logo 呉エイジにはこう聞こえた!!


呉エイジといえば名著「我が妻との闘争」で有名な文筆家、探偵小説愛好家であるが、熱心な佐野元春のファンとしても知られており、その縁で20年来の交流がある。僕のサイトで佐野の曲のバージョン違いなどを検証しているが、その中には呉の指摘で判明したものも少なくない。さすが著書が何冊もある人は違うわと思わせる鋭い感覚、冷静な分析力である。佐野元春バージョン違い研究の第一人者と言っても過言ではない。

たとえば、『愛することってむずかしい』はシングル「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」のカップリングとして発表されたオリジナル・バージョンと、その後、「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 限定編集版」に収録されたバージョンとが微妙に異なっているのだが、これを知らせてくれたのが呉であった。そのときのメールがこれである。

「今日気がついたのですが『愛することって〜』を聴いているとき、オヤと思いまして、『おまえの鼻はいつもビジー』の後にシュポーンという景気のいいドラムがmotoシングルスでは入っていたのですが(開始から40秒)限定版では消されています」

ポイントはもちろん「シュポーンという景気のいいドラム」のところである。この形容はよほど鋭敏な感覚と豊かな表現力のあるプロの文筆家でなければ出てこない。このあとなぜこのバージョン違いが生まれたかということについてのまったく根拠のない妄想が延々と続くのだがそちらは残念ながら割愛させてもらう。

その他にも『SHAME』の「VISITORS DELUXE EDITION」に収録された「SHOJIRO MIX VERSION」がオリジナル・バージョンと顕著に異なる点について教えてもらい、まさに蒙を啓かれる思いであった。このときもそのあとに「毎朝のスクランブルエッグを食べてる時に気付いたんだ」みたいな一発でウソと分かる寒い自慢を長々と書き連ねてきたがこちらも残念ながら割愛。

このように佐野の音源に関する鋭い気づきを散発的に書き送ってくれてそれはそれで重宝していたのだが、最近どうも送られてくるネタが「いや〜、そうは聞こえんけどな〜」的な微妙なヤツになり、自分では確信が持てない以上サイトに掲載する訳にも行かず、かといって大御所の意見を無碍にもできず困ることが増えた。

呉の思い込みかもしれないし僕の耳がおかしくなったのかもしれない。あるいはその両方かもしれない(この可能性が高い)。僕も呉も50代、おっさん同士が世間から見れば細か〜い話で「聞こえる」「聞こえない」と自説に固執し青筋立てて世迷い言のような議論とも呼べぬ言い争いをしているのも傍目にはかなりキモい光景だろう。

今回「グラス収録版の『君が訪れる日』の二分十秒あたりから始まるテープ逆回転の素材は、ナポレオン豪華版のハートランド版『愛のシステム』の十秒あたりから流れる逆回転素材と同じなのではないか」というこれも「まあ、そう言われればそうかな〜」みたいな指摘が意気揚々と送られてきたのを機に、僕の主観を交えず、呉がこう聞こえたというならその通り掲載するコーナーを作ろうと思い立った。

どうか全国の同じ沼にハマっているええ歳の同志諸君には是非この「呉エイジにはこう聞こえた!!」を読んでもらい、「いや、これはこうではないか」とさらに議論を混乱させる一石を投じて老後の楽しみを増やして欲しいと思う次第である。

(2021.8.31)


新コーナーに寄せて 呉エイジ

Silverboy氏とは、私が【インターネット】という新たな大地に降り立ってから間もない時期に知り合った、最初期の人物である。
元春でいうところのロンである。この街で君が初めての友だちだったのだ。
彼とは当時流行っていたグラビアアイドルとか、好みの女性とか、愛とか、自由について語り合ったものだった。テレホーダイタイムに。

今回、新コーナーの内容を見て驚いた。あの屈託なく笑いあったあの頃の面影はもうどこにもなく、恐らく向こうは出世したのであろう。私の意見を一旦否定してから留保し、慎重に審査を重ねるべく外部に意見を求めてきた。
昔は無邪気に新しい発見があれば一喜一憂したものだった。彼の瞳に映るタイニーレインボーは消えかかりそうなのである。もしかしたら既に消えてしまったのかもしれない。いや、全ては私だけの幻想で最初から無かったのかもしれない。絶望的な断絶。

時を重ねて、私達は大人になった、ということなのか。
彼の加齢も手伝っているのだろう。愛のシステムのテープ逆回転素材の議論は見事な平行線を描いた。
安易に首を縦に降らなくなってきており気難しい初老の季節に片足が入りかけているのかもしれない。
あの頃の輝きよもう一度。瓦礫の中のゴールデンリング。
Twitterでのメールのやり取りを投げ出し、会話を中断して弁護士(読者)に判断を委ねる様は、まるで熟年離婚のようではないか。

