silverboy club presents disc review
my shopping bag nov.-dec. 2000




HOWDY! Teenage Fanclub
7竹

「こいつらが最初に出てきたとき、僕は決して曲の美しさに感動したのではなかった。そうした美しいメロディラインの背後で壊れたみたいに鳴っているギターの音、こんなポップな曲を演奏するのにどうしてそんなに歪ませるのというくらいのギターの鳴り具合こそが、彼らが同時代のアーティストであることを感じさせてくれたはずだ。そうしたやむにやまれなさが後退し、普通のポップ職人になって行くのであれば、せいぜい5点だな。厳しいか。じゃ6点」

これは僕が3年以上前に書いた彼らの前作「Songs From Northern Britain」のレビューである。だが、今作を聴いて僕は思った。もう「バンドワゴネスク」のことは忘れよう、と。ティーンエイジ・ファンクラブというのは美しいポップ・ソングを流麗なコーラス・ワークで聴かせるスコットランドの善人たちのバンドなのだと。僕自身が怒れる時代を過ぎ、その怒りを内的に沈潜させて雌伏する00年代に、彼らにだけ怒れる若者であり続けることを求めるのはアンフェアだ、そうだろ。

僕たちはバンドが僕たちとともに成長することを許すべきだ。そしてその成長の中にこそ、変化の中にこそ自分がそのバンドに信じたものの普遍性を探すべきなのだ。「バンドワゴネスク」というアルバムはそういう意味でこのバンドにとって重すぎる十字架であったのではないだろうか。まるでギター・ポップという言葉の意味を確かめに出かけたようなこのアルバムは、そんな先入観なしに聴いてもらえることを待っているはずだ。もしそこに僕の探した普遍性があるとするのなら。

 
LITTLE KIX Mansun
7松

端的にいってドラッグ・アルバムだった前作に比べると、別人かと思うくらいカラフルに、そしてポップになった3枚目のアルバム。起承転結がはっきりし、輪郭のくっきりした、メロディアスでキャッチーなポップ・ソングがお行儀よく11曲並んでいる。ポール・ドレイパーというのはきっと「ビジュアル系」に見られるのが人一倍イヤな人なんだろう。今回はこれでもか、これでもかという正面突破の正攻法で、確かにクオリティは高い。とてもよくできている。

しかしこのアルバムの重さは何だろう。通して聴くとぐったりするくらい重い。華麗で美味しいフランス料理やイタリア料理を腹一杯食べた後、どうしようもなく胃もたれとか胸やけしてしまうような感じの濃さ、重さだ。単位時間あたりに詰めこまれた音の量が違うのではないかと思ってしまうくらい。このポール・ドレイパーは、隙間という隙間を音で埋めなければ気がすまない、そんなオブセッションにとりつかれているんじゃないのかな。

おそらくそれは彼が宿命的に背負った「過剰」なんだろう。この人は一生フットワークとか軽やかさとかとは無縁のアルバムしか作り続けられないのだろう。そう思って聴くと、この端整なアルバムがむしろある種の病いを癒すために作られた一つの箱庭療法のようにすら聞こえてくる。もっと力を抜いていいんだよ、もっとラフでもいいんだよ、と言ってあげたくなるような、緻密で隙のないアルバムだ。そういう意味では前作から何も変わっていないのかもしれない。

 
MWNG Super Furry Animals
8竹

これは彼らが第一言語であるウェールズ語で歌った初めてのアルバム。相変わらず関節を狙ってくるような「脱臼感」は基本的なトーンとして作品全体を貫いているのだが、何度か聴いているうちに分かってくるのは、これはやはり紛れもないロックだということ。それもかなりハードコアで初期衝動に近いむき出しのロックンロールだということだ。何がロックかということは今日ではもはや哲学の問題に過ぎないとしても、ここにはそう呼び得る必然性のようなものが確かにある。

ロックというのはある意味で極めて保守的なアート・フォームだ。そこには技術的なイノベーションの余地はほとんどないし、逆に劇的な技術的イノベーションはそれをもはやロックでなくしてしまったりする。そういう狭い隘路のような場所で、それでも何か新しく響くものを探すのがロック・アーティストの宿命だとすれば、SFAはその隘路に周縁からの方法論を持ち込むことで、ロック概念そのものの微妙な拡張を試みているのだということができるだろう。

