logo 2010.11.28 ソウル・ボーイへの伝言 高崎club FLEEZ


ロックンロールは滑稽な音楽である。ドタバタしたビートにうわずったボーカル、不自然なアクション。それは洗練からはほど遠く、明晰さとは無縁の、落ち着きのない音楽だ。僕たちはそんな音楽のいったいどこに惹きつけられるのだろうか。

そのひとつの答えを、僕はこの日、クルマを飛ばして駆けつけた高崎のライブハウスで目撃した。佐野元春はそこで、ロックンロールとは何か、ロック・パフォーマーとしてのスタンダードとはどこにあるのかということを僕たちに示した。

今回のツアーはクラブ・サーキットと称されているが、東京などの大都市ではクラブ、ライブハウスといってもおそらく1,000人以上は入る大会場で(O-EASTは1,300人収容)、実際は立見のホールといった方がいい。そうしたホールでは演奏は広い会場に拡散し、僕たちは時に、自分の頭の上を通り過ぎる音の塊を見送る羽目になる。

だが、この日の会場はキャパシティが450人。会場の前で整理番号を確認していた時の状況からすればおそらく400人以上、満員に近い入りだったと思う。ステージが近く、天井も低いので、固めに作られた音像は余分な空間でグルグル回ることなくそのままストレートにフロアにいる僕たちを直撃した。

例えば『SOMEDAY』のエイトビートを刻み続けるベースや佐野のブルースハープによる間奏、『世界は誰の為に』のサイケデリックなアウトロとコーラス、『Young Bloods』での感極まったようなシャウト、『ぼくは大人になった』での歌詞の間違いや何を言ってるのかよく分からないMCにさえ、そこにはロックが本質的に抱える過剰さが間違いなくあった。

そう、ロックンロールは過剰だからこそ僕たちを惹きつける。やりすぎの滑稽さこそが僕たちをヒットする。二度と再現できない一回性や偶発性を焼きつけるために僕たちは手をたたき、飛び上がり、声を上げる。この日の佐野の近さはそんな「ロックンロールの原理」を僕に思い起こさせてくれた。

もちろん、それは会場の小ささだけの問題ではなかった。物理的な距離の近さによってヒートアップしたオーディエンスのヴァイブレーションが佐野自身にも作用したことは間違いない。考えてみればこうした窮屈な空間で佐野元春のライブを見るのは初めてで、そこにはじかに手に取ることのできるロックの原型があった。

ツアーの半ばでのパフォーマンスを一度見ておきたかったので、思いきって高崎までクルマを飛ばしたのだったが、その価値は十分にあるライブ・パフォーマンスだった。ライブ終盤、所謂「クラシックス」になるほど会場が盛り上がったのはやむを得ないところか。少なくともそこに、僕たちの日常を凌駕して行く祝祭が形作られていたのは間違いない。

セットリストの曲目はツアー初日の渋谷と同じ。但し渋谷では本編のラストに歌われた『アンジェリーナ』がアンコールの最後に回され、本編は1曲少なく『ダウンタウン・ボーイ』で終了した。

印象的だったのは、佐野が『SOMEDAY』を紹介するとき、「この曲は長い時間をかけてみんなの曲になったと思う」と言った後、「でもやっぱり僕の曲だ、どう考えても」と言い足したこと。もちろんそれは佐野のユーモアであり、会場も笑いに包まれたが、僕にはそれがこの曲の特別な意味合いをよく表しているように思えた。そしてそれは、僕たちが佐野の歌を通して自分自身の現在を確認しているのだという認識をさらに確かなものにしたのだった。



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