なので皆様からのご意見をお待ちしております。
彼は議論を放棄した。しかし私はサムデイ、まだ彼とはやり直せると思っている。
なぜなら私のボルケイノはまだ、毎朝元気だからだ。

(2021.8.31)


呉エイジ先生にはげましのお便りを出そう → 「呉エイジ 秘密の探偵小説読書日記


CONFUSION』の終盤のアドリブ部分は後年の追加録音ではないか。 2014年にリリースされた「VISITORS DELUXE EDITION」に収録された『CONFUSION』は、アルバムのアウト・トラックである。こんな質の高い曲が未発表のまま残されていたとは、と驚いた。エレクトリック・タンゴとでもいったような曲想、硬質でドライな手ざわり、アルバムに収録されていてもおかしくない佳曲である。どうせ8曲しか入ってないのだからあと1曲くらい入れてくれていてもよかったのだ。

それはそれとして、この曲に関して呉から、

 「この曲、後年手を加えて完成させている。
 終盤、ビッチ、ビッチが当時のボーカル。
 その直後、ピッチにたそがれたユーユーユー。
 ここは追加録音である。
 キー落ちであるにも関わらず声質が当然同じなので、
 違和感なく聴けるが、よく聴いてみれば気付くことが出来るだろう」

というメッセージが届いた。タイトルは「呉エイジ神の耳シリーズ」。ついに「神」を自称し始めた。しかも勝手にシリーズ化。前回『禅ビート』の回にも書いたが、この夏はいろいろあって立てこんでいたのだが、そういうときに「そうでんな」級のネタをバンバン突っこまれてもこちらも厳しかった。暑かったし。

少し涼しくなりようやく心にちょっと余裕ができたので、呉が指摘するところを聴いてみた。なるほど、曲前半のボーカルと、終盤のアドリブ部分は確かに声の質感が若干違うように聞こえなくもない。

この曲は、30周年記念盤の企画をするためにアルバムのマルチをあらためてひもといた際に発見され、渡米してジョン・ポトカーにミックス・ダウンを依頼したということになっている。そのときにボーカルの追加レコーディングが行われたというのはあり得る話である。

なにより、これを聴き分ける呉の野生動物並みの耳には敬服するばかりだ。おそらくわずかな物音にも敏感に反応して身を守らなければならない環境に暮らしているのであろう。同情を禁じ得ない。ウルトラマンは200km先に針が落ちた音まで聞こえるという。日常生活はうるさくて仕方ないだろう。

それにしても「この曲、後年手を加えて完成させている」「ここは追加録音である」「よく聴いてみれば気付くことが出来るだろう」といった大御所然とした上からの断定口調はどうだ。オールド・ファンの鏡である。僕もたいがいエラそうにものを書いているが、内心は間違いを指摘されて炎上しやしないかといつもひやひや、びくびくしている小心者なのである。ここまではっきり決めつけてしまう胆力はない。

確認のしようはないが、呉がそうだというのだからそうなのだろう。神だし。今年の夏は暑く、長かった。

(2024.10.13)


禅ビート』の歌詞、「まるでこのままじゃ理解できない」は文法的におかしいのではないか。 今年の8月は暑かった。そしてまた個人的にもいろいろあった。詳しくは書かないが、認知症のため施設に入っていた父が体調を崩して施設から病院に直行入院し、そのまま亡くなってしまった。80歳も越えていたので亡くなったこと自体は受け入れられても、実際問題として危篤だ、通夜だ、告別式だ、喪主だ、仏壇だ、坊主だと、東京と奈良の実家を往復しながらあれこれ対応するのはそれなりに大変な夏だったのだ(実務は弟がほとんどやってくれた。ありがたかった)。

そんなさなかに呉から届いたメールがこれである。

 「禅ビート
 〜まるでこのままじゃ理解できない〜
 これは文法的におかしいとは思いませんか?

