logo 2004年7月の買い物


UP AT THE LAKE The Charlatans 8竹

実にはっきりしたアルバムだと思う。シャーラタンズは半ばハイプとして登場したデビュー作から、一作ごとにどんどん骨太な本格派の「ロックバンド」になり続けてきたバンドだった。だが、前々作辺りではそれが既にかなりのレベルに達し、まさに王道で生き残るかどうかという分水嶺にまでたどり着いたと思った途端、前作ではいきなりいかがわしいファンク路線に心変わりし、ティム・バージェスのファルセットを延々聴かされた僕は、その実力は認めながらも難しく苦しいレビューを強いられたのを覚えている。

だが、今作ではシャーラタンズは王道の本格派ロックに明確に回帰している。それはおそらくティム・バージェスがソロ・アルバムを制作し、自分のまったく趣味的な嗜好をそちらで思う存分発揮した結果(確かにそういうアルバムだった)、シャーラタンズというバンドの位置づけが彼の中ではっきりしたということなのだと思う。ここにあるのは、アメリカン・ルーツを踏まえながらもマンチェスターという出自に忠実な、まぎれもないブリティッシュ・ロックの正統的で現代的な解釈であり、要は「ロック」だ。

アメリカとイギリスとでは市場としての規模がまったく違う。イギリスで売れるのとアメリカで売れるのとでは意味合いも違う。同じ英語国であり、旧宗主国でありながら、常にアメリカに憧れ続ける宿命にあるイギリスのロックは、だから、常にある種の複雑な眼差し、アメリカへの潜在的でアンビバレントな憎悪を内包していると言っていい。そうした屈折した心情こそが、僕が決定的にイギリスものに引かれるモメントな訳だが、それがまさにドンピシャの配合で出た堂々たるロック大作。暑苦しい夏にこそ聴け。
 

 
SONIC NURSE Sonic Youth 8松

僕はだいたいノイズ系とか何だとか、そういうよく分からない難しい音楽はあまり好きじゃない。ヘヴィメタルやテクノを受け付けないように、アヴァンギャルドな前衛音楽、実験音楽は苦手。何しろ根はネオアコだ。ギターが少年期の焦燥と憧憬をかき鳴らすような蒼くてせつない音楽が僕は好きなのだ。いいだろう、笑いたければ笑えばいい。そんなの人の好きずきだ。自分でカネを出してCD買ってるんだから、難しい顔をして何かを無理矢理「理解」しようとする必要なんてない。そのことに気づいたのは5年ほど前だ。

デュッセルドルフのアルトシュタットで酒を飲んだ帰り道、女の子を送って行くタクシーの中で僕はそのことに気がつき、彼女にそのことを繰り返し語ったのだったけど、それはもしかしたら単に酔っぱらっていたということなのかもしれない。とにかく、世間で評判の高いバンドだからと言って気に入らないものを無理に我慢して聴く必要なんかどこにもないということだ。イヤなら聴かなくていい。そう割り切ったらソニック・ユースのアルバムがすごく楽しく聞こえるようになった。ソニック・ユースは全然難しくない。

今回のアルバムもどうだ。このギターのリフのチャーミングさ、ロマンチックさはどうだ。サーストン・ムーアの、キム・ゴードンの、この堂々たるロックンロールぶりはどうだ。鳴らされる音のひとつひとつが寸分の狂いもなくあるべき場所に収まりながら、ロックとしての原初的な不穏さと泣きたくなるような美しさを同時に奏でてみせる。欠点といえば正しすぎることくらいしか思い浮かばない2004年型ロックの最先端であり、そうやって前線に立ち続けるタフさは尊敬に値する。ジャケットは怖いが中身は美しい。
 

 
A GHOST IS BORN Wilco 7松

演奏が終わった後、延々とノイズだけが続いて行く曲があったり、出だしがすごく小さな音でぼそぼそと歌われて途中で急にギターのカッティングが入る曲があったり、長い長いギターのインプロビゼーションがあったり、そういう嫌がらせみたいな仕掛けがいろいろと施してあるので最初は取っつきにくく、前作はもっとポップだったのにな、と思いながら聴くことになる。特に会社に向かう電車の中で聴くにはあんまり適当じゃないかもしれない。地下鉄の中だと相当ボリューム上げないと何だか分からない曲もある。

