logo 2004年9月の買い物


STUDIO 150 Paul Weller 7松

今や大物になってしまった感のあるウェラー兄貴だが、今作はディラン、ニール・ヤング他のカバー集であり、その意味ではこっちもリラックスして聴ける。かと思っていたらやはり作りは非常に生真面目かつテンション高く、オマエら、オレのアルバムを気楽に聞き流そうなんて承知せんぞ、とでも言いたげな兄貴の鋭い目つきにビビってしまうこと請け合いの力作。何となく若い頃は無茶をしてた近所の不良が大人になると、妙に遊びのない、説教臭い青年会議所の幹部になったようなそんな雰囲気さえ漂う。

若かった頃は、なんてことは言いたくないし、ウェラー兄貴には兄貴なりの人生や道程というものがあるのだから、彼自身の成長を認めない訳ではない。しかし、ザ・ジャムやスタカンの頃の兄貴には、もっと毅然とした、ある種やせ我慢にも似た「拒絶」の姿勢があった。それが、ソロになってからの兄貴はむしろ自分が「肯定」できるものを探す旅に出たような趣があって、それはそれでいくつかの豊穣な作品を生んだけれども、それが果たして成長から成熟へという必然なのかと僕は問わずにいられなかった。

人生に向かい合う自分の基本的なスタンスが肯定や受容から成り立っているのか、あるいは拒絶や否定の上に積み上げられたものなのか、その出発点において僕はいまだに迷い続けている。もしかして自分が何かを強く拒むことからすべてを始めているのだとしたら、その上で肯定できるものを探す過程というのは本来苦々しいものであるはずだが、兄貴のソロ作にはそういう苦々しさが足りず、達観したような安定感だけがあって、それが僕を苛立たせる。兄貴が抱えていた苛立ち、怒りの行く末を、僕は見たい。
 

 
THE LIBERTINES The Libertines 6竹

牧歌的という言葉が僕は嫌いだ。僕の好きなレコードが牧歌的と評されていると無性に腹が立つ。ゴーキーズなんかいい例だ。あのひとつひとつギリギリのメロディのどこが牧歌的だというんだ。牧歌的な音楽が好きならロックなんか聴いてるんじゃない。牧歌的とは思考停止のことであり、批評能力の欠如の別名であり、現状肯定の写し絵だ。音の表面が穏やかだからと言ってその背後にあるテンションを理解できず「牧歌的」というありきたりの言葉で片づけようとする態度こそ牧歌的でおめでたい。

ロックとは摩擦の音楽だ。穏便に、円滑にすませたいところに敢えて波風を立て、不必要なものをこすり合わせて耳障りな音を立てる音楽だ。だからいくらハードなギターが鳴っていても、そこに既存の秩序との「こすれ合い」がなければそんなものはロックでも何でもない。そうした保守的でスタティックな音楽のことをこそ僕たちは牧歌的と呼ばなければならないのだ。そんなものはどこかの田舎者に聴かせてやればいい。そんな音楽ばっかり有り難がって聴く田舎者ばかりの国が太平洋の向こうにある。

で、このリバティーンズだが、これが残念なことに牧歌的なのだ。80年代ギターロックの文脈で聴けばそれなりにコンパクトなできと言えなくもないが、こいつらはそういうバンドじゃなかっただろう。あの不穏で耳障りな摩擦音を響かせていたファーストは何だったのか。こんなにのんびりとした縮小指向のアルバムが彼らの成長なのか。こんな感じだったっけと思ってファースト引っぱり出してきて聴き直してしまったくらいだ。もっとこすれ。イヤな音も出るけど、こすってればいずれ気持ちよくなる。
 

 
OUT OF NOTHING Embrace 6松

僕はマイティ・レモン・ドロップスというバンドが好きだ。もともと80年代に局地的に盛り上がったネオ・サイケの文脈に連なるバンドだが、例えばエコー&ザ・バニーメンやティアドロップ・エクスプローズがその代表的なアーティストだとすれば、マイティーズは彼らのエッセンスを継受しながらそこに自分たちなりのオリジナルな何かを付け足すことのできない、つまり付加価値の見出し難い二線級の存在であった。ジュリアン・コープのアルバムを聴いた後で、他に似たのはないのか、というときに聴くバンドだった。