 まるで、は形容するときに使う感じで
 『君のはまるでサーモンの切り身のようだね』
 とギャルに対して言う、みたいな。
 ビート詩人なのに、文法よりも語感を優先させたのでしょうか」

「そうでんな」とそっけない返信をしてしまいそうになったのを踏みとどまって「ご指摘の件、おっしゃる通りですが(文法というより語法かなとは思いますが)、佐野は以前から『君の窓を開けはなたってくれ』みたいなナゾ表現をちょくちょくぶっ込んでくることがあり、むしろそこが詩人の詩人たる所以とも思ってたのですが、そんな感じでコラムにしてみますか?」と丁寧に返した僕はエラかった。

呉への返信では「おっしゃる通り」などと不覚にも媚びてしまったが、手許の大辞林によれば「まるで」は確かに「どのような点から見てもほとんど同じであるさま。ちょうど。さながら。『〜嵐のようだ』『〜子供だ』」という意味で用いられるものの、「下に否定的な意味の語を伴って否定の意を強める。まるきり。全然。『漢字が〜読めない』『〜違う』」という用法もあり、むしろこちらが先に挙げられている。

したがって「まるでこのままじゃ理解できない」という歌詞もまた、日本語的に(文法的にも語法的にも)おかしくはないというのが僕の結論である。

とはいえ呉への返信でも言及したとおり、佐野がたまに意図的にか誤ってか日本語を加工することがあるのは事実で、『世界は慈悲を待っている』のほかにも、『君が気高い孤独なら』では「強く解き放たってやれ」と歌っているし、古くは『SHAME―君を汚したのは誰』で「誰にも傷つけたくない」と歌っている例もある。

まあ、詩人だからこそ既成の語法や文法にとらわれず自在に言葉を操るのもありだと僕は思っていて、こういう佐野語法もまた温かく見守っているのであるが、今回の呉の指摘に関していえば「そういう使い方もあるんですわ」ということになろう。

ところで呉のメールの「君のはまるで〜」のくだりの意味がさっぱりわからないのでだれか詳しく説明してほしい。

(2024.9.7)


Young Bloods』の1985年版オリジナル・バージョンのMVにおいて、0分32秒ごろ(DaisyMusic公式がYouTubeに上げている版)に挿入される外国人らしい男性と男児のカットはやらせではないか。 前回のエントリーで味を占めたのか、呉の中のなにかに火がついたのか、1か月という短いインターバルでメッセージが届いた。「呉エイジにはこう見えた」と冒頭にある。いやもう企画意図もなんもあらへんやん、と思いながら読み進めると、「一箇所、どうしても気になるところがある。それは公園で元春を見ているテイの外人さんのショットだ。どうもカメラの質感も明るさも、その他の映像と違って見える」というのである。

さっそくYouTubeで懐かしの『Young Bloods』のMVをあらためて見てみた。たしかにイントロの途中で外国人らしい親子が1カット挿入されるのであるが、食い入るように見ても「カメラの質感」や「明るさ」が「その他の映像と違って見える」というのがよくわからないのである。

呉はその後も「数日間、あたくしのDMが放置プレイなのですが(笑)」と笑っていないトレースをかけてきたうえ、「外国人親子、明らかに別日っぽいし、カメラのレンズも違うっぽいでしょう」とダメ押し。いったい何が彼をここまで駆り立てるのか、はたして「『今の佐野元春が外でライブをやると、外国人も立ち止まって見ますよ、人気は世界的ですよ』みたいなスタッフの余計なお節介が透けてみえる演出です」とまで言うのである。

そこまで言われてもう一度見てみれば、確かにこの親子の部分の画像がやや解像度が粗い感じはしなくもないが、それはズームしているから仕方ないのではないかとも思え、背景も含めて当職にはそこまでの不自然さは感じられなかったのである。少なくとも「明らかに別日っぽい」とまで言いきる呉の確信の根拠を探りあてるには残念ながら至らず、呉の鋭い観察眼に比べて、おのれの老いた貧しい感受性を恥じるばかりである。

仕事は大変なのであろう、家庭を切り盛りするのにも苦労は多いのであろう、同志よ、それは察する。「何故あのカットを入れたのか、入れない方が良かったのではないか、と長年思っている」というメッセージからは、このシーンに対する違和感が40年にもわたって彼を支えてきたのだろうということも推察される。よかろう、同志よ、ここは「このカットは違和感あるなあ、別日の撮影かもしらんなあ」ということにしておこうではないか。

(2024.7.2)


Young Bloods』のイントロで3回繰り返されるドラムのフィル・イン、オリジナルとライブ・アルバム「今、何処 2023.9.3 東京国際フォーラム」収録のライブ・パフォーマンスとでは順番が異なっているようだがどういうことか。 呉からの「〜は…ではないでしょうか」系の返答に困る詰問が届かなくなり、このコーナーもタイミングを見てシレっと削除しようかなあと思い始めた2024年4月、それを見透かしたかのように新しいメッセージが届いた。以下がその全文である。

