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THE DELIVERY MAN Elvis Costello & The Imposters 8松

僕は1986年の「キング・オブ・アメリカ」辺りからコステロを聴き始めた新参者であるが、気がついてみれば彼自身のキャリアもそれ以降の方が断然長くなっている訳であり、おじさんも今年でめでたく50歳、僕もこのクソオヤジの気まぐれによくつき合ってきたものだとの感慨を禁じ得ない。前作では甘ったるいバラードの洪水に思わず低い評点をつけてしまったが、文句を垂れつつも弦楽四重奏との共演やらバカラックとの共作やらオペラ歌手とのデュエットまでフォローした甲斐があったというものだ。

スティーブ・ナイーブの安っぽいキーボードとピート・トーマスのパシパシしたドラム、名義はインポスターズだがこれは間違いなくアトラクションズの系譜である。ブルース・トーマスだけはもうどうしても一緒にやってくれないようだが、何よりオヤジのこの声。この声の奔放さとその存在感は何なんだ。この、しょうがねえ、そろそろまた、アレ、いっちょやるか、的なカッコよさはいったい何なんだ。もはや曲作りがどうだとかサウンドがこうだとかいう以前の、コステロだ、文句あっか、というアルバム。

じっくり聴いて行けばあちこちのレビューで言われているほどロックンロール一発でないことも分かってくるし、むしろダウン・トゥ・アースな演奏(ナッシュビル録音)と豊かなボーカルによるオーソドックスかつアダルト・オリエンテッドなロックであることに気づかない訳には行かないのだが、その説得力が前作と桁違いなのはやはりここでのオヤジがより自分のルーツや衝動に忠実だからだろう。これを聴いてしまうとまた昔のアルバムを引っ張り出して来たくなる。あんたの声にはストーリーがある。
 

 
AROUND THE SUN R.E.M. 8松

ここにあるのはもはやロックではない。ここにあるのは純粋な意志である。怒りと、嘆きと、赦しと、救いへの、ただ、それだけを希求する意志である。つまり、生身の人間がここにあり続けるための意志である。このアルバムは9.11のテロを契機に書かれた「ファイナル・ストロー」を含んでおり、彼らは今、「変革のために投票を」と呼びかけるツアーに参加している。しかし、このアルバムでの彼らは決して戦争反対などとは叫ばない。マイケル・スタイプの微妙な揺らぎを秘めたボーカルが朗々と続くだけだ。

しかしそこにはすべての感情があらかじめ含まれている。マイケル・スタイプはもうつぶやかない。彼の声には今、すべての怒りと嘆きと赦しと救いがあらかじめビルト・インされている。彼の声は今、驚くほどまっすぐに立ち上がり、光のように遠くまで届いて行く。R.E.M.は開かれ、ひとつの意志を持って僕たちに対峙している。そこにはもう一点の曇りもためらいもない。彼らは世界と向かい合う。彼らは巨大で凶暴な世界の前に立ち、自らの音楽がその圧倒的に不利な闘いの中で一瞬の奇跡を担うことを祈るのだ。

音楽的にはまったくのオーソドックスなロックである。曲調はゆったりしており穏やかだ。それにも関わらずこのアルバムはとても強い。そのきっぱりとした存在への意志で僕たちの自動化した毎日を激しくキックする。「僕を照らす太陽が欲しい 自由になるための真実が欲しい」とマイケル・スタイプは歌う。ここにあり続け、世界に立ち向かい続ける意志、その一点において彼らの音楽は今、だれよりも政治的でありどんなメッセージよりも饒舌だ。ここにあるのはもはやロックではなく、ただ純粋な意志である。
 

 
REAL GONE Tom Waits 8竹

人は一人で生まれて一人で死んで行く。ひととき、だれかと笑いあい、一緒に泣き、愛を交わすことはできるが、それでも僕たちが一人であることに変わりはない。だれかと寄り添って眠っても見る夢を分け合うことはできない。それは紛れもない現実だ。自分一人がいなくてもおそらくは当たり前のように動き続ける世界を前にして、僕たちは自分の取るに足りなさを知る。自分がいかに危なげで、頼りない存在かを僕たちは思い出す。宿命的で絶対的な孤独の意味を覚え、そして僕たちはまただれかを求めるのだ。