しかし、それにもかかわらず僕はマイティーズが好きだ。付加価値なんてどうでもいい。彼らのアルバムにはカッコいいリフが山のように詰まっているし、少しクセのあるメロディはしっかり耳に残るし、つまりは才能の欠如を学習とセンスできちんと補っているのである。何か独創的なものを作ることはできなくても、だれかが作ったオリジナルを「ここをこうすればもっとカッコよくなるのに」と修正した結果、ずっと完成度の高いものを作ってしまうような、そういう意味ではとても真面目で優秀なバンドだったのだ。

エンブレイスもそういう種類のバンドだと思う。今回のアルバムは手っ取り早く言えばオアシスとトラヴィスの私生児。それもどちらかといえばトラヴィスの血が濃い。オアシスやトラヴィスが自分ではもはややらないようなベタなネタを臆面もなくやった結果、なかなかポップなアルバムになりました、という感じの仕上がりである。今まさにロックの最前線に立ち会っているという緊迫感はどこにもないが、ある意味トラヴィスよりトラヴィスらしく、オアシスよりオアシスらしい、だからこそ素直に愛せるアルバム。
 

 
STEREO BLUES Velvet Crush 7松

ちょうど一週間前に誕生日を迎えて39歳になった。「ロッキング・オン」とか読んでて時折思うんだけど、ああいう雑誌を普通に買って読んでるヤツってだいたいどれくらいの歳なんだろう。少なくとも僕の会社の友人で、いまだにロックだ何だとCDを買い漁り、音楽雑誌を毎月欠かさずチェックしているヤツなんてみたことない。自分自身としては長年の習慣の延長としてごく自然にロックを聴いているのだが、もしかして39歳のオヤジがオーディナリー・ボーイズの新譜を買ったりするのは実は「ヘン」なんじゃないか。

人がどうやってロックを聴かなくなるのか、そのメカニズムは僕には不明だが、僕がどうしてロックを聴き続けているかは明白で、それは僕の精神構造が単に甘ったれたガキだからである。甘ったれたガキがいっぱしの大人のようなツラをして銀行員なんかになって、あまつさえエラそうに「部下」に指示を出していばったりしてるもんだから、自分の中で人格の乖離が起こって、そのギャップを埋め合わせるために、一所懸命うるさいビートの中に自分のよりどころを何とか見出そうとしている訳だ。それがロックだ。

そういう意味で言えば、いい年してロックをやっているアーティストなんてさらに人格の乖離が進んでいる訳であり、その埋め合わせとか取り繕いの過程こそがロックなのである。ベルベット・クラッシュが今、こんなハードな音を鳴らさなければならないのも、そしてそのギターの鳴りとは正反対に、その音の隙間にある空間にこそ僕たちの耳が釘付けになってしまうのも、彼らがいまだにビートの中に自らの足場を探しているからだ。初期のティーンエイジ・ファンクラブを少し思い出させるギターとメロ、会心作だと思う。
 

 
OVER THE COUNTER CULTURE The Ordinary Boys 7竹

このバンドの名前は以前から知っていたが、そもそもバンド名がひどいのと、ダジャレみたいなデビュー・アルバムのタイトルやそのジャケットのセンスのなさにもゲッソリ来て買わなかった。ところがこないだレコード屋にCD漁りに行ったとき、店内でかかっていた音楽が強烈だった。「ザ・ジャム?」と思ってモニタを見るとこいつらだったという訳だ。サビのメロディー・ラインやコーラス・ワークがどう聴いても初期から中期のザ・ジャム。ここまでやると、ああ、本当に好きなんだなと微笑ましくもなる。

