silverboy club presents disc review
my shopping bag jun.-jul. 2000




FOLD YOUR HANDS CHILD, YOU WALK LIKE A PEASANT
 Belle & Sebastian
9松

人生は多く選択と決断である。そしてそれは常に、その決断と選択に際して選ばれなかったもうひとつの道、生きられなかったもうひとつの生に対する悔恨や憧憬に彩られている。あのときああしていれば、あちらを選んでいれば…。僕たちはそのような甘い悔恨と憧憬を抱えながら、選び取らざるを得なかった現実の生を生きている。ときおりそっとその悔恨や憧憬のある場所に降りたつことで現実を鼓舞しながら。

ベル&セバスチャンの音楽がもしあなたに何となく「懐かしく」感じられるなら、それは彼らの音楽がこうした「生きられなかったもうひとつの生」に対する悔恨と憧憬を奏でているからに他ならない。本当はどこを探しても見つからない過去、生きられなかったもうひとつの生、歌われなかった歌、ベルセバが鮮やかに切り取ってみせるのはそんな僕たちの捏造された架空の記憶なのだ。

だが架空の記憶は決して「嘘」の記憶ではない。それはむしろ僕たちの「こんなはずじゃなかった」現実の生を逆転させて見せることによって、僕たちの悔恨や憧憬をより純粋な形で具体化させる、僕たちの「裏返しの生」なのだから。だからベルセバの音楽が僕たちに切実に響くのは当たり前だ。シングル『リーガル・マン』(本作未収)が秀逸だったのも同じ理由。すべての「あるべきだった」過去に対する静かな鎮魂歌。


WASP STAR (APPLE VENUS VOLUME 2) XTC
8竹

前作「APPLE VENUS VOL.1」リリース時から既に発表が予告されていたエレクトリック編。デイブ・グレゴリーが抜け、ついにアンディ・パートリッジとコリン・ムールディングだけになっちゃったXTCだが、このアルバムを聴くと結局こいつら何も変わらねえじゃねえかよと言いたくなってしまうくらい相変わらずのXTC節だ。前作がアコースティック主体だっただけに、XTCならではのひねた躍動感がもどってきたのは嬉しい。

僕はかつてスクリッティ・ポリッティを「人間以上に完璧なサイボーグを作り上げようとする」と形容したが、XTCもやはり自然界には存在しない理論上の物質の純粋な結晶を実験室で抽出しようとするマッド・サイエンティストじみたところがある。そのような営為はつきつめればつきつめるほど行為というよりは純粋な思惟に近づく。ここに提示されているロックも、具体的な音であるよりはまるでロックという概念そのもののようだ。

XTCについて僕が一番懸念するのは、彼らがそんなふうにほとんど解脱の領域に入りながら、それをこそポップと呼ばれ得る表現に昇華しようとしている過程を、だれもがあまりに簡単に肯定し、まるで愛玩動物のように「ポップ装置」として矮小化してしまうことだ。ここにあるのはもっと危険な音楽だし、僕たちが考えるよりはるかに鋭くとがっている。その切っ先に不用意に触れると思いの外深い傷を作ることになるだろう。


100 BROKEN WINDOWS Idlewild
7竹

だれかに自分の好きなCDを聞かせてみたことはあるだろうか。あるいは聞かされたことはあるだろうか。僕はある。でも、聞かせる方はずっと昔にやめてしまった。聞かされたときの苦痛を考えて。だいたいだれかが目を輝かせて「これいいから1回聞いてみて」と渡してくれるCDってロクなものがないんだもん。で、後から「どうだった?」と聞かれても結構答えに困るんだよね。「つまんなかったよ」とも言えなくて。だから勧めるのもやめた。せいぜい「僕はこれ好きだけど」って程度。

ある人にとって素晴らしく感動的な音楽がどうして他の人にはこの上なく退屈に聞こえたりするのか。それはやっぱり音楽が優れて個人的な経験でしかあり得ないからだと思う。いや、個人的な経験というだけでなく、同じ人間の中ですら、昔は涙を流して聴いた歌が今は何も訴えかけてこなくて愕然とすることがあるんだから。あるいはハッパやって聞くだけでくだらない歌も名曲に聞こえたりする(らしい)んだから。音楽の価値って何なんだろう。その相対性をどう考えるべきなんだろう。

