logo アイヒマンを追え!


ナチス・ドイツで「ユダヤ人問題の最終解決」、つまりユダヤ人を片っ端から強制収容所に送ってガス室で大量虐殺する計画を主導したとされるアドルフ・アイヒマンは、第二次世界大戦後、偽名で潜伏していたアルゼンチンでイスラエルの情報機関モサドに拘束され、イスラエルで裁判を受けた。

アイヒマンがアルゼンチンに潜伏していることを突き止め、その情報をモサドに提供したのはフリッツ・バウアーというヘッセン州の検事長である。自身ユダヤ人であるバウアーが、さまざまな妨害を受けながら、アイヒマンの摘発に執念を燃やすさまを描いたのがこの映画だ。

映画としては食い足りなかったというのが正直なところ。確かにバウアーの周囲には彼の行動をよく思わない者がたくさんいることが示唆されるが、彼の捜査が具体的にどう妨害されたのかということになると、それほどひどい目に遭わされたり、エグい巨悪と戦ったりしたようにも見えないのだ。

まあ、ドイツの当局が自らアイヒマンを拘束しようとせず、モサドに情報を提供するしかなかったこと自体が妨害といえばそうなのかもしれないが、手に汗握るようなスリルはなく、むしろバウアーがどうやってアイヒマンを追い詰めて行ったかが淡々と描かれる実録モノとして見るべきなのかもしれない。

また、ストーリーの横糸となるバウアーの部下アンガーマンとの関わりのエピソードがいかにも取ってつけたようで興趣を削ぐ。アンガーマンは映画化に際して作り出された架空のキャラクターらしいが、こうしたフィクションをムリくり突っこまないといけなかったのも、結局のところ、バウアーが情報を集めアイヒマンの居場所を突き止めて行く過程を描くだけでは映画的に見せ場がなさすぎるということなのだろう。

だが、それではこの映画がつまらないかというとそんなことはない。僕がこの映画を見て最も印象に残ったのは、あれほどナチスを悔いて反省しているように見えるドイツにあって、検察という国家権力や政界、産業界のあちこちに、ナチスの残党やシンパがたくさんいるということである。

ドイツはホロコーストを初めとするナチスの戦争犯罪を厳しく自省し、贖罪したということになっているが、それでは今のドイツにナチス的なるものがまったくないかといえばそんなことはないし、またナチス以前のドイツにナチス的なるものがなかったかといえばそんなこともないのである。

ナチス的なるもの(端的にいえば反ユダヤ主義や排外主義)はもともとドイツ社会に内在しており、ナチスは決してドイツ社会の中の突然変異でも異分子でもなかった。そして、第二次世界大戦に敗れた後もドイツの社会にはナチス的なるものは残り続け、今でも形を変えて潜在している。

それは先に上映された『帰ってきたヒトラー』などを見ても明らかだ。だからこそナチスは政権を取ることができたのだし、ユダヤ人を迫害し戦争を遂行することができた。国民の支持がなければどんな政府も存在することはできない。いかに独裁的、強権的、封建的に見える政府でも、そこにはそれを明示的・黙示的、積極的・消極的に支持し、受け入れる国民がいてこそ成り立つのだ。

この映画では、終戦から間もないドイツの社会にまだナチスの影が濃かったことがよく分かる。日本から見れば、ドイツはナチスと訣別し民主的で開かれた社会を建設したお手本のようでもあるが、実際にはドイツ社会の中にナチス的なるものは根強く残された。そしてそれは現代のドイツの極右、ネオナチに、あるいは世界を覆おうとしている排外主義、反グローバリズムの新しい潮流へと確実に受け継がれているのだ。

それはもともとドイツ社会に、ドイツ人の中に根深く存在するものだ。ナチスはそれを顕在化させただけに過ぎない。過去を清算するとひとことで言うが、実際には人の心の中を簡単に「清算」することはできない。

ナチス的なるもの、排外主義的なものだけを社会から外科手術のように摘出して治療することはできないのだ。なぜならそれは人間の本質的な心性とあまりに深いところで結びついているからであり、それを取り出そうとすれば宿主である社会そのものが成り立たなくなるからだ。どのような社会もそのようなものを内包して成り立っているのであり、ナチスと我々は間違いなく地続きだ。

この映画はアイヒマンを追い詰めるサスペンスとしてより、そのような戦後間もないドイツ社会を知るドキュメンタリーとして価値があるものであり、それだけにアンガーマンを巡る創作部分は蛇足であり不要であった。ただ、この部分に意味があるとすれば、当時のドイツでは同性愛行為が違法だったことを知らしめること。これは意外だった。



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