logo 2005年1・2月の買い物


I MET THE MUSIC Meister 5竹

これはブリリアント・グリーンの松井亮のソロ・プロジェクトである。普通であればそんなものをここで取り上げることはないのだが、参加ミュージシャンがライドのロズ・コルバートとマーク・ガードナー、ブーラドリーズのサイス、ビスのマンダ・リン他ということで一応押さえておこうかなという気にはなったのである。他にもリーフのゲイリー・ストリンガー、そしてハワード・ジョーンズ…。要は松井の好きなミュージシャンに片っ端から声をかけて集まってもらったという夢のプロジェクトなのだ。

もともとブリグリ自体が洋楽的な資質の強いバンドなのでこのゲスト・ミュージシャンのチョイスは納得できるし、例えばブルース・ブラザースのバック・バンドがMG'sであるような意味合いで微笑ましくも「好きなんだね」と言っておけばいいのかもしれない。それにアルバムの出来だって心配していたほど悪くはない。きちんとそれらしいギターが鳴っているし、サイスのボーカルは存在感あるし、曲はバラエティ感を出しながらも破綻なくまとまっていて退屈せずに最後まで楽しめる。ちゃんと洋楽に聞こえる。

だけどこれは何なのだ。だれのアルバムなのだ。僕だってもともと洋楽は歌詞も分からず音だけ聴いている雰囲気リスナーだからエラそうなことは言えないが、この「それらしい雰囲気」一辺倒の音楽は何とかならないのか。僕はかつてブリグリのアルバムを「空虚」「凡庸」「気分」「雰囲気」と評したことがあった。それをかろうじて救っているのは川瀬のボーカルであると。ここでもそれは変わっていない。かろうじて救っているのが川瀬ではなく豪華なゲスト・ミュージシャンであるという点を除いては。
 

 
HAPPENING FOR LOVE John Power 8竹

元ラーズ、元キャストのジョン・パワーのソロ・アルバムである。僕の場合ジョン・パワーといえば何といってもあの「Alright」だ。僕の好きなFC東京の試合前、ボール拾いの少年たちが紹介されるときのテーマ・ミュージックがかつてこの曲で(昨季はザ・ジャムの「That's Entertainment」だった)、イントロが流れ出すたびに血が騒いだものだった。あのきっぱりとしたギターのストローク、何かを心に決めた少年の潔癖さとその内側の心細さが一体となったこの人の歌声は、僕のフェイバリットのひとつだ。

デビュー作でそんな決定打をかっとばしてしまったキャストは、その後いくら真面目なアルバムを出してもなかなか僕の心に残らなかった。「大丈夫」という言葉はいつでもその背後に自信と裏腹の逡巡を抱えているが、そのギリギリのニュアンスを最初に歌いきってしまったジョン・パワーにとって、それ以上の歌うべき何かをたたきつけることはおそらく容易な仕事ではなかったのだと思う。ヒースローの売店で、ドイツではなかなか手に入らなかった「ビートルート」を買ったきり、この人の名前は聞かなくなった。

だが、ジョン・パワーは帰ってきた。それも素晴らしいアルバムを携えて。「オレはただソングバードのようにオレの人生を生きる」と歌う彼の声は、これまでになく僕たちに近い。アレンジは身も蓋もない4ピースだが、それ以外の何でも表現できないというほどギターが的確なストロークを刻み、ジョン・パワーの、逡巡を内に含みながらもある種の決心を持って敢えて言い切るような強い歌声がこのアルバムの最初から最後までを貫いている。高かったけど買い逃さなくて本当によかった。ロック聴くことの幸せ。
 

 
スーベニア スピッツ 7松

僕の考えによればスピッツは「フェイクファー」あたりでひとつのピークに達し、その次の「ハヤブサ」から新しいフェイズに入った。「ロビンソン」でブレイクしてから世間的にスピッツの代名詞となった甘くせつないミドルテンポのフォークロックみたいな曲は影を潜め、特にアルバムでは音楽としての本来の強度を足がかりにした曲作りがなされるようになってきたのではないかと思うのだ。コアなスピッツ・ファンの間でその辺がどう認識されているのか知らないが、この作品もその流れの線上にあると思う。