「佐野元春、東京国際フォーラムライブテイクで、さよならメランコリア、CDでは13秒からのイントロ、三種類のドラムロール。小松シゲルは何故一番目と二番目の順番を入れ替えたんですかねぇ」

これを読んで「おかずの順番が違う?」と晩ごはんの話みたいな返信をしたオレもどうかしていたが、さらに「おかずの手数、オリジナルは普通→少ない→多いから、進化したライブは少ない→普通→多いになってるので、バランス変えたんですかね」と健康食の話を始める呉もどうなのか。

素人にはなんのことかわからないかもしれないが、『さよならメランコリア』のイントロの6小節め(オリジナルでは13秒)から、3小節続けてドラムのフィル・インが入るところ、オリジナルでは
6小節め タカタタカタ(3拍めと4拍めに一拍三連符を2回)
7小節め タンタンタン(3拍めから4拍めにかけて二拍三連符)
8小節め タントン(3拍めと4拍めのオモテに一打ずつ)
となっているのが、ライブ・バージョンでは6小節めが二拍三連符、7小節めが一拍三連符×2となっていて順番が逆転しているのである。

なるほど、よく聴いていたものである。さすが老兵は死なずというか老いてなお盛んというか、おっさんが細かいことばっかり言ってると若い者には「キモっ」とか言われるから気をつけようと思った。

事実関係は明らかなのであるが、呉の問いかけは「小松シゲルは何故一番目と二番目の順番を入れ替えたんですかねぇ」であり、それはもう小松に訊けとしか言いようがない。メンドくさくなって「意図的なものか単に間違えたのか適当なのか」とだけ返した無礼は許してほしい。マジレスすれば、間違いとか適当とかいうことはないと思うので、小松が判断で入れかえたか佐野が天性のひらめきで指示したかだと思う。

呉から「私の神の耳を讃えるブログ記事、書いてもらわねばなりませんな(笑)」と圧をかけられているので記事化する次第であるが、呉さん、ドラムロールいうのんはおかずのこととちゃうで。

(2024.5.25)


シティチャイルド』の2分13秒前後、シンセのフレーズがミストーンまたはミスタッチではないか。 呉からの連絡が途絶え、平穏な日々を取り戻したと思っていた僕のもとに、TwitterのDMが届いたのは年の瀬、12月中旬のことだった。

「シティチャイルド、サックスに合わせてスクラッチ系のシンセの音が被さる間奏部分、理知的な組み立て方をする元春にしては、ビートルズのオールユーニードイズラブのジョージのギターソロの様に、勢いが余って途中でメロディの構築を放棄しており、なんとも中途半端な印象を受ける。2分13秒前後の箇所がそれだ(新ネタ!)(笑)」

これが全文である。しかし『シティチャイルド』を聴いてもよく分からない。その旨を率直に呉に告げてみたが、返ってきた答えは「音符が読めりゃなぁ(互いに)(笑)」であった。これはもう自分で解読するしかない。

『シティチャイルド』の2分13秒あたりを繰り返し聴いた結果、確かにシンセのフレーズが一度「ファミレミファッミッレッ」と奏でた後、もう一度「ファミレミファッミッ」まで来たところで本来の「レ」音をスカし、拍遅れで調子の外れた音を鳴らしているようにも聞こえる。たぶんこれのことだ。

まあ、ミスタッチなのか、呉が言うように「勢いが余って途中でメロディの構築を放棄」したものかはともかく、京都の人なら「そんなとこまでよう聴いたはりますなあ」とでも言うところである。

しかし呉さん、あのシンセの音は「スクラッチ系」やのうて「オーケストラヒット」いうんや。あとな、2分13秒は完全に間奏終わってボーカル入ってまっせ。

(2021.12.27)


誰かが君のドアを叩いている』のオリジナル3分00秒あたり「清らかな瞳が燃えている」と歌うメイン・ボーカルと、ファルセットのコーラスのバランスについて、シングル盤他のオリジナルではコーラスが大きくフィーチャーされているが、「GREATEST SONGS COLLECTION 1980-2004」収録のバージョン(2分23秒あたり)では、メイン・ボーカルの方が前に出ているのではないか。 呉からTwitterに「2分23秒辺りのコーラスが前後逆になっている」とのDMが入っていた。「前後逆」の意味がよく分からなかった僕はおそるおそるもうちょっと詳しく教えてくれるようにお願いし、その結果、呉がどうも左のようなことを言っているのではないかということが推測された。