だけど、最後まで聴き通すとこのアルバム全体がいかにしっかりと、真面目に作られているかが次第に分かってくる。もちろんそこにある音のひとつひとつは間違いなくカッコいい。紙ヤスリで仕上げをしないざらざらの表面だけど、その放り出し方が確実にオルタナティブであり、しかももはやギターの轟音にすら信頼しないくらい最果てであり、そこまで聴いてもう一度最初に戻れば、嫌がらせに思えた取っつきにくさもウィルコというバンド本来のクールネスなのではないかなんて思えてくるから不思議だ。

おそらくは満員の地下鉄なんかじゃなく、することのない日曜日の夕方くらいにやけくそみたいなボリュームで鳴らして、その無茶苦茶な構成にトリップするのが正しい聴き方なのかもしれないが、いずれにしてもロックというものの本質は決してラウドなギターや高い声のシャウトそのものではないということを示すアルバムではあるだろう。狭くて通りにくい入口を通り抜けたら意外なほど広く、奥行きのある部屋だった、というような作品だが、それにしても1曲目の立ち上がりの悪さだけは何とかして欲しい。
 

 
ONE PLUS ONE IS ONE Badly Drawn Boy 7竹

僕たちの夏休みは終わった。照りつける太陽や白いTシャツやサンダル履きの足の爪や混み合う空港ももう先月のことになって、僕たちは同じ蒸し暑さの中に昨日までとは違うものを探し始める。キラキラしたもの、ワクワクすること、美しい光の中に置き去りにした僕たち自身の逡巡や後悔のまぶしさを鼻で笑い、歩くスピードも少しだけ早くなるのかもしれない。九月。そして来年の八月には僕たちはもう今年の八月と同じではいられない。それが夏休み。争いも恋も、仕方ない、それが夏休み、ってオザケンも言ってる。

もちろん僕はもう19歳とかじゃない。夏が終わるたびにため息をついている訳には行かない。だけど、通勤電車が急にまた混み始める朝の、何かが切り替わった空気みたいなものは今でも分かる。そして、そんな朝、僕のiPodから流れていたのはBDBの新しいアルバムだった。恐ろしく真面目に、恐ろしく地道に、丁寧に作られたメロディを聴きながら、地下鉄の壁が目の前を流れて行くのを僕は見ていた。そしてそうした端整なメロディのひとつひとつが僕の記憶を震わせ、揺らせて行くのを感じながら乗り換えの駅に降りた。

前作、前々作の、ゴージャスでポップな出来からすれば今作での曲想は明らかに地味になっている。非ロック的な楽器の使い方やアレンジはまぎれもなくBDBだし、メロディラインやボーカルは実際のところ何一つ変わっていないのだが、弾むようなカラフルさは今作ではグッと抑制され、歌に傾聴することを要求する生真面目な作りになっているのだ。しかしそれが抑圧的にならないのは曲そのものの風通しのよさのなせるワザ。静かな秋の夜とかに長い小説でも読みながら聴くのがいいアルバム。何度でも聴ける。
 

 
THE CURE The Cure 7松

キュアーを聴くとマンハイムに住んでいた10年以上昔のことを思い出す。92年当時、僕はマンハイムというドイツの街の中心にある学生寮の屋根裏みたいな狭い部屋で、携帯用のCDプレイヤに乾電池式の小型スピーカを繋いで音楽を聴いていた。1年の滞在の予定だったから日本からはほとんどCDを持って行かず、現地で買った新譜を繰り返し聴いていた。その中にキュアーの「Wish」が入っていたのだ。だからロバの泣きながら歌っているようなうわずった声を聴くと、自動的にその頃のことが思い出される訳だ。

それはこのアルバムの出来がどうとかこうとか言う以前の問題、とにかくキュアーといえばこのロバの声ではないか。サウンドがどうであれメロディがどうであれ、ロバがこのまるで思春期のように不安定な声で恥ずかしくも感極まった声を上げ続ける限り、キュアーはキュアーなんじゃないかと思ってしまう。この恐るべきワンパターン、究極の一枚看板、これこそ「芸」の世界である。ザ・キュアーとはロバート・スミスという芸なのだ。何の進歩も革新もない、このデブのお化粧野郎こそキュアーの真実だ。

なんて意地悪を書きたくなるくらいこのアルバムでのロバはノッている。特に重ためのM-1、M-2を突破した辺りから急に風通しがよくなり視界がパアッと開けるのだ。どうしてこんなに自信に満ちた音が鳴らせるのか、不思議なほど清々しい突破力に満ちている。相変わらず声はうわずっているが、そこにおどおどしたイジメられっこみたいなたたずまいはもうない。マンハイム以来ここ2枚のアルバムも買っていない不真面目なリスナーを力ずくで説得してしまうくらいかっちょいい。とにかく3曲目まで耐えろ。
 

 
LOGIC WILL BREAK YOUR HEART The Stills 7梅

カナダ。もう再三にわたり書いているのでいい加減に勘弁してくれという人もいるだろうが念のためにもう一度書いておくと、僕はことロックに関してはイギリスものしかほとんど受け付けない。どんな素晴らしいアルバムでもアーティストがアメリカ人であったりするともうガックリである。アメリカ人は集団で気が狂っているのだと僕は半ば本気で思っている。アメリカは激しくパワフルであり、そうであるがゆえに深く病んでいる。それより僕にはイギリス人のこじんまりした感傷の方が数倍性に合っているのだ。

ところが、カナダだ。ある意味アメリカよりアメリカ的であるカナダだ。カナダのロックって…。このアルバムだって、こいつらがカナダのバンドだと知っていたら買わなかっただろう。ところがどうだ。この見事なまでのギターの鳴り。一曲目のイントロからしてもう一撃で昇天寸前である。これは僕が十代の後半から二十代の前半に聴いたイギリス産のギターロックそのものだ。潔癖なまでに単線的でタメとか揺れとかのまったくないエイトビート、決して歪まないギター、そして、シャウトしない気弱なボーカル。

すっかり時代遅れになったと思われていたそんなスタイルをいとも簡単に21世紀の現代に鳴らしてみせるバンドは、しかしイギリスからではなくカナダから現れた。このスタイルが00年代の世界にも響くということを彼らの音楽は能弁に物語っていると思うが、それはロックとしては周縁の場所からしか生まれ得ないということなのか。帰りの電車の中で、このアルバムが終わった後に、無性にストーン・ローゼズが聴きたくなったが、むしろこの音がなぜこんなにきちんと現代的に聞こえるかをきちんと検証すべきかも。
 

 
GETTIN' IN OVER MY HEAD Brian Wilson 7竹

僕はまったくビーチ・ボーイズの真面目なリスナーではないので(ていうかアルバム1枚も持ってない)、ブライアン・ウィルソンという人が全盛期にどれくらいすごい仕事をしたかということは知識として知っているに過ぎない。僕の中でビーチ・ボーイズはかなりステロタイプなサーフ・コーラス・グループとしてイメージが形成されており、この人のソングライター、サウンドクリエイターとしての資質は知っているものの、ビーチ・ボーイズというバンドそのものにはこれまで食指が動かなかった。

今作を聴いて笑うのは、1曲目からいきなりそういうステロタイプなビーチ・ボーイズ全開であることだ。ブライアン抜きのビーチ・ボーイがヒットを飛ばしたりもしたが、それに負けず劣らずもろビーチ・ボーイズ。おっさんいい年してまだこれやってるか、と微笑ましくも気持ちよいサーフ・アルバム…。しかしここにあるのはそんなに気楽なサーフ稼業ではまったくない。ここで判明する恐ろしい事実は、おっさんが結局これしかできないということ、そしてそれは爽やかでも何でもないということだ。

おっさんの特異な才能はこのフォーマットでしか花開き得ない。それはかなり偏った才能であり、本人にとってはかなり切羽詰まった状況である。それゆえこのおっさんは精神的にヤバい時期を通り過ぎてきた。今、いかにもおおらかに聞こえるこのアルバムが、飲み会の帰りに酔っぱらった頭でiPodから聴くと、一人多重コーラスが脳味噌の中でグルングルン回っちゃうのは、おっさんのヤバさがちっとも癒されたり治ったりしていないことの証左だ。ロックという言葉の意味を体現する凄みがここにある。
 

 
THE SUN 佐野元春 and The Hobo King Band ---



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