2012.3.28-29 Smoke & Blue Billboard Live TOKYO 『情けない週末』は僕にとって長い間難しい曲だった。この曲を初めて聴いたのはアルバム「No Damage」。ファースト・アルバムより先に手に入れたこのパーティ・アルバムで唯一のバラードであったこの曲は、このアルバムで佐野元春の音楽の魅力に触れた多くのファンの間で、佐野のバラードのスタンダードとして代表曲のひとつに数えられるようになった。 確かに、都市の片隅に自らの居場所を探そうとする若い男女の心情をヴィヴィッドに切り取って見せたこの作品は、初期の佐野のソングライティングの特徴をよく表した佳曲であり、感情移入しやすいオーソドックスなバラードだ。この曲が多くの人の心を捉えたことに不思議はない。 だが、高校や大学時代の僕にとって、この曲はあまりにセンチメンタルに思えた。佐野の音楽の本質は理性のスピードを超えたロックンロールの初期衝動の闇雲な説得力にこそあると考えていた僕には、この曲は甘ったるくまどろっこしい、情緒的なバラードにしか聞こえなかった。そして、それ以上に、佐野の音楽の何ほども知らないような軽薄なにわかファンがこの曲を「名曲」と持ち上げることに我慢ならなかった。 今考えれば、それはこの曲本来の価値とは次元の異なる狭量な考えのようにも思える。しかし、僕にとってこの曲は長い間「情緒によりかかって過大評価されたセンチメンタルなバラード曲」という位置づけの作品であった。 ビルボードライブという親密な空間で、僕たちはいつになくリラックスしながら佐野の音楽を聴いた。ライブでは久しく演奏されたことのないナンバーが冒頭から立て続けに披露され、僕たちは中世の王侯貴族がサロンで宮廷音楽を聴いているような気分になっていた。それは「シンガーソングライターとしての面が前面に出てくるようなセットリストにしたい」という佐野自身の意図が僕たちに伝わったということであっただろう。 意外な曲が次々に演奏される中で、『情けない週末』はライブの終盤、『天国に続く芝生の丘』に続けて演奏された。チェロの優美なイントロですぐにこの曲と分かり、会場からは一瞬歓声が上がるが、それもすぐに静まるとホールには佐野のエレクトリック・ピアノとボーカルだけが広がった。僕たちは固唾を呑み、佐野の一言も、演奏の一音も聴き逃さないように、まるでその曲とともに過ぎて行く時間そのものを慈しむように『情けない週末』という曲に聴き入った。 アウトロが終わり、最後の一音が空中に吸い込まれるように消えた後、最初の拍手が聞こえるまでのわずかな一瞬に、僕はこの曲の本質を見たような気がした。そこにあったのは世界が動きを止める瞬間であり、僕たちが騒がしい世界の隙間から、僕たちの心の中にある懐かしく、美しく、しかしふだんは手に取ることができない何かの姿、あるいはかすかな残像のようなものを覗き見た貴重な瞬間だった。 それはこの曲が僕の中でようやく確かな場所を占めた瞬間でもあった。僕はこの曲を、そのセンチメンタリズムや若さ故の拙さも含めて、都市生活の子守歌として受け入れることができた。死んでる噴水、地下鉄の壁、サイレン、ビルディング、そんな見慣れた都市の風景が僕の中で改めて像を結んだ。都市のどこかに居場所を確保しようとカッコつけたり焦ったり戸惑ったりしているのは僕自身に他ならなかった。 二日連続、一日二公演というハードな日程の中で、佐野は最大限のパフォーマンスを見せてくれた。アルバム「月と専制君主」を踏まえてアコースティックに編曲し直された曲はどれも高い水準にあった。しかし、その中でも『情けない週末』はこの日のハイライトだったと言っていい。 このビルボードライブという会場は、音楽を聴くこと以外の余計な付属物が多すぎて僕は好きになれないし、音楽をこうした閉鎖的で特権的、差別的な空間に閉じこめてしまうことの可否は議論もあり得るが、試みとしては理解できるし、またそういうところでしか奏でられない音楽もあるということだろう。そのことの検証は次の機会にして、今回は『情けない週末』が僕の胸に落ちてきたことを素直に嬉しく受け止めたい。そういうライブだった。 2012 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |