logo 2002年9月の買い物


A RUSH OF BLOOD TO THE HEAD Coldplay 7松

音の作りこみはデビュー・アルバムよりさらに緻密になっている。曲を構成するひとつひとつの音の粒が、それぞれ強い確信を持ってそのあるべき場所に収まっているという実感。レコーディングに7ヶ月もの時間をかけ、ひとつの曲を何度も試行錯誤しながら仕上げたことの結果は自ずから明らかだ。それはアコースティックだとかそうでないとか、そういうスタイルの範疇を超えた音楽自体の強靱さの問題だろう。ここで鳴らされている音は強く、そして研ぎすまされている。

デビュー・アルバムで彼らは、どんなに完璧な美しさを求めても、所詮はその背後に忍びこむノイズや破綻と無縁でいられない僕たちの運命について歌っていたし、それは美しさの先鋭化という方法論で美しくない世界と対峙しようとしたトラヴィスと正反対のアプローチであると僕は書いた。このアルバムで彼らは美しさの密度を高めながら、それによってその美しさが必然的に内包するノイズをさらに際立たせている。それこそが美しさの意味であると言わんばかりに。

音楽的に洗練されることが、よりバンドのダイナミズムを解放する方向に作用したと言っていいだろう。美しさそのものではなく、美しさに含まれる破綻でこそ僕たちの日常と交わろうとするこのバンドの資質がいっそう明らかになった。どこまでも不純物を除いて行くことで逆に、どうしても取り去ることのできない本質的なノイズ、美の一属性としての破綻を彼らは僕たちに示そうとしている。バンドとしての覚悟とか決意のようなものがそのまま結晶したようなアルバムだ。
 

 
SURF Roddy Frame 8梅

なにしろ全編アコースティック・ギター1本だ。僕も最初はさすがに勘弁してくれと思った。もちろんロディ・フレームといえば云わずと知れたネオアコの王子様だからアコースティックに文句はないが、僕としてはそれがジャカジャーンという痛快なビートに乗っかってこその「アナーキーな青春のロマンチシズム」だと思っていたので、ドラムもベースもないそのまんまのアコースティックには正直言って人前でフリチンになるような不安というか頼りなさを感じたのである。

同じようにアコースティック・ギター1本で弾き語りをしても、どうしようもなく貧乏くさい四畳半フォークになってしまう人もいれば、否応なくロックを感じさせる人(カート・コバーンなんかそうだよな)もブルースとしか形容できない歌を聴かせる人もいる。弾き語りはアーティストの素性、資質を残酷なまでに明らかにしてしまうのだ。そしてロディ・フレームの場合、それはどこまでもブリティッシュ・ロックでありポップ・ミュージックの歴史そのものだった。

こうやってむき出しにされたロディ・フレームの歌声を聴いていると、彼の書く曲がいかに美しいメロディと流麗なコード展開を秘めているかが分かる。彼の声がいかに僕たちの固くこわばった心を静かに解きほぐして行くかが分かる。そのことはアズテック・カメラのファーストからまったく変わっていないのだが、このアルバムはそのマジックの源をこれ以上ないくらい明らかにして見せた。ジャカジャーンの名盤だった前作と好対照をなす傑作。才能とはこういうものなのだ。
 

 
三日月ロック スピッツ 7松

自慢ではないが僕は「ロビンソン」が売れたりするずっと以前からスピッツを熱心に聴いていた。1992年丸一年をドイツで過ごしたとき、彼らの1枚目と2枚目のアルバムはポータブルCDプレーヤーに繋がれた卓上スピーカーから割れた音で何度も繰り返し流れていた。そのとき僕はどちらかといえば彼らの「売れそうもなさ」を愛していたのであり、草野マサムネのこみ入った屈折や暗い妄想に聴き入っていたのだ。草野の個人的な叫びであればこそ、それは一人だった僕に深く響いたのだ。

その後スピッツがブレイクし有名になって行った訳だが、その過程で顕著だったのは草野が決して「魂を売らなかった」ことだ。草野は相変わらずこみ入った屈折や暗い妄想を歌い続けてきた。音楽は少しばかり洗練され、クセはあるが言葉と呼応した自然なメロディラインが前面に押し立てられるようになって、それは確かにスピッツがCDを売る大きな助けになったはずだが、草野がそこで叫び続けたのはどこまでも個人的な物語であり個人的な感情であり個人的な救いであった。

