月と街のAidade
月と街のAidade
小沢健二
■ 2026年5月4日(月) 18:00開演
■ 愛知県芸術劇場大ホール
Vocal, Guitar:小沢健二
Drums:白根佳尚
Bass:中村キタロー
Classic Percussion:小竹満里
Cello:稲本有彩
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セットリスト
● いつか僕は〜戦場のボーイズ・ライフ
● ある光
● 愛し愛されて生きるのさ
● ぼくらが旅に出る理由
● カローラIIにのって
● ブルーの構図のブルース
● 指さえも
● 憂鬱(孤独以外のことは)
● 超能力と無限の藍色
● 台所は毎日の巡礼
● 悪女
● 神秘的
● 天使たちのシーン
● 高い塔
● 彗星
● 流星ビバップ
● アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)
● 流動体について
● ぶぎ・ばく・べいびー
● ドアをノックするのは誰だ?
● 強い気持ち・強い愛
● 薫る(労働と学業)
● いつか僕は〜戦場のボーイズ・ライフ
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フリッパーズ・ギターのころからずっと聴き続けてきたがライブは初めて。大好きなのにちょっとウザい、なんかヘンなインストのアルバムとか出すし、音信不通になるし、例えるなら友達のなかでもちょっと変わったヤツで、また帰ってきたら飲みに行ってもいいけどこっちから連絡取ることもないくらいの距離感で、でも音源は全部聴いていた。
僕が60歳、小沢が58歳。僕か小沢かあるいはその両方の事情でもしかしたら次はもうない可能性もそろそろふつうに考えられる年代になって、今回のツアーは行ってみようと思った。東京が取れなかったが連休だし日帰りで名古屋まで弾丸ツアーを敢行。名古屋城見てマンホールカードをもらってスガキヤでラーメンも食べた。
さて、僕のそういうアンビバレントな小沢への感情がなんなのか、ライブのあいだそれをずっと考えていた。いや、曲に入っちゃってる瞬間はもちろんあったが、それが頭から離れなかったといったほうがいいか。同族嫌悪とか近親憎悪なのか、僕がほしいものを手にしていることへの嫉妬なのか、共感的羞恥なのか、愛なのか。
少なくとも今回のツアーで感じたのはそれがとても衒学的で高踏的で啓蒙的だったということ。それが鼻につく人もいるだろう。それが仕様だしこのアカデミー臭さがなくなると小沢じゃなくなる(バラ売りはしてない)のでそれもセットで購入していらないものはこっそり捨てるしかないのだが、この大学の講義みたいなのを小沢はやりたいんだろうなと思った。
もうひとつは自己言及のクドさ。ライブでは過去の小沢のボーカルを実際の演奏に乗せて流しながらそれと現在の小沢が対話するような演出が多用され、そのことに言及するMCも含めて、時空が重なり合う、今の小沢と当時の小沢、それを見ている今の自分と当時の自分、そのしかけに対するメタ認知という多層的、重層的な入れ子構造。手がかかってるしカネもかかってる。チケットが16,000円するのもしかたない。
そう、小沢の音楽を聴くのは彼の入り組んだ自意識/自己愛の迷宮に身を投じるということで、その気恥ずかしさを衒学的な装いとメタ認知で偽装しながら流通させているのが今の小沢のあざといところだと思うのだが、その自意識/自己愛をだれよりももてあましながらそこに耽溺しているのは小沢自身であり、それを僕たちもまた愛してるんだろう。キモっ。
しかし重要なのは、そのような方法論で小沢は「本当のこと」に少しずつ接近しつつあるということだ。『ある光』や『流動体について』みたいな曲でいきなり生の本質をぎゅっとつかむようなことをしながら、言葉の強度を高め、一点突破の機会をうかがいながら、グラデーションの海に揺らぎ、たゆたうこと。生活のなかに祝祭をもちこむこと。生活と祝祭を往来しながら、注意深く考えること、それをやめないこと。
ああ、だから小竹が誇らかに鳴らすチューブラーベルの響きもその文脈で理解できるのではないのか。「祈り、光、続きをもっと聞かせて」とかつての小沢が歌い、そのフレーズに合わせて鳴らされる教会の鐘の音。祈り。光。祝祭。恩寵。慈悲。キーボードの代わりにマリンバ、ヴィブラフォン、そしてチューブラーベルをステージに置く意味はここにある。それは祝祭の、恩寵の顕現なのだ。その続きを僕たちは聞かせることができたのか。
もちろん祝祭の力は生活をまわすためにこそある。だからこそ僕たちは生活に帰って行く。生活があるからこそ祝祭がある。柳田国男が百年近く前に言ったとおり。僕たちは名残りを惜しみながら生活に帰って行く。そこが僕たちのステージだからだ。
思い思い祝祭に酔いながら、僕もまた音楽の力を何度めか思い知った。『流動体』で「パンパンパパンパ・ンパパンパパパン」のクラップができてうれしかった。最初から最後まで泣いていた。
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