっと思ってしまった訳だ。ドラッグ癖で一線からいったんドロップ・アウトしながらも何とかリヴァイヴしようとしている男の、ギリギリのロック魂みたいなものが炸裂しているのではないかと。

結論から言えばここにそのような力はない。ここにあるのは驚くほどすっきりと整理され、メロウでメランコリックでセンチメンタルな、むしろ80年代型のギター・ロックだ。正直これは僕にとって非常に評価の難しい作品だ。純粋に音的、中身的なことを言えば結構ストライク・ゾーンの真ん中に近い作品なのだが、これがピート・ドハーティの作品だということを考えると、彼が今こんなアルバムを作らねばならない理由がさっぱり分からない。やはり常識的にはこの意図の不明確さゆえに批判されるべきアルバムなのだろう。
 

 
MYTHS OF THE NEAR FUTURE Klaxons 5松

「近未来の神話」…。もうこれだけで「すいません」と一言謝って家に帰りたくなる感じである(バラードの作品名ではあるが)。昨年はあまり新しいアーティストのアルバムを聴かなかったので、雑誌の昨年のベストみたいな企画に選ばれた若いアーティストの作品の中から特に英系を中心にチョイスして買った4枚のうちの1枚だが、これは正直買うほどでもなかった。他の2枚がそれなりに聴ける内容で、次が出たら買ってみようかという出来だったので、打率的には1枚くらい外れるのは仕方ないのかもしれないが。

一応ギターをフィーチャーしたロック系の作品ではあるが、カサビアンやフランツ・ファーディナンドなどを思い起こさせるダンサブルなリズム隊をベースに、分厚めのアンサンブルで攻めてくる感じで、ニュー・レイヴなどと呼ばれたりもしているらしい。まあ、その辺のジャンル分けはNME辺りに任せておけばよろしいのだが、ポップ・ミュージックとして致命的なのは曲にセンスがないこと。リフも歌メロも全然こなれてなくてフックがないので、いくらパワー系のリズムで攻められてもまったくツボに入ってこないのだ。

ダンスホールで踊ることができればそれでいい、というのなら、初めからリズム・パターンだけループして鳴らしておけばいい。何かメロディらしいもの、ボーカルらしいものが乗っていないと付加価値がつかないからというだけの理由で適当な曲をでっち上げているのであればそれは余りにも怠慢。歌として成立しないものが無駄に大仰なアレンジとドコドコうるさいリズムだけで何となくそれなりに評価されるのはロック評論の貧困だろう。元祖レイヴのシャーラタンズがなぜ今も生き残っているのかをよく考えてみるべきだ。
 

 
松尾清憲の肖像――ロマンの三原色 松尾清憲 7松

ビートルズの曲の中でも中期のサイケとかドラッグ入っている曲が好きな人、XTCとかゴドリー&クリームとかトッド・ラングレンとかが好きな人というのは種族として存在しており、高野寛のファースト・アルバムが愛聴盤だったりするのだが、そういう人にとってはこたえられないアルバムである。ていうかそういう人にとっては松尾清憲は初めからチェック対象としてプライオリティの高い存在であり、今さら僕がここで松尾清憲について語る必要もないのかもしれないが。とにかくそういう系統の作品である。

その徴し、符丁みたいなものはアレンジやサウンドの随所に盛りこまれており、これはこれで音楽に対する深い愛情と造詣、正しくも偏った嗜好がなければできないことなのだが、そしてまた僕が松尾を聴き続けるのもそういう興味からでもあるのだが、しかし、実際、こうした音楽が成り立ち、小うるさく理屈っぽいひねくれ系の音楽ファンを毎回きちんとうならせるためには当然それだけでは足りない。そこに必要なのは、そうしたすべてをはぎ取っても成立するだけの、歌、メロディとしての成熟と完成なのである。

逆説的な物言いになるが、松尾清憲の音楽がデビューから20年以上経った今でもエバーグリーンなのは、彼の音楽がマニアックに深読みできる複雑な構造を持っているからであると同時に、そのようなことを一切捨象しても、きちんと耳に残り、ふと口ずさんでしまう「歌」としての普遍性、一般性をも持っているからなのだと思う。優れた音楽というのは常にそういう二面性、両義性、重層性を備えているものであり、松尾の音楽は確実にその系譜に連なっているのである。ここにあるのは色あせない純粋な才能の結晶だ。
 

 
魔法の領域 杉真理  
 



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