しかし、そのような孤独を慰安する都市生活者のブルースを、僕たちは知っている。彼は決して「君は一人じゃない」なんて歌わない。「きっとうまく行くよ」と肩をたたいてくれたりもしない。彼はただ、都市の闇の中に息づくもののことを歌う。グロテスクで、暴力的で、ヌメヌメして、冷酷で、しかしその中でしか生きられない者に対してはたまらなく魅力的な、そんな都市の夜のことを歌うのだ。君は一人だ、うまく行くかどうかなんて分からない、それでも君はどうせ、ここにしかいられないんだろう、と。

なぜならそこは一人で生きることを決めた魂の棲むところだからだ。トム・ウェイツの音楽をだれかに説明するのは難しい。マーク・リボーの歪んだギターと、しゃがれたトム・ウェイツの声。今作では一切ピアノを弾いていないが、もはやそんなことすらどうでもよくなるくらい圧倒的なトム・ウェイツの声は、いったんその磁場に捉えられた者にとって逃れようのない支配力を持っている。結局はいつものヤツなのだが、否応なくそこに惹かれて行くという意味でこれはもう都市の闇そのものだと言っていいかも。
 

 
TRANSATLANTIC PING PONG Glenn Tilbrook 7松

ストーン・ローゼズは素晴らしいバンドだった。だが、彼らが解散してジョン・スクワイアやイアン・ブラウンが発表したソロ・アルバムや新しいバンドのアルバムを聴いてこれはすごいと思った人がどれだけいただろうか。あるいはジョニー・マーが最近出したソロ・アルバムとか。伝説のバンドを解散した途端、並み以下のアルバムしか発表できなくなるアーティストは多い。バンド内の人間関係のあつれきから解放され、満を持して作ったアルバムが何のテンションもない恐ろしく退屈なものになるのはよくあることだ。

グレン・ティルブルックはスクィーズのソングライター・チームの片割れである。もう一人のクリス・ディフォードが詞を書き、グレン・ティルブルックが曲を書く。分かりやすい分業体制だ。僕の場合、歌詞の意味なんてほとんど気にしていないので、作曲担当であったグレン・ティルブルックのこのアルバムの方が、同時期に出たクリス・ディフォードのソロよりやはりスクィーズらしい。すごくクセがあるのにポップな節回し、少し鼻にかかったような声、スクィーズの特徴だと思ったのは彼の特徴だったのかと思う。

最初から最後までかなり調子のいいパワー・ポップで実に小気味いい。彼らのバンドとしてのアルバムは98年の「ドミノ」を最後に発売されていないが、それを継ぐべきアルバムはこれだと言ってもいいくらいだ。ただ、それではクリス・ディフォードの存在は何だったのかといえば、やはりこのアルバムにおけるその不在を感じない訳には行かない。彼を欠いたこのアルバムではどうも陰影が薄いし一本調子な面も見える。彼らのバンド・マジックも、ローゼズのようにもはや終わってしまったのではないと思いたいのだが。
 

 
HURRICANE BAR Mando Diao 7竹

スカンジナビアの田舎バンドのセカンド・アルバムである。ファーストでは無比の直線的な訴求力、ロックンロールの原初的なスピードとかビートだけで21世紀の今日にこれだけのことができるという見本のような素晴らしいアルバムだったが、それがこのセカンドでどう展開できるのか、注目のアルバムである。前作からほぼ1年のインターバルで届けられたこのアルバムを聴いて、しかし、僕は笑った。大笑いである。いや、素晴らしい。曲はますますポップになり、しかしギターはしっかり鳴り、メロは泣きが入り…。

だがこれはひとことで言ってそのまんまオアシスなのだ。いや、笑っちゃうほどオアシスなんだって。聴いているうちにボーカルまでがリアム&ノエルに聞こえてくる。サビの節回し、リフ、歌い放ち方、どれもこれもオアシスである。意識せずにやっているのだとしたら恐るべきシンクロニシティだが、かといって別にオアシスを真似た訳でもなく、おそらくは同じもの、即ちビートルズをバックボーンにしているからこそできあがりが相似してしまうんだろう。だけどファーストのときはもっとモッドぽくなかったっけ。

