このアルバムはハンブルグで93年に初演されたミュージカルのスコアを新たにレコーディングしたものだそうだ。だからここに収められた曲はどれも10年近く前のものなのだが、この人に限ってはそんなことはどうでもいいと言う他ない。どんな歌を歌おうと、彼が歌う限りそれはトム・ウェイツという音楽でしかあり得ないからだ。だれもトム・ウェイツのように歌うことはできない。彼が歌い始めたら、僕たちにできるのはただ耳を傾けることだけだ。それがトム・ウェイツなのだ。
作品そのものとしてのテンションは前作「ミュール・バリエーションズ」の方が高かったと思う。この作品では我々はもう少し自由に、リラックスしてトム・ウェイツの歌を聴くことができる。それはトム・ウェイツが自らいったん過去のものとした作品を10年近く後になって再発見し、レコーディングした経緯によるものかもしれない。その間に個々の曲は熟成し、彼自身の中でもこれらの曲の持つ意味合いが一層はっきりしたはずで、それがある種の余裕になって現れているように思う。
ここでの彼は実に自由に、実にのびのびと歌っているように聞こえる。あるいはとても無邪気に歌っていると言ってよいかもしれない。我々が「楽しい」とか「優しい」とかいう言葉を普通に使うのとは最も遠い意味で「楽しい」アルバムだし「優しい」音楽だ。人の一生の大部分は取るに足りない泡のような感情の起伏に過ぎないが、このアルバムはそんな劇的でない日常にこそ最も劇的な意味があるのだということを明らかにしている。同時発売の「ブラッド・マネー」も買って損はない。
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