logo 2005/07/16 MELLOWDROME 2005 / Mellowhead


「Empty hands」は不思議な曲だ。紛れもないメロウヘッドの曲なのに、佐野が歌うと佐野が書いた佐野の曲のように思えてしまう。今、佐野はおそらくこうした曲を自ら書くことはないだろうし、エレクトリックでありながらその背後にある人間の熱のようなものをきちんと伝えるような繊細なアレンジも、今、佐野が取り組んでいる音楽のベクトルとは少しばかり異なったところにある。しかし、佐野がこの曲を歌うと、まさにこれこそ佐野が歌うべき曲だという気がしてくる。「THE SUN」とはまったく異なる場所にありながら、実際には生きられなかったもう一つの並行した「生」のように、こんな歌を自ら作り歌う佐野があってもよかったという奇妙な既視感のようなものに僕は捕らわれる。

それはなぜだろう。逆説的だが、それはおそらくこの曲が佐野本人によって書かれたものではないからだ。

この曲を書いた深沼元昭は佐野から強い影響を受け、佐野を深く敬愛するアーティストだ。その深沼が、「佐野にこんな歌を歌って欲しい」と考えて書いた曲は、佐野本人が書いた曲よりもずっと、僕たちが考える「こうであって欲しい」佐野元春の「像」に近いところにあるのだ。常にファンを裏切り続け、新しい表現を提示し続ける宿命を負ったアーティスト本人より、トリビュートする他のアーティストの方が、時には本人すら気づかないような、本人のパブリック・イメージの背後にあるそのアーティストの本質に迫ってしまうことはカバーなどでもたまにあることだが、深沼は自らの内にある佐野のイメージを丁寧に、誠実になぞることで、僕たちにそんな奇跡を起こして見せた。

この曲で深沼/佐野は失われた世界について歌う。先に知ることのできない答え、始まることもないまま終わった冒険、何も変えられない、超えられないという認識、そうした去来するさまざまな思いを秘めながら、決して思い通りに行かない世界の縁で、それでもこれまでずっと欠けていた最後の欠片を空っぽの手につかみたいと歌うこの曲は、僕たちが佐野の内に信じてきた原風景そのものだ。この曲が佐野自身ではなく、佐野を愛する他のアーティストの手によって書かれ、それを佐野が歌うというこの重層的な構造は、佐野がかつて口にした「イノセンスの円環」を思い起こさせる。このようにして佐野がかつて歌ったイノセンスに関する約束は世代を越えて繰り返され、そしてまた佐野の許へと届けられたのだ。

佐野が「ジグソーパズルの最後の1ピースを君と見つけだすまで」と歌ったとき、深沼は「新しい明日にずっと欠けてた最後の欠片をこの手の中に」と書いた。二つのパラレルワールドで同時に語られたこの恐るべき符合は、佐野元春というシンガーによって架橋された。僕たちはこの二人のアーティストが肩を並べて嬉しそうに演奏するステージを見ることができた。車輪は転がり、ビートは続いて行く。「Empty hands」はメロウヘッドの曲でありながら、紛れもない佐野の曲である。この曲は深沼によって書かれなければならなかったし、佐野によって歌われなければならなかった。すべてはつながっていて、僕たちもまたその円環の中にいるのだ。



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