一般的な認知に関わらず、草野マサムネは一貫して自分のことだけを歌い続けてきたと思う。彼の書く歌がリスナーの一人一人に寄り添ったことなど一度もない。草野の歌はすべて彼自身の中にある勝手なストーリーから切り取られたシーンやイメージの断片なのだ。僕たちはただそれをあたかも自分のストーリーであるかのように誤解しているだけに過ぎない。逆に言えば、彼自身のいびつなストーリーをリスナーに無理矢理納得させるだけの原初的な力が曲そのものに内在しているのだと言っていいかもしれない。

いかにもナイーブで草野自身の歪みがそのまま現れていた初期のアルバムに比べれば、メジャー・ブレイクを経て音楽的な体力を増した近作では、彼らの歌はよりオーソドックスなロックとして響く。しかし、よく聴いてみれば、音楽がよくこなれたオーソドックスなものになればなるほど、草野が宿命的に抱えこんだ歪みの核のようなものはむしろ逆に隠しようもなく露わになってきているのではないだろうか。沖縄趣味の「ナンプラー日和」は感心しないが、バンドとしてのスピッツの実力が伺われる秀作だと思う。
 

 
GOLDDIGGAS, HEADNODDERS & PHOLK SONGS The Beautiful South 6松

新譜とはいえカバー集である。取り上げている曲はELO、ゾンビーズ、ラモーンズ、スタイリスティックス、ルーファス・ウェインライト、果てはアイドル・グループS CLUB 7まで…。僕としては原曲を知らないものばかりなのだが、ポイントとしては原曲がだれのものであろうと関係ないということであり、ここで鳴らされている音、ボーカル、アートワークまで含めて、紛れもないビューティフル・サウスの作品であるということだ。ここまで強固に確立されたビューティフル・サウスというブランドもすごいと思う。

日本ではまったくと言っていいほど問題にされておらず、例えば「ロッキング・オン」の12月号から3月号までのディスク・レビューをチェックしてみたがこのアルバムのレビューは掲載されていなかった。国内盤が出ていないという事情もあるんだろうけど、やはりこの完全に定型化、伝統芸能化したポップは日本の洋楽ファンに広く受け入れられるとは僕にも思えない。本国では人気があるとかいうけれど、それってロックの文脈じゃなくておそらくはポップ歌謡のリスナー層に支えられた人気なんじゃないだろうか。

こういう感じかなあと思って聴いたらやっぱりそうだったという意味では非常に堅実でリスナーを裏切らないよくできたアルバムではあり、その独特のポップ感覚、彼らしか出せない時間を超越した感じというのはもはや完成の域に達していると思うけれど、毎度つきあっている僕もさすがにアルバムの区別がつかなくなってきた。今作は曲が自作でない分まだ幾分遊びみたいなものが感じられないでもなかったが、ビューティフル・サウスがビューティフル・サウスである理由を考えこまずにはいられないアルバムだと思う。
 

 
THE FUTURE IN THE SHADE OF DAWN The Collectors 7竹

大学生の頃から就職してしばらくまで、ザ・コレクターズは僕にとって本当に切実なアーティストだった。最初の何枚かのアルバムは本当にテープが延びてしまいそうになるまで何度も何度も繰り返し聴いたし、輸入雑貨屋でリグレイのガムを買ってライブにも出かけた。社会には出たもののなかなか大人になりきれなかった僕にとって、理屈を経由せずにビートの力で苛立ちを直接ぶちまける彼らの曲はいかにも似つかわしかった。僕は彼らに救われ、背中を押され、鼓舞された。夜の闇の持つ魔法を彼らから教わった。

だけど、僕と彼らの蜜月は6作目の「UFO CLUV」までだった。「キャンディマン」辺りからどうも彼らの音楽は僕にピンとこなくなり、僕はザ・コレクターズから次第に疎遠になった。新しいアルバムが出るたびに一応CDは買い続けたが、ここ何作かはタイトルも思い出せないし曲の区別もつかない状態。もしかしたらそのまま彼らから離れて行ったかもしれない僕を引き止めたのは去年の6月に見たライブだった。たぶん10年ぶり以上だった彼らのライブでは、リグレイのガムが相変わらず宙を舞っていた。

