MANIJU
前作から2年のインターバルでリリースされた17枚めのオリジナル・アルバム。先行シングルとしてiTunes Storeで配信販売された『新しい雨』『純恋(すみれ)』を収録。 パッケージはCDの他に限定でアナログLPが発売されている。また初回限定の「特別編集版」として、アルバムCDの他に「元春レイディオ・ショー特別盤」と題されたラジオ番組仕立てのDJ盤、『白夜飛行』など6曲のビデオ・クリップを収録したDVDを同梱したスペシャル・パッケージも発売された。 「特別編集版」にはボーナス・トラックとして『エコー‐アメリカと日本の友人に』をインターネットからダウンロードするための暗証(ダウンロード・キー)が付属。この曲はポエトリー・リーディングのナンバー。 大半の曲は2016年初から年末までにレコーディングされたもののようだが、『悟りの涙』のみ2017年3月の録音。プロデュースは佐野元春、コ・プロデューサーは大井洋輔。エンジニアは渡辺省二郎、マスタリングはテッド・ジェンセンと、前作と同じスタッフ。アーティスト名義は「佐野元春&ザ・コヨーテバンド」となっている。 ジャケット・デザインも前作と同じStormStudioのピーター・カーゾン。カラフルな花冠をかぶった人物の顔をモチーフにした印象的なカバーに仕上がっている。裏ジャケットには隠し絵がしのばされているという。 アルバム・タイトルの「MANIJU(マニジュ)」は仏教の用語で「摩尼珠」の字が当てられる。単に「摩尼」また「摩尼宝珠」「如意宝珠」とも言われ「意のままに様々な願いをかなえる宝」等と説明されているようだ。 では、その「宝」の中身は何だろう。 このアルバムのモチーフは冒頭の『白夜飛行』と終盤に置かれた『夜間飛行』という、兄弟のような2曲に提示されている。同じ歌詞をタイトルも曲調も異なる2つの曲に仕上げ、アルバムの中で繰り返しその主題を確認する、単なるオーバーチュアとリプリーズでもない、ニュアンスの微妙な違いも含めそれ自体完成した作品として、この2曲はアルバムの中に円環構造を持ちこんでいる。 ここで歌われるのは「気休めのダンス」「浮気な観客たち」そして「野蛮な今」。こうした表現の契機になっているのは、世界を覆うテロリズムやトランプ大統領の誕生、イギリスのEU脱退などに象徴される、世界がいくつかの部分に分断され、異なる範疇の間の対立が先鋭化して行く現代の実相への強烈な違和感と怒りではないかと思う。 思うに任せない日々の不満を抱えて、フェイク・ニュースにたやすく右往左往してしまう「浮気な観客たち」を巻きこんだポスト・トゥルース時代のポピュリズム、不寛容なヘイトが跋扈する「野蛮な今」。それは冷戦が終わるときに僕たちが楽観的に夢見た21世紀とは随分異なった世界だ。しかし、それでもなお、いや、そのような世界でこそ、佐野は「気休めのダンス」に出かけようと僕たちを誘う。 ダンスでシリアスな現実そのものを変革することはできないかもしれない。しかし、それでも、僕たちには毎日をやりくりするための「手に取ることのできる何か」が必要だ。それは僕たちが野蛮な現実とコミットするための重要な手段なのだ。たとえそれが気休めに過ぎなくても、僕たちはステップを踏み続けない訳に行かない。だから佐野はこの曲で僕たちを扇動する、「ダンス!」と。 このアルバムがそうした深刻な世界認識を背景にしていることは他の曲でも表現されている。そこでは佐野の視点はさらにローカルな問題意識に入りこんでいる。そこでのキーワードは繰り返される「あの人」だ。『悟りの涙』『詩人を撃つな』『朽ちたスズラン』『夜間飛行』そして『禅ビート』。5曲もの曲に登場する「あの人」とは誰なのか。 「あの人は押しつけるだろう/君の怒りの涙を踏みにじって」(『悟りの涙』) もちろん、個々の曲を書いたときに佐野の頭の中に浮かんでいた「あの人」はあるだろう。そしてそれを具体的に指摘することもあるいは可能かもしれない。それは、佐野が普天間基地の辺野古移設や所謂共謀罪に関して踏み込んだステートメントを発表したこととも確実に通底しているだろう。 しかしながら、敢えて言うなら、音楽表現として考える時、それは実際には重要なことではない。佐野がここで問題にしているのは個々のテーマにおける党派的な主張ではないし、佐野がやりたいのは「あの人」を指弾することではない。佐野はただ、僕たちを分断し、互いに隔ててしまう僕たち自身の不寛容さに対する苛立ちや、そのように不完全で部分的なコミュニケーションしか持ち得ない僕たちの運命に対する怒りのことを歌っているのだ。 『朽ちたスズラン』で佐野は「いいんだよ、もう忘れよう」と歌う。そこにあるのは決して安易な「赦し」ではなく、僕たちが本質的に抱え込んだ分断と憎悪への静かな怒りであり、それらの根っこが決して僕たちの知らないどこかの誰かによってもたらされたものではなく、僕たち自身の中に予めあったものであることへの深い省察と悔恨に他ならない。それは決してなくすことのできないものであるからこそ、「忘れる」しかないものなのである。 ここにおいて「あの人」は単なる媒介に過ぎないことがはっきりする。それは僕たちが抱え込んだ闇を単に顕在化させるだけの存在であって、本当に危険なものは僕たちの内なる分断であり内なる憎悪なのだ。