夜の科学 vol.65ー夏休みの最後の日曜日
僕にとってはゴメス・ザ・ヒットマンよりは山田のソロを聴いていた時期の方が長いのではないかと思うのだが、山田のソロはインストアなどの小さなイベントでしか聴いたことがなく、ちゃんとしたバンドでのパフォーマンスを見るのはもしかしたらこれが初めてだったかもしれない。 山田のパフォーマー、ソングライターとしての資質が、ゴメス・ザ・ヒットマンでの活動のなかですでにシンガー・ソングライター的なものに収束しつつあったのは作品の流れを見ても納得できるが、バンドの活動がままならなくなるに連れ、スタンド・アローンのスタイルに移行して行ったのは彼にとっても選択の余地のないことだったのかもしれない。 しかし、自分の立ち位置を丸ごと引き受けるしかないソロとしてのサーキットは、結果として山田の表現を強靭なものにしたと思う。そこにはブルースとしか呼びようのない、ガツンとした生の手ごたえのようなものが生まれ、育って行った。大小の歌たちは僕の心をノックし揺さぶった。そのいくつかは僕の生と共振した。 僕にとってこの日のライブはその答え合わせであったのかもしれない。音楽は個人的な経験である。僕は、山田の表現のなにが、僕のなかのどんな光景とフックしたのかを確かめるようにひとつひとつの曲に耳を澄ませた。残像を探すように音楽と記憶を照らし合わせた。かけがえのない瞬間をいとおしむように声を出さずに唇を動かした。 僕にとってこの日のハイライトは『glenville』だった。この曲は山田のソロ・レパートリーのなかで僕がもっとも好きなもの。曲名をプリントした白いスエットシャツだって持っている。 激しい曲でも、アップテンポなポップソングでもない、どちらかといえば淡々とした、暮らしのなかのなんでもない機微を丁寧になぞり、写し取って行くような歌である。「言葉をいくつも飲み込んで」「答えをいくつか保留して」、なにもかもが必ずしも思い通りになるわけではない泡のような日々に、とりあえずの区切りをつけてまたその先へと向かう。そんな時間の連なりに山田は静かなまなざしを向ける。 「届かないものに手を伸ばして」「一縷の望みに目をこらして」、そして「心は穏やかに閉じてゆく」と山田は歌う。全きものはどこかにあり、その残像に僕たちは目をこらしながら、届かない手を伸ばしながら、ままならない今をせっせとやり繰りして行く。それこそが希望であり、そんな希望を僕たちはだれからも見えない自分だけの領域にそっと鎮めてしまいこむ。心は穏やかに閉じて行く。善き哉。 僕は一人で後ろの方の端っこの席に座り、この曲を聴きながらひそかに涙を流した。僕のままならない生、ささやかな悦びや小さないらだち、それらはそこにあってよく、いやむしろそれらがそこにあることにこそ意味があると、山田は歌っているのだ。穏やかに心を閉じること、ひっそりと自分の思いを胸のどこかに沈潜させながら言葉の行方を追い続けること、それが僕たちの営みのもっとも中心的なものであると、この曲を聴くたびに僕は思う。僕にとって山田稔明の音楽の原体験と言っていいかもしれない。 新曲や音源化されていない曲も多く披露され、二枚の新しいアルバムの構想も語られたこの日のライブは、前月に見たゴメス・ザ・ヒットマンのライブとの対比でいえば、もうひとつの世界線みたいな、あり得たふたつの生を同時に垣間見るような、不思議な感覚だった。僕にとって山田のソロは、ゴメス・ザ・ヒットマンのバンド・セットの遠足の前日のような高揚感よりは、もっと個的な思いの近くにある暮らしの歌なのだと思った。 もう少し涼しくなったらまたglenvilleのスエットシャツを着よう。 2024 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |