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このツアーは初日のさいたま以来二度め。二か月を経て佐野元春は首都圏に還ってきた。2013年2月以来の市川での公演、10年なんてすぐに過ぎてしまう。本八幡は元カノが住んでた街だったなと思いながら、9月だというのに蒸し暑い日曜日、駅前の王将でチャーハンを食べて会場に向かった。 すごく乱暴に結論を言ってしまえば、この日のライブはすごく平常心で楽しめた。だいたいライブに行くと過剰に感情を動かされて二度か三度は泣いてしまうのだが、この日はそんなことはまったくなく、最初から最後まで「はいはい、そういう感じね」という親目線で冷静にみることができたのだ。 もちろん、ライブのあいだじゅうステップは踏んでいたのだし、声を出さずに曲を口ずさんでいたのだし、力いっぱい拍手はしていたのだ。しかし、感極まってなにかがこみあげてくるといったような魂のオーバーシュートはなく、いいライブに立ち会えたというようなとても自覚的な体験がそこにあった。 それはひとつにはこのツアー二度めの参加で、だいたいのフォーマットやセットリストもわかっているということがあったと思う。この後も何度かツアーを見に行く予定があって、「ふむふむ、今回はどんな感じかね」くらいの気持ちで臨んだということは間違いがない。 実際、演奏はこなれ、佐野のボーカルはコンディションのよさを思わせた。ライブ・パフォーマンスとしては初日のさいたまより確実にこなれ、アンサンブルはより確かなものになり、曲の表現意図はより明確に、佐野の歌声はより直接に、僕たちのところまで届いていたいと思う。ツアーを経てステージは成長して行く。それを目の当たりにした。 さいたまのライブ・レビューで、「なぜ今、コヨーテ・バンドとして、新しいマテリアルではなくかつてのナンバーの「再生」に取り組む必要があるのか」は正直釈然としないと書いた。その思いはこのライブでも去らなかった。過去のレパートリーをコヨーテ・バンドと「再定義」しているヒマがあったら、バンドとしての最新のマテリアルに取り組んでほしい、その思いはこのライブを見ても払拭されなかった。 音楽は個人的な体験である。これは僕が40年ちかく前に発見した真理であり、その間、僕は一貫して「Silverboy」というペンネーム、ハンドルネームを使って佐野について書き続けてきた。今この瞬間に空気を揺らしている音楽が、今ここにいる自分のなにをどうキックするのか、音楽の価値はそれ以外にないと思っている。それは個的な体験だ。それはどう「再定義」され得るのか。 この日鳴らされた音楽はもちろん僕が聴きたいと思っていたものだった。佐野はいつものように誠実に、音楽が僕たちの生活のなかに占めることのできる最大限の面積を見せてくれた。幸福な音楽空間がそこにあり、同時に生の意味の問いかけがそこにあった。それを僕たちは見に来た。この日のライブもまた、僕にとって代えがたい体験であった。再定義がどうであれ、そこで演奏され、歌われた曲のひとつひとつは血が通ったものであった。 この夜の皆既月食にちなんで演奏された『紅い月』もよかった。すべてが壊れてしまった世界で、僕たちは紅い月を頼りに道を探す。僕がこの日のライブをどこか冷静に見ることができたのは、もちろんこの日のパフォーマンスが充実していたからだ。ライブはここからどう成長して行くのか。過去のレパートリーの再定義はどこに着地するのか。それはまだ明らかになっておらず、このステージはまだ完成していない、物語は続いて行くと感じた。 残念だったのは会場の音が悪かったこと。低音がモコモコのダンゴで、中高域が全然聞こえてこなかった。極端にいえば会場の外で漏れる音を聴いているような感じ。MCも通りが悪かった。会場なのか、機材なのか、オペレーションなのかはわからないが、それだけがちょっともったいなかった。 2025 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |