logo #76のブルース また明日…


あたしの弟はあたしより10才下でこの秋には30才になろうという、あたしと同世代の男たちが言いたがる「仕事的にはこれから脂の乗るいい年齢」ってやつで、でも本人はそんな自覚はまったくなく日々強まっていく職場でのプレッシャーをやっべえなあ、なんとか逃れないと早い段階で部下とかついちゃうぜ?合コンとかやってる場合か?の視線を浴びちゃったら、おれ独身で楽しいことあんまなくて酒もほどほどにしか飲めないし、遊び行くっつったって今さらこの夏西伊豆行ったところでギャル男と張り合うほど若くねえし、カノジョもいないわけじゃないけどぱっとしない関係でこのままフェイドアウトか?ちゅう状況だから、ああ、ああ、ねえちゃんおれどうすりゃもっと気楽に生きていけんの?なんかこうさあ、おっきなどっかーんとゆ、変化とゆっかそゆのあってもよくね?…と、黒烏龍茶のペットボトルを飲みながら週末の深夜、家族のいる実家の二階の角部屋から、ひとり暮らしをしているあたしあてにそんな電話をしてくるのだった。
弟は、見かけは中肉中背でちょっと色白の優男で、ときどきジム行ったりしてるせいで細マッチョで、営業トークも如才なくこなしているからそこそこ女の子にもモテているようにうつるのだけれど自分では、はあ?なに言ってんの?おれのどこがモテてるわけ?あのさあ、男の言うモテると女の言うモテるって違うわけ、もしかしてねえちゃん40才になってもまだわかってないわけ?それやばいっしょ?まずいっしょ?もういい加減男ゴコロをがしっと掴みとんなきゃさあ、大台だぜ?40才ってさあ、俺らからすんと相当なさあ、は?永作博美?同世代?ほらさあ、そゆとこがねえちゃんだめっしょ?どうしてここで自分とあの永作ちゃんをいっしょくたにすんのかねえ、あれだよ、そゆの、まさかとは思うけど、あっちこっちで言ってねえだろうな?まぢ引きされっからな?気をつけんだぞ?ん?なんか話がとんでね?…と、ごくりと喉を鳴らしながら黒烏龍茶を飲みつつ喋り続ける。
実のところ、弟の電話は何が言いたいのかよくわかんないこともあるのだけれど、きょうだいや親との会話なんて、重要なこともそうじゃないことも、同じ食卓についているわずかな時間の中でぱぱっと話したりするもので、結論があろうとなかろうと、立ってるついでにティッシュとってとかそこのリモコンとってとか、ああそういえばイトコのゆうちゃん来月結婚するんだけどいくらつつむ?でも結婚式どうなるかわかんないんでしょ?結婚相手にボコられて鼻を骨折したみたいだから挙式できないかもってたかこ叔母ちゃん言ってた、いったいどんな結婚相手なのかね?小指あるとかないとか言ってんだよ?この平成のこの時代に、おっそろし、などとリモコンのことも誰かにボコられることも当人にとってはひどく重要なことには違いないはずだけれど同じラインで話をしたりするものではないようなことも家庭の食卓というどんなネタが出てもおかしくない最強の場所ではごくごく普通のことで、内容はあっちこっちにとぶし結論が出ないような世間話になってもそれはそれでおかしくないし実はそんな会話が嫌いじゃないから、食卓がそのまま電話に移行して話している感じがちっとも不自然とは思えない。

おれの姉貴はおれより10才上になるからもう40才になってるはずなのに、小柄で童顔なせいかおよそ40代には見えず、つかそのファッション・センスがねえちゃんが10代のときから変わっていないのがおれ的には信じられないんだけど、ギャルみてえなショーパンとタンクトップとビーサンはいて酒買いに行くこともあるから一緒にいるとわりといらいらする。どうしてかわかんないんだけど、相手がねえちゃんだとおれはのべつまくなし喋っていて、それもだいたいが上からな目線で物を語ってしまいそれも重々承知しながらでもどうしてもその態度がやめらんなくて、またねえちゃんの相槌とかボケが、おれのその俺様何様状態を助長させるツボにはいってくるので、小さい時から「ねえちゃんよう、なにやってんだよう」と言っているような気がする。
ねえちゃんはいつも恋をしてるんだけど、でもそゆ恋が長く続いたことはなくて、そのたびに「だって奥さんいるひとだったから」とか「あたしは努力したのに相手が努力してくれなかった。恋は一方通行だったら時間の無駄でしょ」という理由で、ああそれなら仕方ないねと納得せざるを得ないような内容で、いつもいつもそんなわけないのに本人がそう言うから周囲も押し黙ってそっかあ、なんて感じにしているのもおれは我慢がならないちゅか、なんかずるっこい気がするのだが、ねえちゃんはそんなおれの表情をくみ取り「今、またずるっこしてると思ったでしょ?顔にかいてある。でもね、大人はずるしないと生きていけないんだよ?ずるしないと生きちゃいけないんだよ?」と、およそ子供みたいな表情でそんなことも言う。おれはそんなねえちゃんが、恋が始まるたび少女のように目を輝かして今度こそはって頑張っちゃって、だめになるたび幾晩も泣きぬれてめためたになっているのをさえこさんから聞かされていて、さえこさんちゅうのはねえちゃんの親友でめちゃめちゃ小雪に似ているいい女で、だからっていうわけじゃないんだけどさえこさんの話はおれ正座して聞いても苦にならないくらいじっくり聞き入ってそのすべてに信憑性を感じてしまう、てか、つまりそれはだからっていうわけなんだろうけど。さえこさんによると、ねえちゃんは同性から愛されて同性から心底心配されすぎてそこが強すぎて、いい異性にめぐりあえないんじゃないかしらっていう話で、まぢっすか、うちら家族からするとねえちゃんはなんか、なかなかあれでも本心をあかさないとこあってそれがだめなんじゃないかって話をしてるんすけど、でももしねえちゃんがそんなふうに女友達に愛されてるんだったら、おれらちょっと安心つうか、別に男だけが人生じゃないしってまあ男のおれが言うのも変ですけど、でも男だからこそ言いたいときもあって、自分を安売りするのだけはやめてほしいんすよね、誰とつきあってもいいし、どんな男を好きになってもいいんすけど、なんてことを話す、さえこさんに。