このアルバムはそんなSFAの「ロック拡幅工事」なのだ。ここに収められた曲はどれも、その「ちょっと変わった」曲想にもかかわらず、驚くほどストレートに響いてくる。商品としてプロデュースされ、パッケージされる前の、原初的な息遣いのようなものまでが聞こえてくる。優れたロックというのは常にそのようなものであり、それはアーティストの実感に根ざした表現からしか生まれてこないものだと思う。ウェールズ語で歌うことが彼らをより率直にさせたのかもしれない。

 
ALL THAT YOU CAN'T LEAVE BEHIND U2
8梅

思えばU2というバンドはこれまで、発展しなければならない、進歩しなければならないというオブセッションにとりつかれていたように思う。1作ごとに試行錯誤を繰り返し、スタイルを変化させ、その都度バカでかい機材を携えて世界中のスタジアムをツアーしてまわった。大統領に電話をかけ、サラエボでライブを行い、ジュビリー何とかといううさん臭いプロジェクトのスポークスマンまでつとめた。彼らは誠実にロック・スターとしてのU2に殉じてきた。

それでも彼らがロック・ファンの支持を得続けてきたのは、彼らがそのような遍歴の中に、それでも消しようのない「U2印」を刻み続けてきたからに他ならない。アメリカン・ルーツにアプローチしても、ループやサンプルを大々的に導入しても、そこには常にそれらのモメントを何とか内部化しようという彼らのあがきが見てとれたし、それは多くの場合あまり垢抜けない結果を生んだけれども、だからこそそれらは無二の「U2印」として市場に確たる場所を占めることができたのだと思う。

だが、今作でU2はそんな「発展のドグマ」、「進歩のドグマ」から自由になった。このアルバムはU2が、今、当たり前のロックを演奏したらどうなるかという最新型の実験である。雪の中を白旗を掲げながら進んだ80年代から、魂の遍歴を経て、このバンドがどれだけたくましくなったか、そしてその中で彼らがどれだけ誠実にそのピュアネスを守り通してきたか。ホテルの地下で、間に合わせの機材で彼らが行ったという4ピースのリハーサルを僕も見たかった。

 
WE LOVE THE CITY Hefner
8梅

そんな言い方があるのかどうか知らないが、ロックの世界には「ケイレン系」とでも呼ぶべき一連の流れが確かに存在する。ひっかくようなギターにしゃくり上げるようなボーカル、おそらくはニューヨーク・パンクに端を発するそんな世紀末的で(そういえば世紀末って終わっちゃったんだよな)病的でファニーな、しかしだからこそそこに何かのっぴきならない切迫感のようなものを秘めたロック文法としての「ケイレン系」。ヘフナーは確かにその系譜を受け継いでいる。

1枚目、2枚目のアルバムを聴いて僕はこのバンドを強く支持するようになった。1枚目には7松、2枚目には8竹の評価をつけた。それはまさにこのバンドが「ケイレン系」として、そのファニーなたたずまいの中に、成長の記憶としての「青春」のリアルさが鮮やかに切り取られていたからだ。大げさな言い方をすれば、ダレン・ヘイマンの、たった今泣きやんだばかりのようなうわずったボーカルが、僕の中の静かに眠らせたはずの何かを激しく揺り動かしたからだ。

だが、この3枚目でヘフナーは「ケイレン系」であることをやめようとしている。ここで彼らがやろうとしていることは、若気の至りの性急なケイレンではなく、そのファニーなたたずまいすら一つのモメントとして昇華した上で、彼らが生きる街のざわめきを丹念に写し取り「歌」に結実させて行く地道な営為だ。彼らを「ケイレン系」に繋がる者として愛した僕には淋しい部分もあるが、ダレン・ヘイマンの成長を信用して行くしかないだろう。敢えて高く買いたい。