実際、アルバムを買って帰って全編聴いてみたが、これはポール・ウェラーがやらなかったザ・ジャムの続編である。というか別に発展してる訳でもないからジャムのパラレル・ワールド編である。スティーブン・ストリートのプロデュースも大きいとは思うが、曲作りの達者さとか演奏の歯切れのよさとかも含めて、あるバンドが特別な一時期に持っているやみくもな輝きのようなものをすごくフレッシュなまま密封している奇跡のようなアルバムだ。この潔癖さ、不寛容さはだれもが持っているものではない。

ストロークスもリバティーンズもマンドゥ・ディアオも持ち得なかったこの覚醒感は確かにモッズ系のビート・バンド特有のものだが、その輝きを維持して行くのは簡単な仕事ではない。鮮烈なデビューアルバムだけを残してどこかに消えて行くバンドは数え切れないし、ザ・ジャムですらビート・バンドのままで生き続けることはできなかった。だから彼らが果たしてどんな「次」をこのビートの向こうに見出すのか心配になってしまうけれど、だからといってこのアルバムの価値が下がる訳でないのはもちろん自明。
 

 
FRANZ FERDINAND Franz Ferdinand 7梅

次はフランツ・ファーディナンドのアルバムをレビューしなければと思って通勤の行き帰りにこのアルバムを聴き始めてもうほとんど1ヶ月近くになると思う。もうどの曲もしっかり耳に焼きついてしまって、しかもイヤホンで聴いているので歌詞も部分的に聞き取れたりもするのだが、困ったことにこのアルバムをうまく形容することが僕にはできない。とてもしっかりしたファンク・ロックでありブリティッシュ・インディーズでありギター・ポップなのだが、その本質がどこにあるのかさっぱり見えないのだ。

というのもこのバンドの音が全部ゴロゴロのカタマリになっているからだ。いや、オーディオ的な意味で音が悪い、団子になっているというのではない、これはファンク、これはポップ、これはロックと腑分けできないくらいとにかくいろんな音楽的要素がごった煮的にぶちこまれていて、それらが全体として名状しがたい音楽のカタマリとしてこっちにぶつかってくるのだ。もちろん1曲毎に耳を傾ければファンキーなベースやギターのカッティングやクセのあるメロディは間違いなくそこにありはするのだが。

こいつらを聴いて思い浮かぶのはだから今どきのロックンロール・ルネッサンス系のバンドではなく、例えばスーパー・ファリー・アニマルズだったりする。これは何なんだという異質な感じ、ゴリゴリしたモノがどこかにあらぬところに挟まっているような異物感、それこそがこのバンドの一番の売りだとおもう。惜しまれるのは彼ら自身が自分たちはカッコいいと錯覚しているところだ。そういう誤解は早く捨てて、こんなものがこんなとこに挟まってたら気持ちいいだろうという自覚をしっかり身につけて欲しい。
 

 
I DID'T GET WHERE I AM Chris Difford 7竹

1999年5月のことだったと思う。職場の同僚と一緒に4家族で、モーゼル川沿いにあるワイン蔵を訪ねて一泊の小旅行をしたことがあった。穏やかな初夏の週末で、それほど観光化されていないモーゼルの小さな町々はどこも愛らしかった。僕たちは行く先々でワインを試飲し、気に入ったものを箱単位で買いこみながらモーゼル川に沿ってルクセンブルグにまで遡り、スパークリング・ワインの蔵元が経営するレストランで昼食を取った。ドイツ人の家族が同行してくれたおかげもあって旅程はスムーズで快適だった。

僕たちが川沿いのテラスで昼食を取っている間、子供たちは芝生の庭で遊んでいた。もうすぐ4歳になる僕の長男も、同僚の子供と一緒にミニカーを走らせていた。そのとき、川の向こうの線路を走る列車の音が聞こえてきて、長男がふと顔を上げ、音のする方を見やったのだ。その時、その横顔を見た僕は急に涙がこみ上げてくるのを感じた。なぜならそこにいたのは僕の長男ではなく、子供の頃の僕だったからだ。幼く、小さく、弱々しく、ただ真っ直ぐに世界の彼方を見やっていた僕自身がそこにいたからだ。

それは不思議な感覚だった。そのとき、僕は3歳の子供であり、34歳のサラリーマンであり、そして同時に僕を見つめる僕の父でもあった。あの、もう二度と訪れることもないだろうルクセンブルグのレストランのテラスで、僕は子供の頃の僕に出会ったのだ。このアルバムを聴いて、僕はその時のことを思い出した。静かで穏やかなアコースティック・サウンドに乗せて歌われるのは、そんなセラピーのような風景だ。深く深く自らの内面に沈潜し、記憶の中をさまようような、せつなく、悲しく、美しいアルバム。
 

 
KEEP GOING Stephen Duffy & The Lilac Time 6松

今ではデュラン・デュランのオリジナル・メンバーだとか余計な説明をしなくてもいい程度には知名度も得ていると思われるライラック・タイムの新譜である。今作ではスティーヴン・ダフィ名義を前面に出しているが、ライラック・タイムはもともとダフィのソロ・プロジェクトのようなものであり、今作でも別にバンドとしての実体がある訳ではないようだ。今作での特徴はカントリー・ミュージックへの大胆な接近だろう。ペダル・スティールやバンジョーを多用した音作りは意外に効果的でハマっている。

もともと半分ムード・ミュージックみたいな森閑としたアコースティックを得意とする人で、静謐で美しくはあってもそれ以外に訴えかける実体のようなものを何も持たない音楽だと思っていた。前作では少しアクティブに開かれたところも見せたが、ウォーホルを持ち出すまでもなく「その背後には何もない」こと自体がポップだとするなら、ある意味最もポップなアコースティックかもしれないと思っていた訳だ。ところが今作では妙に泥臭いカントリー調で確実に表面の後ろにも何かがあることを感じさせる。

部分的に導入している女性ボーカルとのデュエットもあり、いつになくダフィが近くに寄ってきた印象を受ける。背後に存在するものを見えないようにするためにひたすら美しい表面を作り上げようとしてきたのが初期のライラック・タイムだったとすれば、確実にダフィの肉声は僕たちに近づいてきており、今作では森閑とした音作りもむしろダフィの生々しい息遣いをよりはっきり聞かせるためにこそ機能しているように思える。決定的なモメントが欠けているのは相変わらずだが、ロックとして聞けるアルバム。
 

 
UP ALL NIGHT Razorlight 6竹

なにしろレイザーライト、カミソリのきらめき、というくらいだからさぞ切れ味の鋭いクールなビートパンクでも聴かせてくれるのかと思ったのだが、実際には雑食性とでも言うべきか。よく言えばフリースタイル、悪く言えばよりどころとか軸というものがはっきり見えない。それが一応聴くに値するものに仕上がっているのはそれなりにソングライティングの能力があるからなのだと思うが、このアルバムを聴いただけでは彼らがどこから来てどこへ行こうとしているのか今ひとつ判然としない。

奇をてらわず正攻法で聴かせる勝負の仕方はいいし、曲作りもオーソドックスで、いかにもギターロック。レンジも広く新人とは思えない懐の深さを感じさせるが、いかんせん、それではレイザーライトのロックとは何なんだろうと問われたときに答えるだけの記名性が見当たらない。もちろんそんなに簡単に「これがレイザーライトだ」なんて括られないということがスケールのデカさだとか個性だとか言うことも可能なのかもしれないが、このアルバム、外で聴いてもだれのか分からないかも。

根っこなんかなくていい、行く先なんて分からない、ただ自分たちはこれがやりたいからこれをやってるんだというのならそれでもいい。ただ、その我流のフリースタイルが唯一無二の名前を刻んで行くほど強固で比べようのないものかといえば僕にはそこまでの強いモメントを感じることはできなかった。デビュー・アルバムにしては驚くほど達者な作りだし、おっと思わせるメロディラインやアレンジもあるものの、全体としての「レイザーライト印」が足りない。もっと切れて破綻してみては。
 

 
ORIGINAL SOUNDKEROCK 1 鈴木さえ子 with TOMISIRO ---



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