弟は、たぶんあたしなんかよりもこまっかいところの多い性格で、最近は野菜に凝っていて仲良しメンズと練馬の野菜中心のカフェによく出没してるだとか、吉祥寺に新しくできたナントカというオープンテラスのお店のランチがうまいとか、あたしから言わせればその深夜の長電話とか好きな感じも含めてOLみたいだなあとよく思ってしまう、その仕事の愚痴とかも。悪くはないんだけど、これが今の30代の男の本音ってやつだったら、あきらかにあたしよりちょい上の世代の男性、それはつまり弟たちの上司にあたる世代で彼らとのジェネレーション・ギャップたるやその深さは相当なものだからお互いがそこんとこ理解しあっていれば社内営業もスムーズ、社内段取りも的確、になるような気がするのだけれど、それは当人たちが気がつかないといけないものだからあたしは弟との電話でも、そんな指摘をしたりはしない。だいたいが、ふんふんと聞いているだけにとどめておく。OLみたいな弟は自分のカノジョの話よりもさえこの話ばっかして、もしかして弟は本気でさえことどうにかなりたいのかもしれないけど、そんなこともあたしは意地悪く気づかないふりをして、彼の反応を見ている。

姉貴は、おれが電話すると、なあに?ってさも面倒臭そうに開口一番言い、その、な、と、にの間に、あ、をいれてのんびり伸ばした感じが、なあにってなんだよ、今電話すんとまずいわけ?っていらっとしてそういう展開になって、こないださえこさんから聞いたんだけどさ、みたく一番言いたいことはまず置いといてということになり本当は、ねえちゃん元気か?大丈夫か?男と別れて泣いてんだろ?飲みに行こうぜってそれだけを言いたくて電話してんのにそれが言えなくなる。もしかしたら、おれのそんな誘いが気恥ずかしいからねえちゃんのほうでわざとそっけない態度を装っているのか、だとしたら相当な女優だとしか思えないが、天然だとか自然体だとかここまでみんなに言われているひとがそんなことを計算しているとは到底思えず、またそれをやったところで姉弟間でなんのメリットがあるのか意味不明なので、おそらくそんなことはないはずだろう。それで電話の内容は毎回日常の近況話に終始して、姉貴としてはいったい弟はなんの用事があって電話してきたのかしら?と思ってるはずで、姉弟ってお互いのことわかっているわりには肝心な話ができないんじゃないかと思う。肝心な話をしなくていいように、なっているんじゃないかと思う。

弟が前にカノジョが読んでいた詩集の中で印象に残っているセリフがあると言う。どんなの?と聞くと
「約束しなくても また明日会える って始まってさ、約束しなくてもまた明日会えることがどんなにいいことか 約束しなければもう次に会えないという身の上になってみて つくづくよくわかる というもの」
と答えた。約束とか、明日とか、そんな単語を聞きたくなかったなと思うと涙が出そうになった。弟は優しい。でもあの男は優しくなかった。それは本当で、本当はそんなことだけで。

姉貴にあの詩のフレーズを話したら、それ誰の?って聞くから、銀色のっつって、しばらくすると電話の向こうでうぐぐと喉の奥を鳴らしたような音がして、ねえちゃんは泣き出した。
「泣いたってしょうがないことに泣くな」
と言うと、ん、と答えてありがと、と蚊の鳴くような声が返ってきて、おれにしてみれば泣き出したことよりもその蚊の鳴くような心細い寂しそうな本当にたったひとりでそこにぽつんと座っているそんな様子が目に浮かんで、それがなによりも一番やるせなかった。

「ねえちゃん、目をつぶって」
電話の向こうで弟が言う。
「つぶった」
「よし、楽しいことだけ考えろ」
「楽しいこと?」
「そうだ」
「なんだろ」
「どっか行くとかさ、そういうこと」
「うん、わかった」

「楽しいことってばか騒ぎして笑ったりすることだから、ねえ明日うちに来てジンライムでも飲まない?」
ねえちゃんが言う。
「いいよ」
「さえこも呼ぶし」
「ぜってー行くし」
「ふふふ、やな感じ」
「話を聞いてやるんだ、文句言うな」
「わかったよ、じゃ明日」
「うん、明日な」



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