 
READY TO RECEIVE The Animalhouse
6竹

このバンドを語るときにライドを引き合いに出すかどうか。それは難しい問題だ。僕もできることならその名前は出さずにすませたかった。もしこのアルバムがライドを引き合いに出すまでもない「圧倒的な」作品なら僕は迷わずそうしていただろう。だが、残念ながらこのアルバムは僕の中から「ライドの影」を払拭してしまうほどの強い衝撃を与えてはくれなかった。そう、ライドはそれほど僕にとって「圧倒的」なバンドだったのだ。あの、苦しかった一時期に。

ライドという名前を背負いながら新しいバンドを始めるのは容易なことではなかっただろう。先にハリケーン#1を始めたアンディ・ベルも、その活動は決して成功したとは言い難いままオアシスのベーシストに転身してバンドは自然消滅してしまった。マーク・ガードナーは、ライドに対して何らかの形での「答え」を出すことを迫られていた。「いいバンド」で「いい音楽」をやるだけでは許してもらえない、そんな過酷な役割を彼は知らずに背負っていたはずだ。

もちろん、それは彼に理不尽に降りかかった災厄ではなく、紛れもなく彼が若くして手にした成功の一つの代償だった。そして彼の出した答えがこのアルバムだ。悪くない。曲の出来に若干のバラつきはあるが、新人バンドとしては意欲作だと思う。ギターとリズムの絡みを中心に発展の可能性を感じる。だが、僕にとってはこのアルバムより、マーク・ガードナーがライドの頃を振り返ったこの発言の方がよっぽど切実に響いた。「当時の僕らには、語るべきことも大してなかったんだ」

 
SOME DUSTY Birdie
7梅

毎日忙しく仕事で遅くまで働いていると、読みたい本とか聴きたいCDとかのぞいてみたいインターネット・サイトとか、そういうのがどんどん後回しになって、メールの返事とかも随分ためちゃったりして、そういえばスピード違反の罰金も振り込まなきゃとか、玄関の電球が切れてるとか、それもこれも全部週末になったらまとめて面倒見てやるとか思ってウィークデーをやり過ごしているような状態になってしまう。僕の場合、そういうのが慢性化していると言ってもいい。

ところが、これがいざ週末になって、買い物も終え、部屋の片づけもとりあえずすんで、さあ、次は、と思った瞬間にそういうのが全部どこかに行っちゃうんだな。忘れてしまう訳じゃなくて、どうでもよくなってしまうとでもいうか、どれもこれも急いでやっつけなきゃならない用事でもないような気がしてきて、特に本やCDやサイトの類はどうしてそんなものをそんなに急いでチェックしたいと焦っていたのか、自分でも分からなくなって来る。どうでもいいじゃん、そんなの。

忙しい毎日の中では確かに魅力的に光輝いていたアイテムが、日曜日になったとたんどうでもよくなってしまう。そして訪れる「何もすることのない日曜日」。そうか、オレって忙しいと思ってたけど実はヒマだったのか…。なんて訳はなく、それはただの日常のエアポケット的な一日延ばしのモラトリアムに過ぎないんだが、まあいい、とりあえず紅茶をいれよう。そして買ったままになっていたバーディのアルバムでも聴こう。すべての問題を今日だけ棚上げにして。

 
KID A Radiohead
8竹

幼い頃、僕は電車に乗るのが好きだった。電車の音を聞くのが好きだった。鋼鉄の車輪が線路の継ぎ目を踏むときに出す規則的な金属音。タタツタッタタン、タタツタッタタン、時にポイントを越えると挿入されるフィル、タタツタッタトトツトットトン、僕はそれを何度も頭の中で反芻し、小さな声で口に出してみた。僕にとってそれは紛れもなく音楽だった。そこにはメロディもなく歌詞もなくもちろんボーカルもなかったが、それは間違いなくビートを刻んでいた。

規則的に繰り返される工事現場のノイズ、だれかが調子よく書類にゴム印を押して行く音、周期的に高くなったり低くなったりするオフィスのエアコンのうなり、僕は今でも気がつくとそういう身の回りの音楽に知らずに耳を傾けている。そう、この世界は音楽に満ちているのだ。あらゆる種類の反復とあらゆる種類の抑揚、それらは渾然一体となって世界を構成しているが、それはまさに音楽そのものだと言っていい。世界は一つの調和であり不調和、つまりは音楽なのだ。