だけど、世の中にはそんな価値の相対性を凌駕する普遍的な名曲とか力量あるアーティストとかが存在する。それは確かなことだ。このアイドルワイルドのアルバムを聞いて、僕はそのことを考えた。思ってたよりずっといい。とても丁寧に作りこまれているし曲も粒ぞろいだ。でもここに「僕はこれ好きなんだけど」を超える普遍的なモメントを見ることができるだろうか、と。ラジオから流れた瞬間思わず手が止まるような決定的で運命的なものが足りないような気がする。僕は好きだけどね。


FIGURE 8 Elliott Smith
8竹

僕は前作で初めてこの人のアルバムを聴いたのだが、その時の印象はとても静謐でミニマルな、そしてとても個人的な生の実感から立ち上ってくる誠実な歌だということった。しかしそれはあまりにも真摯な自己の内面から直接響いてくるものであったがゆえに、どうしようもない重さ、シリアスさをたたえていたように思う。極めて質の高い音楽であったにもかかわらず、僕はそれを素直に楽しむことができなかった。容易に人をよせつけないような、そんな孤高の響きがあった。

当時僕はそんな印象をうまく言葉にすることができず、いい加減なレビューを書いてしまった。書かなきゃよかったとも思った。さすがに自分の中にうまく位置づけられないままで採点する愚は避けたものの、このエリオット・スミスという人の音楽とどう向き合うべきか、それは僕の中でのどに刺さった小骨のように気になるテーマだった。だがこのアルバムを聴いた僕は少なからず驚いた。そこにはとても自由で開かれた、誠実でありながら自信に満ちた力強い歌が並んでいたからだ。

今、あらためて前作を聞き返してみると、サウンド・プロダクションは決して今作で一気にカラフルになった訳ではないということが分かる。それにもかかわらず僕にとっかかりを与えてくれなかった前作と、両手を広げて僕を迎え入れてくれた今作との違いはいったいどこにあるんだろう。それは届けたい、伝えたいという意志なのではないかと僕は思う。そして今作を聴いて初めて前作の意味合いもようやく見えてきたような気がする。これで僕は自信を持って高い点をつけられる。


SCIENCE & NATURE The Bluetones
7松

最近全然CDを聴いていない。ひとつには子供が生まれて大きな音でCDを聴ける環境にないということ、それから他のこと(例えばサッカー観戦)に入れあげててCDを聴くための時間が物理的に取れないことなんかもあるけど、結構ロックなんて聴かずにすませようと思えばそれですんでしまうんじゃないかと錯覚してしまうくらい、気持ち的にも知らない間にロックから離れてしまっている自分に気づいたりもする次第。もう35歳だし。

もちろんそれはあくまで錯覚だ。僕が僕自身の実像に違和感を抱き続けている限り僕はロックを必要として行くだろう。遠ざかったり、近づいたりを繰り返しながら、結局のところ僕はそれに寄り添って行くと思う。心の中の過剰を持て余したり、胸に抱えた欠損に苦しむ者と会話するのがロックの仕事だと僕は思っているが、そうであれば僕の生が僕という器に過不足なくすっぽり収まらない限り僕はロックを卒業なんてできる訳がない。

ブルートーンズの新譜を聴いて僕はあらためて僕とロックの関わりを思った。平板な日常の中で僕がロックを求めるのだとしたら、その平板な日常こそが僕に負荷をかけているのだということ。その中で僕が求めるべきロックとはいったい何だろう。前作より深みと広がりを見せたサード・アルバム。人の過剰や欠損に対応する「やむにやまれない感じ」は少し見えにくくなった印象を受けるが、繰り返し聞くに耐えるアルバム。佳作だ。


ALONE WITH EVERYBODY Richard Ashcroft
7竹

あなたはだれのために音楽を聴くのだろうか。あなたはだれのために歌を口ずさむのだろうか。僕はやはり結局のところ自分のために音楽を聴き、自分のために歌を口ずさんでいるのだと思う。もちろん僕もだれかと自分の好きな音楽を分け合えたらこんなにステキなことはないと思う。そんな瞬間を求めるためにこそこんなふうに音楽について書いているのだとも言える。音楽は空気を震わせ、僕たちはそれを共有することができる。