このアルバムではメジャーになってからのスピッツに典型的だったミドルのフォーク・ロック的な曲はほとんどない。どの曲も暗く、あるいはアクが強くて、一度聴いてそのポップさに楽しくなるアルバムではないということだ。だがこれはタフなアルバムだ。僕が彼らの何に惹かれたのかということを思い起こさせる。そしてそこで歌われる草野の個人的な物語は確実に成長し、頼りない背中のままでも世界と向かい合うことはできるという自信さえ感じさせる。「夜を駆ける」が秀逸。
 

 
ILLUMINATION Paul Weller 7竹

僕はポール・ウェラーという人が好きだ。ある意味心酔していると言っていいかもしれない。まあ、リスナーとしてはそれほど熱心というか忠実な訳ではないかもしれないけれど、それに聴き始めたのはスタイル・カウンシルの頃からだけど、後追いで聴いたザ・ジャムは死ぬほどカッコいいと思ったし、そこからスタイル・カウンシルに行かざるを得なかった彼自身の必然性は痛いほど理解できた。そしてスタカンをあれだけのレベルで展開できた彼の力量は無比のものだと思っていた。

だが、ソロになってからの兄貴のCDにはどうも入れこめないでいた。自分が影響を受けてきた音楽にリスペクトを込めながら、あくまで自然体で現在の自分自身を歌う、その骨太のロックはロック・ミュージシャンの年の取り方としては確かに理想的かもしれないし、ザ・ジャム、スタカンを経た今、兄貴がそこへたどり着くということ自体も「あり方」としては納得できた。だが、そこにはクールさが足りなかった。そんなに「誠実ないいオヤジ」になっちゃダメだろう、と僕は思った。

今作もそんな既定路線から大きく外れるものではない。フェイクのない正面突破のロックだ。実にこなれたいい味のロックだ。危なげなく、誠実に、率直に聴かせる、彼にしかできない音楽であることは間違いないし、それが完成度としてかなり高い水準にあることも確かだ。だがそれ以上に重要なことは、ここでの兄貴が実にカッコいいことだ。「Call Me No.5」は彼がまだ何かを拒み、何かに抗い続けていることを雄弁に物語っている。そこに僕は一筋の光を見たような気がした。
 

 
THE MUSIC The Music 6竹

よくできた工業製品は美しい。機能と能率を追求した結果、それがどんな芸術作品よりも美しいフォルムに結晶するということは往々にしてあり得ることで、それはドイツの伝統的な職人技と工場による大量生産、機能性と芸術性の止揚を目指した戦前のドイツの芸術運動バウハウスの活動によって明らかにされていることである。僕たちの日常生活に密着し毎日手にするアイテムであればあるほど、そこには高い機能性とそれを「美」の高みに引き上げるある種の思想性がなければならない。

このアルバムは恐ろしく機能的だ。打ち込みでない生のバンド編成でここまでのグルーブ感をたたき出す新人バンドはそうザラにはない。異常にしっかりしたリズムとメタリックで隙のないギター、変幻自在のボーカル、明快な曲構成、メディアがこぞって持ち上げるのも無理のない高性能なギター・ロックの現在形である。デビュー当時のシャーラタンズなんかをちょっと思い起こさせる実用的で即物的なロックンロールだ。この完成度の高さは確かにきちんと評価されてしかるべきだろう。

しかし、このバンドの背後には、その機能の高さを「美」の領域にまで昇華する思想性はあるだろうか。ない、と僕は思う。もちろんロックに思想性なんか要らない、腰にくればそれは立派なロックンロールだという考え方もあるだろう。しかし、性能の高い工業製品が常に美しい訳ではないのもまた事実である。ロックンロールという伝統芸のどんな機能をどんなふうに研ぎ澄ませて全体を形作って行くのか、そこには明快な思想性が必要だ。この高性能はいずれ飽きが来ると思うのだが。
 

 
YANKEE HOTEL FOXTROT Wilco 7松

例えばオアシスはオーソドックスか。スタイルとしては何も新しくない、遅すぎたビートルズのフォロワーであり、何かの変化とか革新というものとは無縁の音楽だが、そこにはそのスタイルを21世紀の今日においてあらためて市場に流通させるだけの意識がその表現のうちに内包されているし、その意識は優れてアップ・トゥ・デイトなものだ。彼らの音楽をオーソドックスと呼ぶかどうかは結局ロック音楽の本質をどう理解するかということいかんに関わってくるのだと言えるだろう。

オルタナ・カントリーなどと呼ばれていたらしいウィルコの5枚目のアルバムなのだが、今作で初めて彼らを知った僕は、この作品が彼らのキャリアの中でどう位置づけられるべきものなのかを知らない。ただ僕に言えることは、このアルバムからは極めて正統でオーソドックスなロック音楽への敬意や愛情が聞こえてくるということだ。確実に「音響入ってる」系のサウンド・プロダクションなんだが、それが実験的に聞こえるどころかむしろアコースティックにすら響いてしまうのだ。

