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DEAR CATASTROPHE WAITRESS Belle & Sebastian 8梅

イザベル・キャンベルが抜けたのはまだしも、プロデューサーがトレバー・ホーンだと聞いて「タトゥーかよ」とツッコミを入れたくなった人は少なくないはずだと思うが、やっぱり何一つ変わってない。ていうか変わるはずない。なぜならスチュアート・マードックという人は初めから確信犯としてのベルセバをやってる訳だから。この天真爛漫なアコースティック・ミュージックは00年代にあって音楽的テロに他ならないということをやってる本人が最初っから意図してる訳だ。その本質はどうしたって変わりようがないだろう。

もちろんこのアルバムではひとつひとつの曲の表情が妙に明るくなり、オーケストレーションやギターの鳴り、リズムなんかにもアグレッシブな部分が出てきた。今まで勝てる試合しかしなかったベルセバが、少しだけ間口を広げて実はこんな勝負もできるんだと見せびらかしてるような趣はある。しかし彼らが歌っている歌はどれもこれも聴いたことのあるものばかり。彼らは現存する最もラジカルなパンクバンドであり、執拗に同じ歌を歌い続けることで、ベルセバが良心的なフォークバンドだという誤解を高らかに嘲笑ってる。

もちろんそれはスチュアート・マードックが好きでもない音楽をただ戦略的、商業的に奏でているということではない。好きな音楽を奏でることがこの00年代にあって何よりもラジカルなリベンジになるということ。それはつまり彼の好きな音楽が奏でられないまま過ぎた90年代への意趣返しに他ならないわけだが、そういう倒錯した構造こそがベルセバをここまでメジャーにしたのであり、そうした甘い悔恨がベルセバの音楽の架空の懐かしさの本質。そろそろどうやって終わらせるかを考えた方がいい時期になってきたかも。
 

 
SLEEP/HOLIDAY Gorky's Zygotic Mynci 7梅

前作も穏やかだったがそれに輪をかけて穏やかなアルバム。全編アコースティック・ピアノやバイオリンを前面にフィーチャーしたモダン・フォークとでもいった雰囲気でのんびり、まったりと進んで行く。M3みたいなロックンロールはむしろ例外で眠たくなるようなアコースティックの夕べが続く。もちろんソングライティングは秀逸でおとなしいなりにアルバム全体には起伏もついているのだが、いかんせんCDの中から飛び出して働きかけてくる能動的なモメントに欠けることは否定し難いように思える。

例えばギター一本でも聴く人の心をわしづかみにする音楽というのは確かにある。それは結局歌い手がその曲、その音楽の向こうに何を見ているかということであり、歌い手が見た景色の中に聴き手を無理矢理にでも引きずりこまずにはいられない強い引力のようなものが果たしてそこに作用しているかということである。さらにいうならば歌い手がその歌を歌うことによって何にコミットしているかということ、いや、そもそも何かにコミットし、だれかに話しかけているのかということが問われている。

その意味でこのアルバムは物足りない。前作ではもっと聴き手一人一人に立ち入って何らかの反応を促すような「動因」があったような気がするのだが、今作では彼らの姿が音楽の中に自足してしまっているような印象を受ける。そこから出ておいでよ、と呼びかけても、いや、僕たちはこれでいいんだ、と一人ギターを爪弾いているような奥向きのベクトルのアルバムであるように僕には思えるのだ。アコースティックであればこそのエッジ、何だ牧歌的で文句あるかくらいの突っかかりがあって欲しかった。
 

 
ABSOLUTION Muse 7梅

選挙中だが日本で一番保守的な政党は自民党でも保守新党でもない。自民党は政党というよりシステムだからいくらでも新しいイデオロギーを受容できるのだが、そういう意味ではまさに革新政党ほど保守的なのだ。たとえばあの人の顔を思い浮かべてみよう。ほら、言ってることは恐ろしいほど昔から同じでしょ。彼らには情況を革新しようという気持ちはあるのかもしれないが、自己を革新しようという発想はどこにもなさそうで、要はそれが保守的であるということに他ならない。ま、情況だって革新できてないけどね。

ミューズといえば耽美的で大仰な「大げさロック」の旗手だが、今作では随分コンパクトにまとまって聴きやすくなった。とはいえことさらに劇的に展開し、ことさらに歌い上げて見せる「大げさ病」そのものは決して治った訳ではない。まあ、この人たちの場合「大げさ病」は死に至る病であると同時に彼ら自身のアイデンティティなので簡単に治ってしまう訳にも行かないのだろうが、歌ものとしてかなり要領よくこなれつつある今作でもその宿命的なドラマティック体質は十分に堪能できる。バランスはよくなったけど。

ただ、そう思って聴けば聴くほど、このアルバムが自家中毒に思えてきてしまうのはなぜだろう。革新政党が保守的なのと同じ意味でヘヴィメタルも保守的だが、このミューズのサード・アルバムにもやはり同じ種類の保守性を感じてしまう。このまま大げさ病を抱えこんで走り続けるのなら大げさであり続ける自己を絶えず革新し続けなければならないだろう。大げさであり続けることの意味、大げさでしかいられない自身の業を大げさに歌い続けるしかないだろう。そこまでテンパッたとき僕は初めてこのバンドを評価する。
 

