logo 2011.8.11 ニック・ロウ ビルボードライブ東京


今年の夏休みは家族旅行を諦めて家にいるので、何かちょうどいいライブでもあれば見に行こうと思って調べたら、ニック・ロウがビルボードライブ東京で公演することが分かった。「ロック」を聴くにはいかがかという空間のような気もしたが、他ならぬニック・ロウのことでもあるし、そのビルボードがどんなところか見てみたくもあったし、一緒に行ってくれる連れも見つかったので、かなり高いチケット代を払って見に行くことにした。

ニック・ロウのアルバムは全部持っているはずだが、その聴き込み方には正直濃淡があって、曲単位でしっかり頭に入っているものはそれほど多くない。9月に発売予定の新しいアルバムからの曲は分かりようもないが、それ以外にも聴いたことのあるはずの曲は多かっただろうと思う。だが、結論から言えば、知っている、知っていないはどうでもよくなるほど、ライブでの演奏、歌、作品の表現力、説得力は圧倒的だった。

もちろん、「Cruel To Be Kind」「(What's So Funny 'Bout)Peace, Love & Understanding」「I Knew The Bride(When She Used To Rock And Roll)」「Without Love」「Heart」などの代表曲はきちんとやってくれたし、それはそれで楽しめた。しかし、この日のライブで見るべきものは、ひとつひとつの曲を愛情を込めて愛おしそうに、楽しそうに演奏し、歌うニック・ロウというアーティストの現役感だった。

思えばニック・ロウはもともとパブ・ロックの現場から出たアーティストである。パブで酔っ払い相手にノリのいいロックンロールや泣きのバラードを演奏するタフなサーキットから、自分なりの表現というものを少しずつ探し当て、オリジナリティを育んできたプロフェッショナルである。彼の中で音楽は分かち難い自分自身の一部であり、そこには「オレにとって音楽とは何か」といったような面倒臭い理屈は存在しないのではないか。

新しい曲も、古い曲も、実に伸びやかに気持ちよさそうに歌う。それが彼の職業であり、それは聴衆のためのものである。しかし、彼にとって演奏し歌う行為は何よりまず自分自身の悦びであり、おそらくは自己確認であり、それがそこから何を生み出すかということは二の次、三の次なのではないだろうか。そのように彼自身の核に近いところから発する表現だからこそ、そこには作為を超越した説得力のようなものが生まれるのではないのだろうか。

僕にとって、本来ティーンエイジ・ミュージックでありジャンクであるはずのロック表現が、自分自身やアーティストの成長、成熟とどうフックして行くのかというのはずっと考え続けてなお答えの出ていないアポリアである。多くのアーティストが初期衝動や清新さを失いながら旧来のファンに向けてディナーショウ的な予定調和の音楽をデリバリーすることで食いつないでいることをどう評価するのか、「大人のロック」的な懐旧を是とするのか、自分自身も年を食い、新しい音楽が耳に入りにくくなる中で自分自身に問い続けてきた。

この日、ディナーショウ的な予定調和に最も近いとも言えるビルボードというハコでの、ミニマルでアコースティックなニック・ロウのライブは、しかし間違いなく2010年代の音として鳴り、響いていた。何が人の耳を開かせ、何が人を動かすのか。僕はまだそれを言葉にすることができないが、音楽の持つ力、可能性について、大きなヒントを与えてくれるライブだったと思う。



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