もちろん僕はオアシスも好きだから、このアルバム自体は聴いていて楽しい。メロディが際だっている。とてもスウェーデンの田舎から出てきたバンドのセカンドとは思えない完成度であり、まあ、ある意味かなり演歌ロックではあるものの、ビートルズ、オアシスという系譜を聴いてきた人には愛せるアルバムだろう。日照時間の少ない北国では自然にこういう曲ができるのかもしれない。それはそれでいいんだけど、それにしてもこのオアシスぶりをだれも指摘しないのかなあ。いやあ、本当に大笑いの楽しいアルバム。
 

 
TALES TOLD Ian Broudie 7梅

僕は自分の持っているCDの情報をパソコン上で自作のデータベースに打ち込んでいるのだが、検索してみたところ、イアン・ブローディがプロデュースしたCDを13枚持っていることが判明した。エコバニ、ペイル・ファウンテンズ、テリー・ホール、コーラル、テキサス…。世間的にどうかはともかくとして、僕の趣味としては間違いなく重要人物の一人である。だから彼自身のソロ・プロジェクトであるライトニング・シーズのアルバムも全部持っているのだが、どれも正直言ってあまり感心しない作品ばかりだった。

もともと「アナーキーな青春のロマンチシズム」をきっぱりとしたギターの響きの中に密封し、切れるような潔癖さと残像のように胸の奥に残る追憶を手に取れるほどありありと切り取ってみせる名人だけに、ライトニング・シーズの過剰包装みたいな甘々のエレクトロ・ポップぶりにはげっそりだった。メロディは美しいし曲の組立も万全なのに、イアン・ブローディ本人の身体性とか直接性がまったく見えてこない、厚化粧のようなアレンジ。同じ曲をテリー・ホールのためにプロデュースした時の方が百倍よかった。

本作は、そのライトニング・シーズの名前を捨て、ソロ名義で発表した初めてのアルバムである。ここではイアン・ブローディの声がすごく近く迫ってくる。全体としては穏やかなアコースティック・チューンが中心で、特にビートの効いた曲がある訳ではないのだが、このアルバムでの彼の背筋は真っ直ぐに伸びていて、その背後にイアン・ブローディという生身の人間のいることがはっきりと分かる。もう少しジャカジャーンって感じでギターが鳴ってもよかったけど、少なくともライトニング・シーズよりずっといい。
 

 
ABATTOIR BLUES / THE LYRE OF ORPHEUS Nick Cave & The Bad Seeds 8竹

2枚組の新譜で、それぞれに「アバトワ・ブルース」と「ライアー・オブ・オルフェウス」という独立したタイトルがついている。ニック・ケイヴといえば暗い穴の底から響いてくるような深く陰鬱な声で、どんな凶悪犯でもすみませんオレがやりましたとゲロしてしまいそうなネガティブな説得力を持つ暗黒大王だが、1枚目である「アバトワ・ブルース」をプレイヤーにセットして再生するなり僕は思わずのけぞって後頭部を強打しそうになった。それはあまりにバカバカしいリフ。あまりにカッコいいニック・ケイヴ?

もちろんいつもの重いニック・ケイヴもあるのだが、それにしても異形度はグッと下がっておりどれもこれも驚くほどオーソドックスでストレート。M6なんか聴くとその重厚でありながらロックンロール本来の疾走感とスピード感、硬質なピアノの響きに自信のようなものをすら感じてしまう。疾走感とスピード感? 自信? 待ってくれ、これはニック・ケイヴの新譜なのだ。自信にあふれた正統派のロックなんて、およそこれまでニック・ケイヴとは対極にあったものではないのか。ねじくれた暗黒大王が疾走感だって?

ブリクサ・バーゲルトが参加してないのでアバンギャルドさが後退したというのもあるのかもしれないが、エキセントリックさより曲本来の訴求力や喚起力でグイグイ押してくる正面突破の方法論が、この人がもともと持っているソングライティング能力の高さとすごく幸福にマッチしているのである。もう何も迷わない、もう難しい顔もしない、歌うべきことを考えられる最もシンプルなアレンジでまっすぐ歌う。1枚目の方がロックっぽくて2枚目はやや重いが、それでも聴き終えた後の充実感、満足感はすごい。名作。
 

 
WEIGHTLIFTING Trashcan Sinatras 6松

オリジナル・ネオアコもすっかり終わっていた1990年にデビューし、現存する最古の、そして最後のネオアコ・バンドとして宝物のように大事にされたトラッシュ・キャン・シナトラズが微妙に改名して8年ぶりの新譜をリリースした。今でこそグラスゴー系のギター・ポップ・バンドは我が国でもそれなりに一カテゴリーとして認知されているが、ネオアコなんて赤面ものの呼び名がギター・ポップ(これも相当恥ずかしいが…)に変わって定着するまでの不遇の時期を現役で支えた貴重なバンドというのが僕の認識だ。

とはいえ彼ら自身はグラスゴー系ギター・ポップが一定の市民権を得た90年代半ば以降、シーンの表舞台から姿を消してしまった。実にもったいない時期を棒に振った訳だが、その雪辱戦、復帰作がこのアルバムである。変わっていない。丁寧で、体温のあるメロディ、キラキラしたアルペジオの聞こえるアレンジ、一瞬の逡巡をその内にはらんだボーカル、名前は新しくなっても、このバンドの特徴的な美しさは失われようがなかった。真面目に、実直に、いっそ愚直にアコースティックを鳴らし続けるバンドだ。

しかし僕は昔からこのバンドに最後のところでもどかしさを感じてしまうところがあって、それはこのアルバムでも変わらなかった。それは僕たちがネオアコという言葉を口にするときにイメージしている、あの冬の朝の空気みたいにきっぱりした潔さ、輪郭のはっきりしたどこにも隠れ場所のない明らかさ、そうしたモメントの欠如だ。純粋であるがゆえに残酷なまでに冷たい潔癖さがネオアコという概念の一部なら、それを熱で代替した彼らはむしろ最後のネオアコであるより最初のギター・ポップだったのかも。
 

 
WELCOME TO THE NORTH The Music 7竹

ロック界にはヘヴィ・メタルという言葉があるが文字通り訳せばこれは「重金属」ということであり、要は徹底的にラウドなギターの響きや高音のボーカルから喚起されるハードな印象を鉄や鉛やクロムなどの重金属になぞらえたものである。そこから派生したものかどうか、必ずしもハード・ロックやヘヴィ・メタルと呼ばれるジャンルのバンドでなくても、ハードでヘヴィでラウドなギターを「メタリックな」と形容することはよく行われるのだが、このアルバムを聴いて僕はこのメタリックという言葉を思い出した。

もちろんそれはこのアルバムがヘヴィ・メタル的だということではない。もっと言葉の原初的な意味で、このアルバムで聴かれる彼らの音楽がすごく金属的だということなのだ。金属と金属がこすれ合い、ぶつかり合うときの、高く澄んだ音、鈍く腹に響く音、耳をつんざくような音、金属の発する音はどんなものでも強烈な異和感を伴って僕たちの耳を捉える。僕たちは動かしている手を止め、一瞬音のした方を見やるだろう。そういう、音自体の持つ衝撃力、訴求力という意味でこのアルバムはまさに音楽的なのだ。

機能的で高性能だが、そこに思想性が欠けているためにこの高性能はいずれ飽きられるだろうと僕は彼らのファースト・アルバムを評した。今、このセカンド・アルバムを聴くとその機能性はさらに深化し、とぎすまされ、もはやその機能性そのものが思想性を獲得し始めているのではないかと錯覚してしまいそうになるほどだ。しかし、ますます硬質に、ますます金属的になるこの音楽のもっとも基礎になるものは何なのか、僕にはやはりよく分からなかった。高性能であることが思想になるにはまだ少し時間がかかる。
 

 
HOW TO DISMANTLE AN ATMIC BOMB U2 8竹

「ウノス、ドス、トレス、キャトース」でいきなりノックアウトである。既にこの時点で勝負はついており、後はもうろうとした頭でU2にひれ伏すだけである。アルバム全体のプロデュースはスティーヴ・リリーホワイトだが、曲によってはブライアン・イーノやクリス・トーマスが手がけており、明快でストレートなストロング・スタイルのブリティッシュ・ロックという感じに仕上がっている。もうキャラクターを演じて顔を白塗りする必要もない、ということなのだろうか。たぶんそうなのだろう。

誤解を恐れずに言えば、ボノはそれほど頭のいい人ではない。少なくともこの人のやることにユーモアのセンスを感じる人は少ないだろう。何年か前のツアーでステージから各国の政治家に電話するパフォーマンスをやっていたのを覚えている人も多いと思うが、やることが中途半端にシリアスで笑えない。今ふうに言えば「イタい」存在だ。そういえば重債務国の債務帳消しを求めて運動していたこともあったな。そういうことをやっていても決してインテリジェンスを感じさせないのがボノなのだ。

白旗を掲げて雪の中を行進する「ニュー・イヤーズ・デイ」のビデオの頃から、インテリに憧れながら知能指数が追いつかず、その分を力で補うスタイルをこの人たちは貫いてきた。その愚直さ、その生真面目さ、そのテンパり方は確かに笑えなかったが、それが彼らをいつの間にかここまで押し上げたのだ。この押しつけがましさを楽しめるかどうかがU2を好きかどうかの分かれ目だと思うんだけど、音のひとつひとつの緊張感という意味ではR.E.M.を引き合いに出しても失礼でないレベルになった。
 

 
PALOOKAVILLE Fatboy Slim 7松

このアルバムを聴くと、ロックだとかロックじゃないとかダンスフロアだとかビッグ・ビートだとか、とにかくそんなふうにファットボーイ・スリムのことを語るのが本当に虚しくなる。ダンスフロアの特質が徹底的に記名性をはぎ取った機能性のビートであるとすれば、これはもう全然ダンスフロアなんかじゃない。ここにあるのはファットボーイ・スリムというアーティストがむき出しにしてたたきつけた個別性のカタマリだ。とても新鮮な、取れたての音楽だ。サンプルか生音か、そんなことどうでもいい。

僕みたいにクラブともアシッドとも全然縁のない自宅リスナーがiPodに流しこんで通勤の地下鉄で聴いてもきちんとフィットする。ノーマン・クック本人によればドライブにもバーベキューにも合うらしい。もちろん音楽自体はダンス・オリエンテッドであり、その点においてかろうじてDJのアルバムとして成立はしているのだが、これはもう踊るためだけの音楽ではない。僕たちの日常のどんな局面でも鳴ることのできる生のバックグラウンド・ミュージックなのだ。クラバーだけに独り占めさせてはいけない。

ファットボーイ・スリムはブライトンに25万人を集めるスーパーDJになり、ビューティフル・サウスは100万枚の売上を誇る国民的バンドになったが、ハウスマーティンズの性急なビート感を愛した80年代のギター・ポップ・フリークは、そのどちらにも本気で入れこめなかった。しかし、今、ハウスマーティンズの清新さ、スピードを継ぐのは意外にもこのファットボーイ・スリム、ノーマン・クックの方だったのではないかとすら思わせる。これはファットボーイ・スリムという新しいジャンルの誕生なのだ。
 

 
SMILE Brian Wilson 7竹

これは1960年代にブライアン・ウィルソンが制作しながら未完に終わったアルバムである。その辺の経緯はあちこちに書かれていると思うので適宜参照してもらえればいいと思うが、要はビートルズに対抗して壮大なコンセプト・アルバムを作ろうしたが、構想がデカ過ぎて自家中毒に陥り、ブライアン・ウィルソンはドラッグに溺れてアルバムはついに完成せず、その時の音源はバラされて断片的にしか発表されてこなかったという作品であり、それを新たにレコーディングし直したのがこのアルバムなのだ。

なるほど、幻の名作といわれるだけあって、完璧に作りこまれたサウンド、流麗なコーラスワーク、一枚の絵を見ているような全体としてのスケール感、どれをとってもブライアン・ウィルソンが失われた40年を取り戻そうとしただけのことはあると感じない訳には行かない。サーフィン・ホットロッドのバンドであったビーチ・ボーイズのクリエイティブ・サイドをほとんど一人で支え、ビートルズと渡り合える歴史上の存在にまで高めたブライアン・ウィルソンの才能の巨大さを思い知らせる内容である。

しかし、そうした歴史的陰影、記念碑的価値を別にすれば、21世紀の今日の目から見たときこのアルバムはあまりに牧歌的すぎる。いったん廃人になりながら地獄の淵から這い上がったオヤジの失われた夢をようやく実現しようとしたときには、もう一緒にコーラスをしてくれる兄弟もなく、ブライアン・ウィルソンのソロとして発表せざるを得なかった訳だが、それを考えればこのブライアン・ウィルソンという才能にとって自分がビーチ・ボーイズであったことは果たして幸運だったのか不運だったのか。
 

 
ANYTIME 小泉今日子 ---



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