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POINT Cornelius 8梅

コーネリアスと聞くと僕はいまだに「フリッパーズの小山田君」をイメージしてしまうんだけどそれはやっぱりよくないことですか。思えばフリッパーズというのは実に音楽以外のいろんな「意味」を背負っていたバンドであり、単純に音楽そのものの善し悪しだけで語られるよりは一種の現象とかに近い存在だったのかもしれないと思う訳だが、ソロになってからの小山田君はあえてそんな「フリッパーズの片割れ」であることを引き受け続けてきたように僕には見える。

小沢君がある種の覚醒を経てどんどん彼岸の人になってしまったのに、小山田君はそこにとどまりフリッパーズが開けてしまった扉から出てきたものに対して誠実であろうとし続けた。そして、ただひたすら音楽的に成長することでフリッパーズという言説を超克しようとしてきたと言えると思う。有無を言わせないクオリティをたたきつけることで小山田君は「フリッパーズ以後」を自ら指し示してきたのだし、どんなフォロワーよりラジカルな存在であろうとしてきた。

このアルバムはとても寡黙でストイックな作品だ。ここにはもう音楽以外の意味性なんて何にもない。この音楽は何も語らないしどこにも行き着かない。ただ音楽がここにあるという事実だけをこの音楽は鳴らしている。僕たちはそこで音楽そのものと向かい合うことを迫られるし、ついにフリッパーズという前提が完全に無効になったのを知ることになる。僕たちにもそろそろアノラックからフリッパーズ・バッジを外すときがやってきたようだ。高みに到達した作品。
 

 
THE CONVINCER Nick Lowe 7竹

枯れた味わいとか円熟の境地とか職人芸とかそういう言葉は死んでも使いたくない。なぜならそういう言葉こそがロックを殺すステロタイプであり、もはやロックと呼ぶに値しない「上がり」の音楽を延命するためのレトリックだからである。典型的な初期衝動とか焦り、焼けつくような乾きのようなものが過ぎ去った後で、それでもなおそこに残るものをどんなふうにして更新しながらリスナーにたたきつけて行くか、その問題に取り組んでいる音楽にそんな言葉はふさわしくない。

ニック・ロウの新しいアルバムは、確かにそんな言葉で語りたくなってしまう落ち着いたたたずまいの、カントリー・フォークとでもいうべき音楽だ。だがそれがディナーショー的な予定調和と一線を画しているとすれば、その要因はこの歌の「近さ」にある。激しさの代わりに近さで僕たちの日常に寄り添い、そこに横たわる宿命的な孤独をリスナーとともに引き受けようとする眼差しがここにはあるし、それがこのアルバムを「上がり」とは感じさせない理由なのだと思うのだ。

その近さはおそらく、ニック・ロウ自身の音楽への近さなのだと思う。この人は十分カネを稼いでも、あるいは逆に一銭もカネがなくても、結局そんなことには関係なく歌い続ける人なんだろうと思う。音楽なしでは生きて行けない人だからこそ、どんなに枯れてもそこには音楽に対する切実さが失われないのだ。逆に言えばこの人の音楽はいつまでたっても円熟なんかしないだろう。そこには常に僕たちの耳に引っかかるものがあるはずだし、それを僕たちはロックと呼ぶのではないか。
 

 
LOVE IS HERE Starsailor 8竹

パンクはロックを僕たちの日常の地平に引き戻した。それは間違いのないことだ。だが、そこから生まれたジョン・ライドン、ジョー・ストラマー、ポール・ウェラーといったビッグ・ネームのことを考えるとき、やはり後世に残る音楽というのは特権的な才能のある者によってしか作られ得ないのだと思わない訳には行かない。だれでもギターを手に歌い出すことはできる。パンクはそう教えた。しかしジョン・ライドンのように歌えるのはジョン・ライドンしかいないのだ。

そういう記名性のある特権的な才能というのは練習とか努力で得られるものではない。残酷なようだがそれはあらかじめ特定の個人に宿っているものだし、誤魔化しようのないものだ。僕たちはそんな才能に出会うためにこそカネを払ってCDを買い続けている。圧倒的なもの、唯一無二のもの、かけがえのないもの、リスナーにそう感じさせることのできないバンドはいくら人柄がよくてもいくら練習熱心でもいくら商売上手でも消えてもらうしかない。それがこのムラの掟だ。

そういう才能を持つバンドは、ただのロックンロールをただ鳴らすだけで否応のない説得力を手にする。例えばストロークスはそういう種類のバンドだった。そしてこのスターセーラーも間違いなくそんなバンドの一つである。鳴らされる音楽自体はごくごくオーソドックスな、まさに「ロック」としか呼びようのないものだけど、その闇雲な喚起力は他の新人バンドにはないものだ。ボーカルの力もすごいが、音楽そのもののグルーヴ感が傑出している。聞き逃してはいけない。
 

 
LILAC6 The Lilac Time 7竹

前作のレビューをしたのは99年の6月のことだったが、そのとき僕はこう書いた。「彼らの音楽は美しくてもそれ以上のものを僕たちに訴えかけてはこない。(中略)そこにはこの音楽の良質さを何かとコミットさせようというロック的なモメントはまったくない」。背後とか内部にまったく何も抱えていない、本当に表面だけの静謐さというものがあるのならそれこそがこのライラック・タイムだということを言いたかった訳だが、それはもうムード・ミュージックの範疇だ。

そこまで言いながらまた新譜を買ってしまうところが僕の弱みだったりもするんだけど、今作はいい。意外なほどいい。背後とか内部に何も抱えていないという点に本質的な変化は見られないんだけど、このアルバムでは静謐さというモメントが後退し、よりポップに、よりアクティブに音が構築されていて、何もなかったはずの背後や内部に肉体性というか一種のダイナミズムのようなものが垣間見える。そのチラッと垣間見えるところがまたそそるというか何というか。

基本的にはアコースティック・ポップだが、今まで音の引きこもり状態だったものが今作では外向きに解放され、聴き手が音に向かい合うことを余儀なくさせるだけの力を備えている。何かを直接変えてゆくような音楽ではもとよりないが、何かに気づかせる、それも長い間忘れていた何かを思い出させるような気がするのだ。ムード・ミュージックから、ロックの現場に立ち戻った1枚と言うことができるだろう。あかんと思ったアーティストもしつこく買い続けてみるものだ。
 

 
TRIPLE ECHO Birdie 6松

僕はいまだにマニュアル車に乗っているマニュアル・シフト原理主義者なんだけど、人間にもギアってあるよな、と思うことがある。例えば日曜日なんて一日中ローギアで走ってたりするし、逆に木曜日あたりは仕事でオーバートップ全開だったりする。休暇を取って旅行に出ると3速か4速くらいで気持ちよく流してたり、何というか、精神の緊張の度合いとか、気合いの入り方というか、そういうものを総合した「今の僕のスピード」みたいなものが確かに存在する。

だから例えば日曜日に仕事の電話が入ったり、会社に実家から電話がかかってきたり(そんなことは実際にはないけど)、そのときのスピードに合わないコミュニケーションってすごく違和感ある。無理な加速や減速を余儀なくされてるような感じ。そしてその違和感は、今の自分のスピードに合わない音楽を聴いたときにも発生する。そう、音楽にも固有のスピードがある。もちろんそれはバラードが遅いとかパンクは速いとかいうのとはまったく別の次元で、だ。

このバーディのアルバムは、そういう意味ではまったく「遅い」音楽だ。日曜日の、自分自身がローギアで走っているときにはジャスト・フィットするのだが、ひとたび自分のスピードが上がってしまうともはや聴いていられない。この人たちは毎日こんなスピードで生きているのだろうか。それはそれで幸せなことだし、こんな音楽も僕たちには必要なんだけど、悲しいことに僕たちはローギアだけで生きられるほどマイルドな世界には住んでいないってことなんだろうな。
 

 
MUSIC OF THE SPHERES Ian Brown 6竹

あきまへん。これがソロ3作目なんだけど、いつヤマが来るのかと思いながら聴いているうちにCDが終わってしまって、僕の頭には何も残らなかった。まったく何も残らなかった。何か聴き方を間違ったのかと思ってもう一度聴いたのだが同じだった。悲しいくらい凡庸で平板なアルバムだ。なぜなんだと思いながらスリーブを眺めていてあることに気がついた。そう、大半の曲が共作なのだ。それもお友達とおぼしきプロデューサーやミュージシャンたちとの。

そう思って過去の2作を引っ張り出してみたが、そこでもやはり共作が多い。ローゼズの末期にジョン・スクワイアの後任としてギターを担当したアジズ・イブラヒムとか。この辺にイアン・ブラウンのメンタリティを見ることができないか。要はこの人は自分と戦いながら自分の才能をギリギリまで絞り出すというよりは、だれかと一緒にああでもない、こうでもないとジャムったりしながら音楽を作ったりするようなタイプのアーティストなんじゃないかと思うのだ。

しかもそのだれかというのは、オーディションをして厳しく選んだ才能あるプロデューサーやミュージシャンというよりも、むしろお友達とかお友達のお友達とか、あいついいヤツなんだぜ的なスモール・サークル・オブ・フレンズなんじゃないだろうか。最初にそうやって始めたジョン・スクワイアにはきちんとしたミュージシャンシップがあったからよかったようなものの、そういう厳しい緊張感の生まれようがない環境ではこんなアルバムが関の山なんだろう。
 

 
THE INCOMPLETE Glenn Tilbrook 7竹

音楽について語るとき、ポップ、というのと、ポップス、というのとでは微妙に意味合いが違う。もちろんどちらも「ポピュラー」を語源とする俗語には違いないし、耳当たりのいい、分かりやすく親しみやすい通俗音楽を指す言葉ではあるのだが、少なくとも日本の、ある特定の人たちの間では、ポップという言葉は特別な意味を持っている。それを正確に定義づけるのはなかなか難しいのだが、そこでポイントになるのは音楽に対する敬意と愛情であるように思われる。

単に耳あたりのいい音楽を作ることは難しいことではない。ある種のマーケティングによってヒット曲を作ることはできる。しかし人々の耳の奥に残り、いつまでも繰り返し口ずさまれる曲はそうしたマス・プロダクト的な公式だけでは作れない。そこにはティンカー・ベルの魔法の粉のようなものがなければならないのだが、それは結局その曲がポピュラー・ミュージックの歴史に対する敬意と音楽への愛情の上に成り立っているかどうかということなのではないだろうか。

スクィーズの片割れ、グレン・ティルブルックのソロ・アルバムだ。ここにはそんな「ポップ」のマジックがある。ただ単にBGMとしても機能するし、一緒に歌ってもいい、じっくりと音を聴きこんでもいいし、ギターで音をなぞってみてもいい。そのたびにあなたはこの作品の中に新しい驚きを見つけることになるだろう。聞きやすい表面の裏側に隠されたそんな重層性こそ、ポップという言葉に意味を与えているものなんだろう。その背後には何もありません、とだれかは言ったけど。
 



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