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法的根拠は何か

実際に東京湾にゴジラが、いや当初段階では当然「何だかよく分からない巨大な生き物」が現れたら、いったいどういうことになるか。これまでの怪獣映画ではほぼ顧みられず、描かれたとしても極めて図式的、便宜的にしか扱われてこなかった政府や社会の対応を、正面から描いたところにこの作品の大きな特徴がある。

「何だかよく分からない巨大な生き物」が突然東京湾に現れ、蒲田に上陸してそこらじゅうをぶち壊し始めたら、まずは首相以下閣僚が官邸に参集し、対策本部的なものを設置するのだろう。官庁が所管に応じて情報収集を行い、事実関係を分析、確認して、どう対応するかを検討、実行するのだろう。

そういうリアルな緊急対応が、実際にはどういう手順で、どんな場で、どんなやり方で進められて行くのか、この映画はそこのところをかなり丁寧に描いて行く。細部においては推測とか事実誤認ももちろんあるだろうが、「たぶんこんな感じだろう」という印象を受けるくらいにはしっかり作りこまれている。

最も面白いのはこの部分である。行政は基本的に法の執行であるから、法に根拠のないこと、法の委任のないことはできない。しかし、現実には往々にして法の想定を超える事態が起こり得る。そうしたぎりぎりの枠の中で、国民の生活ができる限りスムーズに支障なく営まれるように日々調整し、判断するのが政治家や官僚の仕事なのである。

与えられた枠の中で最善を尽くそうとする姿は、時として滑稽で喜劇的である。それはその枠が現実の要請と必ずしも一致しないからだ。それを揶揄するのはたやすい。またそのような対応のアラを探して指弾するのも難しくはないだろう。だが、政治家や官僚の多くは驚くほど仕事に対して誠実であり、勤勉だ。

この映画でも、自衛隊の出動を防衛出動とするか治安出動とするか議論するシーンや、ゴジラ対策関連法の制定、災害緊急事態の布告に言及するシーンが出てくる。これらは、国家権力の発動には法的根拠が必要であることを強く意識した描写である。国家権力の発動とは本質的に面倒臭いものなのだ。

この作品は非常事態において国家意思がどうやって形成され、執行されて行くかというテーマを描いた政治群像劇といってもいいくらいだ。そしてそれは我々の日常が誰にどうやって支えられているのかを雄弁に物語っている。そしてまたその限界をも示している。主権者たる我々国民がこのシステムをどう考えるか、そのことが問われているのは間違いない。

ふだん批判の対象にされやすい政治家や官僚らが、実際には窮屈な枠の中で最善を尽くすべく真面目に誠実に働いている姿がきちんと描かれたことには胸がすく思いがした。

震災の記憶

もうひとつ見逃せないのは東日本大震災の記憶である。ゴジラの最初の上陸で自動車がなぎ払われ、道路を逆流するように吹き飛ばされるシーンはイヤでもあの時の津波の映像を思い出させる。ゴジラがいったん海に去った後のガレキの山も津波の後の被災地の風景そのままだ。暴力的に我々の日常を破壊して行く人知を超えた災厄。

震災で壊滅的な被害を受けたのは首都圏から離れた東北地方だった。しかし、ゴジラが破壊するのは蒲田であり、鎌倉であり、永田町であり、東京駅である。馴染みのある風景があっさりと崩壊するとき、我々は根拠もなく信頼していた日常の永続性が実は極めて脆い基盤の上に築かれた砂上の楼閣に過ぎないことを知る。

首都圏の住人はこの映画を通してあの震災の被害を追体験することになる。この作品は首都圏の、いや「東京の」住人に対して「あの日東北で起こったのはこういうことだったのだ」という告発を突きつけてくる。馴染みのある地名、風景が一瞬で破壊される衝撃、パニック、避難所、地域丸ごとの疎開。これは絵空事ではない。

それはゴジラがいったん海中に姿を消した後、大田区あたりは壊滅的に破壊されながら、日本経済が何事もなかったかのように急速に日常に復帰する描写からも感じられる。例えば阪神大震災の時、神戸の人がリュックを背負ってかろうじて動いている阪神電車で大阪に買い出しに来て、大阪の人が何事もなかったかのようにきれいな服装で普通に行き来しているのを見て衝撃を受けたというエピソードを僕は思い出した。