 
AMAZING GRACE Spiritualized 7松

あのスピリチュアライズドがなんとほとんどスタジオ一発録りで作り上げたというガレージ・アルバム。一曲目からいきなりキまくってやがる。途中ちょっと音響もどきというかそれっぽい雰囲気に流れる局面もあるが、それさえも含めて基本的に最初から最後までザックリした手触りが生々しい。曲も短くアルバム全体も昔なら46分テープに収録できてしまう全11曲、やみくもな勢いでぐいぐい押し流されて気がついたら中出しされてたというような下品なレビューを書きたくなってしまうくらい痛快で嬉しいアルバム。

もちろん宇宙飛行士ことジェイソン・ピアーズのアルバムだから普通のガレージじゃない。だが、あれだけ鬼のように大仰に音響を作りこみ、サイケという神なき宗教を黙示せずにはいられなかったその同じ人が、同じ「バンド」の名義で、この血のしたたるようなナマっぽいアルバムを作って新譜としてリリースしてくること自体がパンクであり、ロックであり、サイケなのだ。ここでは大仰で過剰な、典型的なサイケ的世界観は既に超克されており、むしろその上位にあるスタティックなサイケ概念にまで到達している。

つまりサイケデリックとはお花畑ではなく、もっと静的で絶対的なある精神のありようのことなのだとジェイソン・ピアーズは看破したのに違いない。そうであればそれはもう仰々しい音響の大空間である必要すらない、取り敢えずその辺にある楽器でガシガシやってもそれは立派にサイケたり得るのだ、その方が安上がりなのだという地点までこの宇宙人はたどり着いたのだ。そうした認識から繰り出されるこのガレージ・パンクは怖いし、間に入る大げさ系の曲との音量の違いまでがヤバい。ヤバく、そしてカッコいい。
 

 
12 MEMORIES Travis 8竹

針で突くとくるんと皮がむける水ようかんがあるが、前作、前々作のトラヴィスのアルバムにはそういう一触即発の緊張感があったと思う。一見とても静かに、とても落ち着いて聞こえるのだが、実際にはいろんな要素が恐ろしい力で互いに引き合った結果達成された奇跡のようなギリギリの平衡状態、それがトラヴィスの音楽の凄みだった。いったいどういう契機でフラン・ヒーリーがこうした視点を手に入れたのか分からないが、それはあのセカンド・アルバムで確実に示された一つの世界観であった。

今作でもそういうギリギリ感みたいなのは間違いなくあるんだけど、その質感がちょっと違ってて、音像そのものの静けさよりはもっと息を詰めて聴く感じの露わな緊張感が特徴的。最初から最後までどこにも解放がなくて、結局無呼吸のまま最後まで聴いてしまうしかないようなひどく息苦しく抑圧的なアルバム。例えばXTCの「イングリッシュ・セトルメント」なんかに似た感じの苦しさだが、あのアルバムにすらまだある種の解放とかカタルシスがあったことを考えれば、ホントにキツいアルバムだ。

ここまでぎゅうぎゅう「いい歌」を詰めこまれるともう勘弁してください、もっと単純に楽しませてくださいと泣きが入りそうになる。ガチガチの正論でこれでもかと押しまくられてる感じで、このアルバムにきちんと向き合うにはこちらにも強い意志と覚悟が必要であり、風邪なんかひいて体調悪い時には神経が持たない。理論武装して正面からぶつかる体力のあるときに聴くべきアルバムだが、ここまで抑圧的だともはやブリットポップだなんて呑気なことは言ってられない。そう、これはロックだ。
 

 
COWBOYS AND INDIANS The Jeevas 8梅

前作から引き続き大爆笑しながら感動できる素晴らしいロック・アルバムである。例えばストロークスとかマンドゥ・ディアオが鳴らしているロックンロールの手ざわりとかなり似ているのだがその痛快さはどこか質が違う。彼らの場合はあのスタイルが新しいと本気で信じているところがあり、というか何かを革新するために敢えてあのスタイルでストレートなロックを鳴らしている訳だがクリスピアン・ミルズは違う。好きなのだ。これが。このバカバカしいオールドファッションドな「ロック」がマジで好きなのだ。

だってあんた、カバーがCCRとディランですよ。「雨を見たかい」と「戦争の親玉」ですよ。人を食ったタイトルとジャケ。大笑いだ。大笑いだけどカッコいい。繰り返し聴きたくなる。なぜかといえばクリスピアン・ミルズが大真面目に時代錯誤しているからであり、そしてロックという音楽の最も本質的な部分をがっちりつかんでいるからだと思う。確かに2003年にこれはないだろうというセンスなのだが、それがこれだけの自信と確信の下にこれだけの水準で鳴らされると身体はどうしても正直に反応してしまう訳だ。

そしてこれがアメリカではなくイギリスから出てきたところがまた素晴らしい。アメリカ人がこういう時代錯誤のしかたをしてても面白くも何ともないだろう。そんなものはただのバカだ。だが、日常的にそういう環境にあるはずのないイギリスの上流階級からこういうロックバカ一代が出てくると話は違う。そこにはやはりなにがしかの意識的なモメントがあるはずだし、そういうある種の倒錯が彼らの音楽のスゴみの背景にあるのは間違いのないところ。さあ、もう一度リピートして聴こう。そして大笑いしながら泣こう。
 

 
MODERNINSM: A NEW DECADE The Style Council  
LOST IN TRANSLATION V.A.  
CREPUSCULE FOR CAFE APRES-MIDI V.A.  
THIS IS YOUR BLOODY VALENTINE My Bloody Valentine  



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