「『清らかな瞳が燃えている』は高音パートが目立つミックスが従来の形で、何故か今回は高音パートを埋もれさせ、低音パートを前面に押し出しているのです。あのキツイ高音をギリギリで付いていきながら一緒に歌うのが楽しかったのですが、今回ので、え?となりました。2分25秒あたり、もう一度聞いてみてください。『低っ』ってなりますから」というのが呉の言い分だ。

「知らんがな」と返信したくなるのをグッとこらえ、何度か両方のバージョンを聴き比べてみたものの、この部分に関しては双方のバージョンに際立った差は感じられなかった。

GREATEST SONGS COLLECTION 1980-2004」収録のバージョンは「Radio edit version」というバージョン名が付され、最後のリフレインが終わってアウトロに入るところのサックスのフレーズを一部カットするなど大胆な編集で尺を縮めたショート・バージョンであるが、このコーラスのバランスの部分については呉が言うような顕著な違いは分からない。

呉は一体何を聴いたのか、あるいは我々は異なる世界線にいるのか、それとも僕が加齢で高音域が聞こえなくなっているだけなのか、真相は読者に委ねられたのである。

(2021.9.24)


バイ・ザ・シー』のサビ、「週末は君と街を離れて海辺のコテージ」のあとの「バイ・ザ・シー」と歌う部分が、アルバム「Blood Moon」収録のオリジナルでは佐野のボーカルも入っていたが、2020年にリリースされたコンピレーション「THE ESSENTIAL TRACKS 2005-2020」収録の「2020 mix & radio edit」バージョンではバック・コーラスのみになっていて佐野のボーカルがオミットされているのではないか。 ある日突然、Twitterに「週末は君と街を離れて海辺のコテージ、ここまでは元春のボーカルありますが、次の『バイザシー』はカットされているように聞こえるのですが、どうでしょう」という呉からのDMが入っていた。

早速聴いてみた。まず「THE ESSENTIAL TRACKS」の方を先に聴くと、確かに「バイ・ザ・シー」のところだけ佐野のボーカルがオミットされ、バック・コーラスだけが聞こえるような気がする。

ところが、「Blood Moon」の方を聴いてみると、こちらの方が分かりにくいがこちらも問題のフレーズでは佐野のボーカルはオフになっているようである。この曲のサビはずっと佐野のボーカルに対して男声コーラスが3度上のハーモニーをつけているが、この部分に限っては佐野の声がなくコーラスだけが聞こえる気がするのである。

という訳で、僕はオリジナルも新ミックスもともに佐野のボーカルは入っていない(もともと入っていない)のではないかと思うのだが、こういうケースの常として、聞けば聞くほど分からなくなるということもあり、ちょっと自信がない。

なお、この新ミックスは渡辺省二郎によってギターがやや前に出ている他、オリジナルより微妙にスピードを落として5秒ほどサイズを伸ばすというオペレーションが行われている。これはやはり佐野が指示したのだろうか。

(2021.9.7)


GRASS」収録の『君が訪れる日』の2分10秒くらいから聞こえる「テープ逆回転素材」は「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 限定編集版」収録の『愛のシステム (The Heartland demo version)』の0分20秒くらいに使われているものと同じではないか。 実際に聴いてみたが確かに似ている。しかし、よく聞くと微妙に旋律というか節回しが異なっているようにも聞こえる。これは同じ機材の同じ音色で別々に手弾きしたシンセのフレーズではないかと僕は思う。

テープの逆回転音はサイケデリックに傾倒していた時代のビートルズなども多用した手法であるが、呉が指摘する音は、減衰した音から入って次第に音が強くなり最後にバチンとアタックが来るという逆回転音の特徴が顕著に感じられず、サイケデリックではあるが逆回転の偶然性よりは意図した音楽性を具えているように思われるのである。

一方、呉は「ナポレオンからタイムアウト辺りはダウントゥジアース、生演奏に特にこだわった時期なので、これはシンセの旋律ではなく、リボルバーのような実験精神、この頃のインタビューでもリボルバーへの言及があったかと思います。テープの逆回転素材を作っていたのだと思いたいですね。グラス版の君が訪れる日の最後に一気に逆回転素材が流れますが、その中にも愛のシステムで流用された旋律が混じっているように聴こえるのです」と主張している。

GRASS」のライナー・ノートでは『君が訪れる日』について「テープの逆回転などを使ったサイケデリックなサウンド・エフェクトが印象的」とも書かれており、呉の指摘を補強している。

逆回転なのかシンセの手弾きなのか、二つの曲の素材が同じものなのか違うのか、自信をもって判断し難い。諸兄の意見を伺いたい次第である。

(2021.8.31)



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