ゴジラが東京を目指すのは我々のそうした記憶を呼び覚まし、東京の住人にカタストロフを疑似体験させるため、あるいは常にニュースを消費し続ける「東京」を否応なくニュースの当事者にするためだったのかもしれない。だからこそゴジラは多摩川を渡る必要があったのだ。

「半島を出よ」との相似

それにしても、想定していなかった危機の到来とそれに対する政治の対応、アウトサイダーによる救済といったテーマの立て方や道具の使い方は、ある小説を思い起こさせる。村上龍の「半島を出よ」だ。

この作品では、北朝鮮軍が九州に来襲、福岡を占領するところから物語が始まる。事態を受けて緊急対策本部が立ち上げられ、右往左往しながらも何とか対応がなされて行く過程の描写や、特殊な技能を持つアウトサイダーらが独自に対策を立案し最後に外敵を撃退するストーリーは「シン・ゴジラ」そっくりだ。

また、巨大なビルを倒壊させて敵を壊滅させるというヤシオリ作戦そのものもこの小説のクライマックスと酷似している。

監督の庵野英明はもともと「エヴァンゲリオン」の登場人物に村上龍の「愛と幻想のファシズム」の主人公らの名前をつけたり、村上の小説「ラブ&ポップ」を映画化したりと、村上との関わりが深く、「半島を出よ」も当然読んでいるはずである。

仮想現実をあくまでリアルに描くことによって虚構のすごみを裏づける手法や、巨大な破壊、圧倒的な暴力が持つ、我々の日常感覚を超越した「異化」と「浄化」の可能性を物語の動因にする手法などは、庵野が村上から学んだものではないか。ダチュラで東京を死の街にした「コインロッカー・ベイビーズ」も含め、村上龍からの影響、特に「半島を出よ」との直接的な相似は指摘しておきたい。

書き足りない国際政治

一方で僕が物足りなく感じた、あるいは違和感をもったのは、国際政治への言及だ。まず、米国の大統領特使として途中から物語に出てくる石原さとみが違和感あり過ぎ。日本政府の対応の考証が相当精緻なのに比べて、介入する米国の象徴が石原さとみなのはかなり唐突というか荒唐無稽である。

いくら実力主義で若くても登用される国とはいえ、特使があれだけ自由に動き回って勝手にいろいろ決めるのは不自然だ。米国の政治過程については考証が追いついてないか、そこまで書きこんでいると全体が終わらなくなるということなのかもしれない。石原自身の演技や英語交じりの日本語で語る「ルー大柴感」についてはここでは述べないが、正直この映画には「美人ファクター」は不要だったのではないか。

同じことは、ヤシオリ作戦の最後にどうしても24時間の猶予が必要になり、フランス政府に泣きつくところにも言える。総理臨時代行が駐日フランス大使に頭を下げている描写もあったが、ここの「話の早さ」にはかなり端折った感があった。

同様に、ドイツのスパコンを使わせてもらうシーン、国連安保理の決議への言及なども、話がサクサクと動き過ぎて現実感が乏しい。国際政治は国内政治以上にダイレクトな利害のぶつかり合いで、意思形成は容易でないはずだ。日本政府の対応に関する書きこみが丁寧でリアルだっただけに、物語後半からの世界との関わりの描写が従来の怪獣映画レベルの便宜的なものにとどまったのは残念だった。

巨大不明生物が蹂躙したもの

これは怪獣映画なので、純粋に怪獣が暴れるのを見て「すごいな〜」と思っていればいいのかもしれない。しかし、僕がこの映画を見て面白かったのはやはりここに書いたようなポイントで、「要は怪獣が暴れてる映画だけどなんかいろいろ考えちゃうな〜」とか、「ゴジラじゃなくたって、何か緊急事態が起こったらたぶんこんな感じになるんだろうな〜」というのが率直な感想だった。

それはこの映画がそれだけ重層的な見方に耐えられるように丁寧に作られているということだと思うし、だからこそ見た人がそれぞれ異なったポイントに「すごいな〜」と思えるのだろう。

「怪獣」という言葉がなく、海から現れた正体不明の巨大生物を「巨大不明生物」と呼ぶしかない滑稽さは、北朝鮮が発射したアレを「事実上の弾道ミサイルと見られる飛翔体」と呼ぶしかないみたいな現実からはまったく笑えない話だ。笑えないのだが、この窮屈な正確さこそが我々の生活を支えているのも事実で、巨大不明生物が蹂躙したのは、結局のところ、例えば我々の「正常性バイアス」みたいな思考システムそのものではなかったかというのが今のところの考えだ。



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