そして今作。iPodで繰り返し聴くうちに、このアルバムは驚くほどすんなりと僕の中に入ってきた。彼らのアルバムが出るたび、ビートが足りないだのもっと思い切りよくジャカジャーンと行けだの書いてきた僕だが、変わったのは彼らではなく僕なんじゃなかったのか、ビートが足りないのは彼らじゃなく僕の方じゃなかったのかと思うくらい、このアルバムの加藤ひさしはいつもの節まわしで声を張り上げている。さあ、失われた10年を取り戻すために、今から旧譜をiPodにロードして地下鉄で聴き返そう。
 

 
FROM A BASEMENT ON THE HILL Elliott Smith ---

2003年10月21日に自ら命を絶ったエリオット・スミスの遺作である。ミックスから選曲、曲順を含めて未完のまま残されたレコーディング・マテリアルをアルバムに仕上げ、彼の死からほぼ1年後にリリースされた。どこまでが生前の彼自身の意思によって作られたもので、どこからが死後のミックス・ワークなのかが分からないが、もっとボソボソした弾き語りのデモテープみたいなものを覚悟していた僕にとっては、意外にしっかりまとまったアルバムだった。ニュースを知らなければそのまま聴いてしまえたかもしれない。

このアルバムを彼の死とリンクさせて語ることが正しいのかどうか僕には分からない。もちろん2年前からスタジオに入りながら、ついに未完成のままのこのアルバムを残して自殺したエリオット・スミスの精神のありようと、このアルバムがまったく無関係である訳はない。しかし、その事実を、このアルバムを聴く前提にしてしまうことは必ずしも彼自身が望んだことではないのではないかと僕は思うのだ。だから、僕はできる限り「ただのエリオット・スミスの新譜」を聴くようにこのアルバムを聴いてみようと思った。

それはうまく行っただろうか。「甘ったれた告別」なんて曲が入っているのを僕はうまく聞き過ごすことができただろうか。案外簡単に「ただのアルバム」として聴けたような気もするし、逆に彼の死に至る精神の「きしみ」みたいなものに耳をそばだてていたような気もする。そのように「人が死ぬこと」や「死ななければならないこと」の意味を自分に問い返しながら何度も聴くことになるアルバムなのかもしれない。だってそれに簡単な答えはないんだもんな。どこまでも遠く遠く透き通って行くように美しいアルバム。
 

 
SOME CITIES Doves 8梅

ダヴズのアルバムを聴くたびに思うのだが、僕はやっぱりこの音に弱い。この、陰鬱なまでに暗くこもった音像。一切の解放を拒絶して、息苦しいまでに気密性の高い狭い部屋の中で鳴らされているような音。CCCDのせいもあるのかもしれないけど、でも、この人たちはファーストの頃からこういう音でやってた訳だから、たぶんこれが彼らの音なんだろう。この音でないとダメなんだろう。そして確かに、僕みたいにこの音でないとダメなリスナーがきちんとアルバムを買う訳だから、そこにはやはり需要と供給があるのだ。

この暗い音は、しかしその背後に確実な熱の存在を感じさせる。だれとも触れ合わず、ただ自分の足許だけをじっと見つめながら踊り続けるようなひそやかな熱狂。何かに取り憑かれたように、自分の奏でる音楽だけに耽溺して行くような特権的で閉じた陶酔。このバンドが奏でるそうした孤高の音楽は、僕の中のコードを確実にヒットする。ここにあるのはある種の特殊な美意識であり、秘密の約束であり、僕にしか分からないという感覚である。今しかない、ここしかないという切迫した前のめりのクールな焦燥感である。

ノーザン・ソウルを感じさせる「ブラック・アンド・ホワイト・タウン」が特にカッコいい。ゴーンとカタマリのように鳴る低音のピアノが理屈をすっ飛ばして僕の脳味噌の中枢に近いどこかを直接キックするのだ。文脈としてはブリット・ポップの残党でありよくできたメロディと幅広い音楽性の中堅バンドということになるのかもしれないが、僕にとってこれはまったく唯一無二のバンド。他のだれと似ていても似ていなくても関係ない。とにかく彼らのたたき出すビートのひとつひとつが比べるもののない特別な体験だ。
 

 
SINGLES Travis ---
SONGBOOK VOL.1 Super Furry Animals ---
MOBILE SAFARI The Pastels ---
AVE MARINA V.A. ---
COLLABO GUNBOS VOL.1 V.A. ---



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