Smoke & Blue 2017
ビルボードでのシリーズ・ライブ「Smoke & Blue」も2012年以来5年目となった(2013年は実施せず)。今年は名古屋も合わせ東名阪で16回の公演を行った。僕はツアー終盤、東京でのステージを見ることができた。 この場所でのライブを初めて見た2012年には、リラックスしたライブ・レストランで高価な食事をしながらディナー・ショー的なステージを見るというスタイルに強い違和感があった。こういう「大人のロック」的な予定調和、異化よりは同化を動因にした慰撫、慰安は佐野が最も忌避し、嫌悪し、唾棄したものではなかったのか、と。 その違和感の一端は今も去らない。まるでリスナーを選別するかのような敷居の高いロケーションとヴェニュー、高価な食べ物や飲み物、1日2公演の短いステージ、それはいったいロックと何か関係があるのか。風通しの悪い、閉鎖的な仲間内の会合とでもいった居心地の悪さを僕は感じるし、平明さやオープンさといったロックが最も尊重すべき価値とは対極にあるもののように思われる。 僕が佐野を聴き始めたのは高校生だった頃だが、その頃もし佐野がこんな会場でこんなスタイルのライブをしていたら僕は絶対に佐野を好きにならなかった。それは、佐野もリスナーも成長し、成熟したからといって許せるようになるような性質の話なのか。僕にはそうは思えないし、何度見に行ってもどこか落ち着かないヴェニューでありスタイルであることに変わりはない。 しかし、この日のライブを見て、ふだんのバンドとは異なる編成でアコースティックなライブをシリーズとして続けてきたことの「意味」のようなものは少し腑に落ちた感があった。 それは昨年のステージでも演奏されていた『こんな夜には』に顕著だ。原曲『夜のスウィンガー』からアレンジも歌詞も大きく変更し、ダウン・トゥ・ジ・アースなスタイルで演奏されたこの曲は、スタジオ音源としてもリリースされた。おそらく来年発表されるセルフ・カバー・アルバムに収録されるだろう。 1980年代、90年代の曲を、アレンジを変え、場合によっては歌詞も変えて、この2010年代という「現在」に新しくフックさせようとする試み、そしてそれを一時の思いつきではなく、継続的に、意識的にやって行こうという意志が、このシリーズ・ライブの核として、次第に明らかになってきたと感じたのだ。 佐野元春はデビュー当時から例えば「まごころ」や「自由」、「真実」といった既に手垢がついて口にするのが気恥ずかしくなっていた言葉をひとつひとつ拾い上げ、丁寧にその埃を払い、僕たちの生の実感やカウンター・カルチャー的な背景とリンクさせることによって、そこに生き生きとした意味を付与し新しい光景を喚起してきたアーティストである。 そこにおいて佐野が書き、演奏した曲はどれもそのような――オレの歌う言葉はすべてオレが再定義してやるとでもいったような――問題意識に満ちており、そこにはリスナーに語りかけてくる佐野元春自身の個別的な肉声(パロール)がある。それは――仮に意匠こそ時代性を感じさせるものがあったとしても――、時代を超えたものであり、普遍性を具えたものである。 それゆえ、この、曲の「仕立て直し」には意味がある。そしてそれは思いつきで、単発で行われるべきものではなく、佐野のメイン・ストリームの活動と並行し、それと不断に相互参照しつつ日々更新されて行くべきものである。5年目になったこのシリーズ・ライブを見て、こうした試みが定期的に、自律的に行われることの必要性と重要性が実感として理解できた気がした。 しかし、そこで重要なことは、その試みが決して厳しい顔つきで聴く精神修養のような実験的で難解なものではなく、限りなくオープンで、自由で、何よりポップ表現として成立していることである。そこには「お楽しみ」やユーモアの感覚が必要だ。佐野元春の音楽が今の僕たちにハッピーに届くのだとすれば、誰よりも佐野自身がこうしたことに厳しく自覚的であるからに他ならないと僕は思う。 僕たち自身の精神性を現代という困難な時代の諸相と連動させるために、そして佐野の音楽を常に「ライブ」なものにしておくためにこそ、「この曲をこんな感じでやってみるのはどうだい?」とでもいったような稚気が大きな意味を持つ。そのことを僕たちは直感的に分かっている。 この日も意外な選曲があり、新曲の披露があった。このライブが通常のオリジナル・アルバムやツアーとは別のチャネルとして機能することの意味が、5年の歳月を経て定着しつつある。どこかもう少しシンプルな会場でできないものかと思う。 2017 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |