logo 2005年6・7月の買い物


DON'T BELIEVE THE TRUTH Oasis 7松

オアシスだけは節回しとボーカルの声で分かるという洋楽音痴の知り合いがいるが、それって何となく分かるような気がする。ノエルの書く泣きの入ったメロディとリアムの唯一無二の声。それってオアシスの本質を実に的確に指摘しているのではないかと思う。前作のレビューで僕は、オアシスは音楽的な進歩とか革新というようなものとはまったく無関係の存在だと書いた。音楽的には無価値だと書いたような気すらするが、そこで言いたかったのは、もちろん、だからこそオアシスは聴くに値するのだということだった。

今作でもその評価は基本的に変わらない。ここでは何かロック史的に見逃せない大事件が起こっている訳ではない。このアルバムを聴かないとロック音楽が新しいページをめくる瞬間を見逃すという決定的な新機軸がある訳でもない。ここにあるのはむしろますますオーソドックスになって行く旧態依然としたロックであり、ただそれをノエルのメロディとリアムの声だけで聴くに値するものにしているバンドの姿だ。いわば近代的なコーポレート・ガバナンスより社長の属人的な才覚で保っているオーナー企業のようなものだ。

一時期の膨張主義的でヘヴィで重厚な音作りは影をひそめ、ひとつひとつの楽曲はコンパクトにまとまっている。曲想には各々工夫があり、ジェムやアンディ・ベルの曲も自然にオアシスのカラーに馴染んでいる。しっかり作りこまれたオーソドックスなロック・アルバムだと思うが、ただ一つ難点を挙げるとすれば、それは有無を言わせぬ強引なまでの訴求力がここには希薄だということだ。ノエルのメロディも、リアムの声も、ここではどこかおとなしく聞こえてしまうのだ。ただ一つの難点だが、笑い飛ばせないのが深刻。
 

 
THE INVISIBLE INVASION The Coral 8竹

今年は新譜を買うのを抑制しようと思っていて、新人バンドのアルバムを雑誌のレビューに乗せられて買うのはもちろん、ここ数年でデビューして何枚か買ってみたもののあまり明確な印象の残っていないようなバンドの新作もなるべく買うまいと心に決めている。実際新譜が出ているのは知っているが敢えて購入を見送ったアーティストもいくつかある。このコーラルの新譜も実はかなりきわどい境界線上にあって、買おうか買うまいか相当悩んだ。CD屋でも何度か手に取りながら棚に戻し、他を買う勢いでようやく買ったのだ。

結論から言えば買ってよかった。もともとロックの伏流を大胆に取りこんだ雑種の音作り、曲作りでクセのあるポップを聴かせる異色のバンドではある訳だが、今作ではその雑種性がそれ自体として「売り」になっているのではなく、そこを足場にしながら彼らのレンジの広い才能がひとつのポップ・アルバムとして昇華され、実にすっきりと整理されているのである。誤解を恐れずに敢えて例えるならキング・オブ・ルクセンブルグをやっているときのサイモン・ターナーを思わせる。非ロック的でありながら何よりもロックだ。

あるいはある時期のモノクローム・セットを引き合いに出してもいいかもしれない。無国籍でノン・ジャンルな音楽の断片をポップという一点で統合して行く力。ただ、コーラルの場合はそれがよりバンド然としたフィジカルな文脈の中に結実していると言っていいだろう。フランツを初めとする最近の英系の若いバンドの中にあっても、このバックグラウンドの豊穣さは群を抜いているし、本作では音やアレンジがカッコいいという次元を超えたカッコよさを一足飛びに手にしてしまった。アルバムを買い続けることに今決めた。
 

 
GET BEHIND ME SATAN The White Stripes 8梅

もはやハードなギターすら捨て去ってしまい、曲によってはマリンバとかまったくのブルーグラスだったりもするホワイト・ストライプスの新譜である。もうロックだとかブルースだとかそんなことはどうでもよくなって、もともとベースすらいない無茶苦茶な編成の音楽がさらにフリースタイルになった訳だが、とにかくブルースとしか呼びようのない出来上がり。ブルーグラスまでもをブルースとして聴かせてしまうこの強引なまでの説得力はいったい何なんだ。この切迫した音の真っ直ぐな立ち上がりはどこから来るんだ。

そう、ベースすらいないスカスカのサウンド・プロダクションのはずなのに、ジャックとメグの二人ですべての楽器を演奏する半ばホームメイドみたいなローテク・レコーディングのはずなのに、驚くほど奥行きのある豊かな音がアルバム全編で鳴っている。それはやはりジャック・ホワイトがそれぞれの曲の持つ意味合いを最適なアレンジ、編成で表現しているからに他ならない。ドラムとギターとボーカルだけでこれだけのものができるのだとしたら、大仰なコンピュータ・ミュージックの価値はどこにあるというんだろう。

もちろんコンピュータ・ミュージックにもそれなりの存在意義はある訳だが、最小限の編成と人間の肉声だけで構成されたこのアルバムのたどり着いた場所から考えれば、むしろ僕たちが求めるべき未開の原野は僕たちの意識と無意識のうちにあるという気すらしてくる。問題はこのアルバムが外資系のレコード屋で大量販売されたとして、いったいこれをきちんと受け止めることのできるリスナーがいったいどれほどいるのかということだ。難解ではないが聴くのに相応のエネルギーを要する意欲作であり、問題作でもあろう。
 

 
DEMON DAYS Gorillaz 7竹

自由にイマジネーションを解放するより、何らかの前提や制約を自らに課してその中で所期の目標を達成しようとすることで、その創造性をより効率よく、統合された形で提示できるタイプのアーティストというのはいると思う。デーモン・アルバーンという人はいうまでもなくブラーのフロントマンとして自らの創造性だけを原動力にした作品をつくるべき立場にいるアーティストであり、もちろんそれだけの才能を備えた人ではあるのだが、もしかしたら彼自身こうした「企画もの」の方が力を発揮しやすいのかもしれない。

もちろんできあがったアルバムは「企画もの」という言葉から普通想像されるものを軽く凌駕している。デーモン・アルバーンのソロ名義でリリースされてもちっともおかしくない。アンビエントでありながらその背後にきちんと熱の見えるバック・トラックと達者なソング・ライティング、そしてすぐ近くから聞こえるボーカル。それなのにこのアルバムをまたしても架空のキャラクターの過剰な物語で粉飾せずにはいられないデーモンのオブセッションはいったい何なのだろう。この過ぎた悪ふざけはどこから来るのだろう。

思うに、デーモンは少しもふざけてなんかいないのだ。彼にはおそらくこうした架空のキャラクターの衣を借りることなしには解放することのできない類の衝動があるのだ。フィクションの力を援用することで初めて形にすることのできる表現があるのだ。ここにはファーストに見られたようなチマチマした箱庭感はもはやなく、既にゴリラズの正体をだれもが知っている中で敢えてゴリラズ名義の新譜をリリースしたデーモンの覚悟が風通しのよさとなって表れている。コスプレでしか解放できない性欲のようなアルバムかも。
 

 
X&Y Coldplay 7梅

よくできたポップ・アルバムだ。こんなに分かりやすくていいんだろうかと思うくらいオーソドックスで明快なアレンジ、すぐにでもシング・アロングできそうな優しいメロディ、過剰も不足もないギターの鳴り、どこまでも完成に近づいた00年代型ポップの最前線がここにある。そして00年代型ポップの最たる特徴は聴き終わった後に何も残らないということなのだろう。1時間近くかけてこのアルバムを聴き終わった後、僕の頭の中にはどの曲のかけらひとつさえ残ってはいなかった。聴いたことすら忘れてしまいそうだ。

デビューした頃のコールドプレイは、どんなに鏡のように見える水面にも実際には小さなさざ波が無数に立っていることを示唆していた。静寂について歌うことで必然的にそこに内在するノイズの存在をどんなやかましいパンク・バンドより的確に、雄弁に物語っていた。不純物をひとつひとつ取り除いた結果、それでもそこに残る説明不能なモメントこそが僕たちの生の核なのだということを歌っているのだと僕は思っていた。ところがこの作品はどうだ。彼らはついに音楽から自分たちの存在を消し去ることに成功したのだ。