でも、それにもかかわらず音楽は本質的に個人的な体験だと僕は思っている。それは僕たちが所詮は一人で生まれ、一人で死んで行くことと何か関係しているのかもしれない。僕は僕自身の生をまっとうすることで手一杯だし、そのために僕は音楽を必要としている。音楽はまず僕自身のためにこそ存在するべきであり、その後に僕はそれを分け合えるだれかを探しに出かける。自分の生を引き受けられないのにだれかと寄り添うことはできない。

このアルバムでリチャード・アシュクロフトはだれよりもまず自分のために歌っている。ひとつひとつの歌を、まるで慈しむように、自らに向かって歌いかけている。それはおそらく彼がまず自分自身のためにこの音楽を必要としたからだし、そうでなければこのアルバムをだれかと分け合うことすらできないと感じたからではないだろうか。どうしようもなく「歌」にひかれて行く「自分=あなた」のために歌われたアルバム。


THE GEOMETRID Looper
7松

ロックというのは宿命的に「大仰さ」から逃れがたい音楽だ。ビート、服装、音量、表情、発声、スピード、言葉遣い、そうしたものすべてが過剰であることによって僕たちに訴えかけようとするなら、ロックは初めから大仰であるように作られるのだとさえ言えるかもしれない。ピート・タウンゼントが腕をグルグル振り回しながらジャンプを決めた一瞬、ロックの本質はその滑稽なまでの大仰さにこそあると直感的に理解できるだろう。

だが、ロックの大仰さはただの様式美としてそこにあるのではない。それを僕たちが「カッコいい」と感じるのは、それによってカリカチュアされ、増幅されるべきものの写像が僕たちの側にも確かに存在するからだ。そしてその大仰さの核にあるものは、むしろ僕たちの日常生活の中にこそ見出されるもののはずだ。そうであってこそ、そこで戯画化されるものが僕たちのどこかに埋もれた感情を喚起することの理由が分かる。

このへなちょこテクノは、そんなロックの大仰さをひとつひとつはがしながらその核にあるものを何とか見定めようとする試みだと言えるかもしれない。前作から大きく進歩した訳でもなく、むしろある種のワンパターンなのだが、どこまでロックの大仰さを捨て去りながらなおかつその本質を失わずにロールして行くことができるのか、それはつまり限りなく日常に近いところでロックを再発見しようということなのではないだろうか。


NYC GHOSTS & FLOWERS Sonic Youth
8梅

静かだ。恐ろしく静かだ。よくソニック・ユースを指してノイズだと形容されることがあるが、少なくとも言葉の純粋な意味において、ここにあるのはノイズではない。それはまるで極北のように凍てついた、静かで知的で論理的な音楽だ。何かを否定したり何かを破壊したり、そんな営為はこの音楽とは無縁なのだ。サーストン・ムーアはもはや何に対しても腹を立ててはいない。彼はもはや音楽以外の何事かには関心がない。彼にはもう中指を立てる必要がない。

もちろんポップ・ミュージックとの関わりでいえば、この作品はまったく非商業主義的だと言えるかもしれない。ここにはシングルを100万枚売るような3分間のポップ・ソングやロックンロールはないのだから。だが、彼らは商業主義にノーを唱えている訳ではない。彼らは商業主義にも関心はないはずだ。それでもこの作品は世界中のCDショップに置かれ、それを待ちわびた人たちの手に取られることだろう。それで十分だ。商業主義について考える必要などない。

ただ、忘れてはならないのは、この作品が難解な実験性に自閉することを徹底的に回避していることだ。このアルバムはエクスペリメンタルという意味では十分に実験的な作品だが、それにもかかわらずこの作品は開いている。音響的な広がりや先鋭的な実験性とはまったく別の次元で、このアルバムはまったくの静謐そのものであり、聴き手に対してミニマルに開かれたこの音楽体験はソニック・ユースがもはやある種の「自然」とか「環境」に近づきつつあることを示しているのかもしれない。



Copyright Reserved
2000-2001 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@t-online.de