このアルバムは、そんな一つの音楽としての世界を人工的に再現しようとした試みに他ならないのではないかと僕は思う。極限まで自動化したビートこそが結局最も感情を揺さぶるはずだという仮説を証明するために、トム・ヨークはこのアルバムを作らなければならなかった。僕はこのアルバムが僕とレディオヘッドとの出会いでよかったと心から思う。人間としての感情にピンスポット的に作用する極めてヤバいアルバム。癒しであると同時に殺戮でもある、そんな音楽だ。

 
BROKEN BY WHISPERS Trembling Blue Stars
6松

僕はネオアコと呼ばれる音楽を基本的に支持してきた。アズテック・カメラ、ペイル・ファウンテンズ、オレンジ・ジュース、ジョセフK、ブルーベルズ、そういったバンドの奏でる音楽を愛してきた。年代的に言えば僕はいささか遅れてきたネオアコ・ファンであり、僕がそれらのCDを探し始めた頃にはもうそれらのバンドのほとんどは活動していなかったけれど、それでも僕は、まるで落ち穂拾いをするように洋盤屋や中古盤屋で少しずつ彼らのアルバムを集めていった。

僕がそれらのバンドを愛したのはしかし、それが耳に優しいアコースティックな響きの音楽だったからではもちろん、ない。僕が愛したのは、非妥協的な潔癖さで世界そのものと対峙する思春期の切れるような感受性の刃が、ラウドなノイズではなく張りつめたアコースティック・ギターの一音ごとに凝縮してこめられていることのクールなテンションであり、さらにはその背後にある、心細さや頼りなさを引き受けながら成長という物語を格闘する「負けん気」のようなものだった。

その後、ネオアコと称せられるバンドは国内外を問わずいくつも出現したが、その中でそんな緊張感や北風の中を大股で早足に歩くような強さを感じさせてくれるものは決して多くはなかった。緩いだけのフォーク、耳ざわりのよいだけのイージー・リスニングには僕は何の興味も持てない。牧歌的なモラトリアムなんてもはや必要ない。必要なのは真冬の空気を切り拓く力であり、アコースティック・ギターはそのためにこそ鳴らされるべきではないのか。もっと力を。

 
GETAWAY Reef
7梅

いつも勉強ばっかりしてるのに成績は「上の下」くらいしか行かないヤツっているよね。試験前なんか涙ぐましいくらい必死でギリギリまで参考書を開いて要点を復習してたりするんだけど、そういうヤツに教えてもらった「要点」とか「ヤマ」とかに限って恐ろしいくらい当たらないし、へえ、そうなんだ、ここがヤマなのか、あんまりマークしてなかったけど、ま、いいか、と思いながら試験に臨んだこっちの方が出来上がりがよかったりすることもあって気の毒になったり。

受験勉強というのは所詮はスキルの問題だから、頭が悪くてもそこそこまではフォローできる。寝食を忘れて取り組めば、東大に合格することだって不可能ではないだろう。だけど、そうやって持てる能力のすべてを投入してようやく東大に合格した連中は、そこで現実に向かい合わざるを得ない。そこには自分なんか足許にも及ばない天才たちの世界があるという現実に。まあそういうヤツってだいたい運もなかったりするから東大にはなかなか入れないだろうと思うけど。

リーフのこのアルバムを聴くと、僕は必死の努力で天才たちの世界の端っこに手を伸ばそうとする偉大なる凡才諸君のことを思う(自分のことはさておき、だ)。それなりによくできたギター・ロックだし、仮に日本のバンドがこの同じ音を出していれば、僕は「日本のロックもレベルが上がったものだ」と思ったかもしれない。だけどこのバンドって、これでいっぱいいっぱいなんじゃないかな。ここからどう勝負に出るか見てみたい気はするけど、運もなかったりするんだよなあ。

 
CAROLINE NOW! V.A.
 
HALFWAY BETWEEN THE GUTTER AND THE STARS Fatboy Slim
 
FAMILIAR TO MILLIONS Oasis
 
1 The Beatles
 
THE COST OF LOVING The Style Council
 
STOP MAKING SENSE Talking Heads
 



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