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ポーグスのフロントマンであるシェーン・マクゴーワンの人生を追うドキュメンタリー。監督はジュリアン・テンプル。

僕がマクゴーワンをきっちりフォローしていたのは1997年のソロ・アルバム「The Crock Of Gold」(この映画の原題になっている)までなので、彼の顔を見るのはそれから25年ぶりだが、抜けた歯と眠そうな目、なにを言ってるかわからないトークと独特の笑い方のどれもがさらに洗練されていてまずは安心した。

映画のなかでも言及されているとおり、マクゴーワンは腰の入ったジャンキーでありアルコール依存症である。今や64歳らしいがこの歳まで生きていることの方が不思議であり、車イスに座っているとはいえいちおう生きて動き、会話もまあギリ成り立っているのは自然の神秘というほかない。そして酒を飲み、たばこを吸っている。

彼に限っていえば酒とドラッグで身を持ち崩したのではなく、酒とドラッグのおかげで表現者としての自我を解放することができたのだと思う。因果な商売だが、そういう形でしか才能を形にすることのできないパフォーマーはいる。そういう人はたいてい早死にするのだが、よれよれになりながらも生きながらえて今日もクダを巻いている。ジュリアン・テンプルが映画を撮りたくなるのもわかる気がする。

この映画ではジョニー・デップ(本作のプロデューサーでマクゴーワンの友人)やジェリー・アダムス(シン・フェイン元党首)、ボビー・ギレスピーらが、廃人から二歩手前くらいのマクゴーワンと対話するシーンがストーリーのガイドとして何度も出てくる。そのおぼつかないやりとりのなかにはシェーン・マクゴーワンという人のナイーヴさが全開で見えていて、痛々しいというかせつないというか、それがまさにこの映画の核なのであるが、破滅的で攻撃的な振る舞いの奥にある、それによって守られるべきものの柔らかさ、もろさ、弱さみたいなものが手にとるようにわかるのである。

実際、アイリッシュ・トラッドとパンクを強引に合体させてしまうという今でいえば魔改造みたいな手法で何枚ものアルバム、いくつもの曲を世に残してきた才能は巨大なものであり、それは『Fairytale of New York』(邦題『ニューヨークの夢』)みたいなきれいな曲はもちろんだが、それよりはアイルランドの田舎の果てることのない身内のバカ騒ぎで鍛えられた野卑で下品なトラッド・ソングのやみくもな衝動とかの方によく表れている。それがどういうところから来たのか、この映画を見ればよくわかる。

純粋にみんなで楽しく踊り騒ぐためのフォーク・ソングと、日常の鬱憤を手っ取り早くギターにぶつけるパンクには、直接性、生との距離の近さという点で明らかに相似点があって、もともと相性はよかったはずなのだ。

この映画を見てもうひとつ印象的だったのは、戦中から戦後すぐくらいの、田舎の大家族共同体とか一族郎党で畑を切り盛りするような生活に、1960年代から70年代くらいにかけて一気に都市化の波が押し寄せ、大家族から切り離された若い男女が新生活を夢見てロンドンなどの大都市に出てくるというひとつの典型的なストーリーがイギリスにもあったということ。こうした社会の動きがあったからこそ、マクゴーワンのなかでアイリッシュ・トラッドとパンクは強引に出会い、婚外交渉し、ポーグスという庶子を産み落としたのだ。

もうひとつ感じたのは、イギリスにおけるアイルランド人の立ち位置の微妙さだ。特にイングランドでアイルランド人がどのような扱いを受けるか、頭の弱い田舎者的なキャラとして揶揄の対象になるのはいろんな文学作品でも見られるが、この作品を見ればかなり実感に近いものがわかるだろう。苛烈な戦争の結果1921年にイングランドから独立を勝ち取ったが、清教徒の多い北部は英領に残され、それが戦後のIRAの爆弾闘争につながって行く。そうした社会背景も描かれており、それもまたマクゴーワンの音楽がよって立つひとつの大事な基盤になっていることがよくわかる。

そのナイーヴさゆえにドラッグとアルコールとタバコから抜け出せず、スター・システムのなかで呻吟しながら身を削って「空中に漂っている音楽」を捕まえ続けた、ヘロヘロのジジイには今なにが見えているのだろうか。



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