これ以上ないくらい匿名的で抽象的なイージーリスニングの世界。コンビニで流れていても耳にもとまらないだろう。職場で流れていても仕事の邪魔にもならないだろう。小さな音で聴くのが似合った音楽のことを僕たちはロックとは呼ばない。聴き終わった瞬間に忘れ去られるような音楽で僕たちは泣いたり笑ったりしない。手のこんだアルバムだし作りはしっかりしているのだが、おそらく彼らが余計だと思って切り捨てたものの中に大事なもの、本質的なものが混じっていたのだ。ゴミ箱を空にしてなきゃいいけどな。
 

 
DAYS RUN AWAY The House Of Love 7松

ハウス・オブ・ラブといえば名曲「クリスティーン」で有名なクリエーション一派のバンドである。80年代後半から90年代前半にかけて何枚かのアルバムを発表し、一部でカルト的な人気を得たものの商業的成功には至らず、94年に解散した。中心人物はガイ・チャドウィックで、クリエーション・レコードの内幕を描いた「クリエーション・レコード物語」では相当な変人として描かれている(たぶんクスリ食いまくってたんだろう)。サイケデリックで耽美的なギター・ポップを奏でるブリティッシュ・ギター・バンドだった。

ガイ・チャドウィックはその後98年に「レイジー・ソフト・アンド・スロウ」というその名の通り弛緩しまくったソロ・アルバムをリリースしたがこれはどうもいただけない代物だった。最初っから最後までダラダラと続く緩いフォーク。こりゃあかんと思ったものだが、その記憶があったせいでこの再結成アルバムもニュースを聞いてしばらく手に取らなかった。レコード屋で2回目に見かけ、やっぱりこれも縁かなと思ってようやく買ってみた訳だが、結論から言うとこのアルバムは悪くない。てか、いい。買ってよかった。

深いリバーブのかかったギター・サウンド、彼岸から響いてくるご詠歌のようなコーラス、往時のハウス・オブ・ラブを思わせる音の作りがしっかり復元されているが、それだけでなく、その背後で鳴っている生ギターの小気味よいカッティングとか、何より曲作りに久しぶりにいっちょやったるか、という彼らの「現在の息遣い」みたいなものがきちんと聞こえてくるのだ。昔を懐かしむだけの同窓会的な再結成ではなく、ロックとして成り立っているのは、オリジナル・メンバーであるテリー・ビッカーズの功績かもしれない。
 

 
BRASSBOUND The Ordinary Boys 7竹

怒ることの難しい時代だと思う。キレることは簡単にできるが、何かに正当に怒ることはとても難しい。どこでだれがだれを搾取しているのか、だれが加害者でだれが被害者なのか、何が正しくて何が正しくないのか、神すらバージョン違いがいくつもあって互いに争う時代にあって、自分の立つ位置を正確に見極め、自分を損なおうとする者に対して怒りをぶつけることはほとんど不可能にさえ思える。だから僕たちにできることはただキレるだけ。相手に責任があってもなくても構わない、ムカつくからキレる、それだけだ。

そんな時代のモッド、そんな時代のパンクとしてはオーディナリー・ボーイズは端正すぎる。まるでジャムの00年代型新作のようだったデビュー・アルバムから1年足らず、真価を問われるセカンドで、彼らはスカ、レゲエを大きくフィーチャーし、ストリングスやブラスも導入して表現の幅を広げて見せた。そこには彼らの音楽に対する取組の真面目さ、一途さを見る思いがする。多くの新人バンドがスターダムというものに対して妙に自覚的であるのに対して、彼らはあまりにナイーブで純朴に見える。それは彼らの美質だ。

だが、今日、最も先鋭的なストリート・キッズはおそらくエミネムでも聴いているのではないだろうか。根っからのパンクスたちはグリーン・デイに夢中かもしれない。オーディナリー・ボーイズはいったいだれに向かってこの小気味よいビート・パンクをたたきつけようとしているのか。彼らにはそれが見えているのか。この思い切りのよさ、意外なほどの音楽的な広がりを僕は支持するが、このあまりに理想主義的なビートはだれが敵かさえはっきりしないテロや内戦の時代にもったいないくらい美しすぎると僕は思うのだ。
 

 
PUSH BARMAN TO OPEN OLD WOUNDS Belle And Sebastian  



Copyright Reserved
2005 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com