この「音響入ってる」感はおそらくジム・オルークの仕事によるものだろうが、いかにも、のエコー処理や幾重にもダビングされている「変な音」の壁にも関わらず、それらをひとまとめにして最もシンプルなロックとして提示して見せる、強い統合感がこのアルバムの背後にはあると思う。現在形の意匠に盛りこまれた最もオーソドックスな「ロック」への憧憬。「土の匂い」なんてどうでもいい。スタイルを洗練することでよりオーソドックスさを際立たせる特異なバンドかもしれない。
 

 
DON'T BRING ME DOWN Goldrush 6梅

ロック音楽は高い批評性を備えていなければならない。批評性とは決して何かに対して声高に異議を申し立てるというだけではない。優れた芸術がすべてそうであるように、ロック音楽もまた、我々がふだん使っている言葉とは別の道具を使って、ふだん我々が気づかずにいるような物事の本質を明らかにするものでなければならないということだ。過激に聞こえるラップやパンクが実際には何も言ってなかったりすることはいくらでもあるし、その逆もまた数え切れないくらいある。

とても質のよい音楽だ。アコースティックだがイギリスのネオアコ的な文脈よりはむしろアメリカン・フォークに通じるものを持ったバンドであり、それが今日的なテキストとして成立しているところはウィルコの新作とも通じるところがある。曲自体も丁寧に作りこまれており、決して最先端ではないが非常に好感の持てる「いい」アルバムだ。しかし、批評性という観点からみるとき、このアルバムはまったく物足りない。「いい」アルバムだというだけでは決定的に不足なのだ。

僕は今日このアルバムを午前中に聴いたのだが、日曜日の朝にこのアルバムはよく似合った。だが、本当のロック・アルバムとは、夜の闇に隠れて僕たちの怖れや不安をかき立てる得体の知れない怪物にこそ立ち向かうべきものではないだろうか。ふだん気づかずにいるもの、あるいはふだんの言葉ではつかまえきれないものを、理屈をすっ飛ばして露わにし、キックする、それがロックの批評性の本質だとすれば、このバンドはまだスピードが足りない。悪くはないが足りないのだ。
 

 
TIME CHANGES EVERYTHING John Squire 5竹

ジョン・スクワイアの名前を聞くのは久しぶりだ。シーホーセズのアルバムが出たのが97年だったから5年ぶりになる訳だが、今回はソロ・アルバムで全編自らボーカルを取っている。所詮「ジョン・スクワイアのバンド」でしかなかったシーホーセズの中途半端さに比べれば、ソロ名義の本作の方が確かに明快ではある。ボーカルも上手いとは言えないもののまあまあの味わいもあり悪くはない。曲は意外に自然体でメロディのきちんとした「歌」系。ギターはどちらかといえば控えめだ。

だが、このアルバムからジョン・スクワイアという名前を取ったらいったい何が残るだろう。少なくとも僕はこれが彼のアルバムでなかったら買わなかったと断言できる。一般にギタリストのソロ・アルバムに名作なしと言われるが、これも典型的なギタリストのソロ・アルバムだ。ここに欠如しているのは音楽的なエゴを一つの「作品」にまとめ上げて行く統合力であり、技術を特定の目的に向けて組織して行く構想力である。だらだらと垂れ流されるだけの音楽からは何も生まれてこない。

ストーン・ローゼズのセカンドが圧倒的な迫力で僕たちに向かってきたのはあのアルバムでほとんどの曲を書いたこの人の力ではなかったのか。だがイアン・ブラウンのソロ・アルバムもそういう意味ではまったく統合力のない散漫なものだった。いったいローゼズをローゼズたらしめていたのは何だったんだろう。ジャケット写真の動物の頭骨にポロックの真似っこのペイントを施した自作のオブジェが彼の進歩のなさを象徴していないか。こんな程度の作品で満足できる人じゃないはずだ。
 

 
SON OF EVIL REINDEER The Reindeer Section  
FORTY LICKS Rolling Stones  
A CATHOLIC EDUCATION Teenage Fanclub  
LOVE MIX 杉真理  
POP MUSIC 杉真理  
PASSION GLORY 松尾清憲  
ハロー・シェイクスピア 松尾清憲  
ORIGINAL LOVE Original Love  
MORE COMPLETE SET THE BAIDIS YEARS The Collectors  



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