世界を「いいもの」と「悪いもの」に二分して自らをア・プリオリに「いいもの」の側に置き、自分が勝手に作り上げた「悪いもの」を指弾するだけの安易で幼稚な党派性を超え、自分の内面に降り立ってそこにある分断と憎悪をこそ指さすべきだと佐野は歌っている。 なぜなら、そのような、僕たち自身が生み出した分断と憎悪のために表現空間は窮屈になりつつあるからだ。僕たちは自ら口ごもり、言葉を濁すようになる。だが、僕たちを苦しめているのが僕たち自身に他ならない以上、僕たちは自分たちの内なる分断と憎悪から自由にならなければならない。「自由に唄う/思いのままに/どんな時代も/どんな場所でも」。『蒼い鳥』は幸福の象徴であり、自由の象徴だ。そしてまたいち早く有毒ガスの危険を知らせる鋭敏なセンサだ。 ロックは本来政治的な音楽である。しかし、それは、ロックが、僕たちが宿命的に抱え込んだコミュニケーションの不完全性とそれによって起こる様々な悲喜劇とか、僕たちの泡のような日常の中で浮かび上がる喜び、悲しみ、怒り、悔恨や焦燥とかいったものを直接キックし、僕たちの生身のコミットメントを求める音楽だからだ。ロックは僕たちの生命反応であり生存確認であり、それゆえ政治的なのだ。 僕たちの毎日の仕事やクルマの運転やスーパーでの買い物や溶けかけたアイスクリームやぬるいビールや長い小便や声を殺したセックスが(そしてもちろん気休めのダンスが)、つまりは僕たちの生そのものが政治的であるのと同じ意味でロックは政治的だ。そして、まさにその意味でこのアルバムもまた政治的である。それはこのアルバムが正しくロックであり、僕たちの生のひとつひとつの実相を直接キックしているからである。このアルバムは政治的なのだとすれば、それは矮小な党派性を超克しているからに他ならない。 だが、もちろん、このアルバムの価値はそれだけではない。そうした一切の政治性、高度な思想性をその背後に具えつつも、それをこの上なく現代的でソリッドな、そしてまた正統的でロマンチックな音楽表現に昇華させたことによってこそ、このアルバムは評価されるべきだと僕は思う。 基本的にコヨーテ・バンドのメンバーのみで制作された前作「Blood Moon」の硬質でバンド・サウンドを継承しながら、前作にも増して音楽的な幅は広がり、また奥行きも増した。豊かな表現力を身につけながら、それでもギター・バンドとしてのロックンロールの本質は取り逃がすことがない。バンドが充実した時期を迎えていることがよく分かる。 『新しい雨』『純恋』のようなシンプルでストレートなパワー・チューンから、アルバム「The Sun」を思わせるフュージョン系の『詩人を撃つな』まで、ボブ・ディランを思わせる三連のロッカバラード『朽ちたスズラン』からボードヴィル調の幕間曲『蒼い鳥』まで、曲調の多彩さと、その喚起力を現実の音、現実のビートに換えて僕たちに的確に提示するバンドの演奏力の確かさ、そして佐野とバンドの間での曲想の正確な共有。バンド・サウンドという言葉の意味はそこにある。 特筆すべきは『悟りの涙』。おそらくは特定の時事的なテーマに材を取りながらも、その感情を「寄り添うことしかできないなんて」と内面に沈潜させることで逆にその痛々しさ、生々しさを際立たせる優れたプロテスト・ソングだが、これを井上鑑のアレンジによる流麗なストリングスをフィーチャーしたフィリー・ソウルに仕上げるところに佐野の表現者としての矜持を見る思い。またそれを確かな演奏で下支えするバンドの成長も頼もしい。 さらには『禅ビート』。バンドのオートマティズムによってできたと佐野が説明する通り、シンプルでタイトなロックンロールでありながら、そこにあるのは単線的なビートだけではなく、うねりのようなタメであり、内省的な自身への問いかけである。歌詞のどこにも現れない「禅」をタイトルにしたのは、この曲のこうした自問ゆえか。小松がハイハットを刻まずスネアを両手で叩くことで微妙な音の奥行きを表現していることも見逃せない。 また、このアルバムでは歌い上げるような大サビを持つ曲は少なく、『現実は見た目とは違う』『詩人を撃つな』『朽ちたスズラン』『夜間飛行』など、ベーシックなメロディの繰り返しで情景や情感を喚起して行く手法が多用されており、佐野のソングライティングもまた進化しつつあることが窺われる。 特に『現実は見た目とは違う』では、ポエトリー・リーディングとも歌唱とも違う、まるで祈り、マントラのようなボーカルが試行され効果を上げているし、『マニジュ』ではまるで組曲のような多彩な曲の展開が一種のサイケデリアを感じさせる。こうした、いかに生の実相に深くコミットし、僕たちがその内側に運命的に抱え込んだ困難、アポリアと向かい合うのかという問いかけは、仏教由来のタイトルを冠したこのアルバムにいかにも似つかわしい。 「宝珠」というタイトル、だがそれは、もちろん、このアルバムがまるで打ち出の小槌のように僕たちの勝手な願いを何でもかんでもかなえてくれるという訳ではないだろう。いつだって願いをかなえるのは僕たち自身の仕事であり、宝珠はそのよすがに過ぎない。『スターダスト・キッズ』のテレビCMで佐野がもう一人の自分に光るボールを投げ渡したように、宝珠は今、僕たちに手渡され、僕たちの内にあるものと呼応してこそ光り輝くのだ。 2017-2023 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |