#75のブルース 情けない週末
さびしくてさびしくて、と私は思った。
明け方目が覚めたとき、私はあおむけに寝たままで、ただ泣いた。涙はあとからあとから流れ出て、いつしかそれは号泣となり、声をあげて私は泣いた。
さびしくて、たださびしくて涙は出てくるのだった。
隣に誰かがいないとかそんな種類の寂しさではなかった。何かもっと茫洋とした形の見えない大きな闇のような、とてつもない深い谷底を見たような、そういった種類の寂寥感だった。
ひとしきり泣いたあと、私はベッドから起き上がってキッチンに行き、シンクの上の小さな電気を点け、テーブルの上に置いたままになっていたボトル・ウォーターをごくごくと飲んだ。ふとテーブルの上に目をやると、カレンダーを乱暴にやぶいた裏側に、
「明日の朝は、お弁当いらないかんね」
という息子のメモが書かれて置いてあった。高校生になっても拙い字を書いている息子のその字面を目にすると、またはらはらと涙が出てきた。
「寝る前に言ってくれなきゃ、早くに起きちゃうじゃない」
そうつぶやきながら、息子のその字面を指でたどる。あっという間に16才になった息子。その16年のうちのほとんどを、母親とふたりで生きてきた息子。
明るくてひょうきんで体育の授業と昼休みしか好きじゃない健全で能天気な、私の息子。隣の部屋で寝ている彼の寝顔を見たら、やっとおさまった涙がまたぶり返してきそうだったから、私はメモをそっと置いてボトル・ウォーターだけ持って部屋に戻る。
泣いている原因はわかっている。
明け方の雨音に目覚めたせいだ。
雨の音は人を孤独にさせる。
優しく頭をなでるような音をさせながら、甘く軽やかに温かい様子で包み込む。それらは、孤独というものがなんであるのかすでに知ってしまった大人を容赦なく抱え込んで逃がさない。一定のリズムを保ちながら、きつく意地悪なほど締め付ける。離してほしいと言っても答えない。許してほしいと叫んでも届かない。雨。そして雨。
あの晩も雨だった、と私はぼんやり思い出す。
息子の父親と出会った晩。そうして最後の晩も雨だった。息子の父親が行方不明になった晩。
出会ってから離れ離れになるまでほんの5年の出来事だった。5年。生まれてから読み書きをかろうじてできるくらいのたった数年。その間に私は恋をして、籍をいれ、新しい生命を宿し、生み落とし、何度か引っ越しをし、子供の父親となったひとを失った。本当にあっという間の出来事だった。息子の存在がなかったら、あれはまぼろしだったんじゃないかと思うほどだ。
雨の金曜日の晩、お酒をいただく場所で知り合って、その5年後にぷつりと連絡が途絶えた。そんなことが現実のこととは思えなくて、息子がもう少し小さいとき、私は彼の顔の輪郭を右手でよくさすった。
「お顔、さすっていい?」
息子にそう聞いているときはもうすでに指先が触れているのだけれど、息子は、
「またあ? でもいいよ」
と目をぎゅっとつぶって、母親にされるがままになっている。
「確かめているのよ」
私は毎回決まりきったことを繰り返す。
「生きていることを、確かめているの。悪いことじゃないのよ」
うんうん、わかっているのかいないのか、息子は小さい頭を振ってうなづいてみせる。
「魂はね、」
息子が理解していなくとも、私は言葉を続ける。
「魂は、生き物なんだよ。生きて輝いてるひとの魂が生命、亡くなっても残る魂は、ソウル」
「おかしゃん」
息子は最近言いたがるその呼び方で私を呼んだ。
「そうるって、なに」
「魂の種類のことよ」
「ほいくえんの、うさぎがしんじゃったの。そうしたら、それはそうる?」
「そうね、亡くなったうさぎさんの魂はソウル。うさぎさんはね、お星さまになったんだよ」
ぱちっと目を開けて息子は私を見る。
「おほしさまは、ずっとおかしゃんを、みている」
そんなことを言った。
果たして、あの激しい雨の晩、夫と連絡がとれなくなったあの晩の星の様子はどうだったんだろう。
星になって私や息子を見ていてくれるのなら、それは全然悪いことじゃない。仕方のないことは悪いことではない。私が幼い息子の顔をさすったように、偶然起きてしまった抗えないものは悪いことではない。
けれども、もし「意義を持った」行方不明であるならば、星になったわけではない「生きている」魂を持ってどこかで別の生活をしているのであれば、話はまったく変わってくる。その可能性は、今まで何千回、何万回と私が考えてきたことで、そうして考えては否定したり、結論が出なかったり、つまりはいまでも謎のままで、何もわからないことだった。
それでも、行方をくらました、その行方をくらましたことですべてのひとたちが幸福になるという意味ならば、それも仕方のないことだったのかもしれないと今は思う。
そのかわり、この私と息子の今の生活が幸福である、彼が行方をくらまさなかったならもっともっと圧倒的に不幸だった、という意味ならば、の話だ。
そんなふうに考えていくと、どうしてこの試練は私と息子の元にやってきたのだろう、と思う。
こんなわかりやすい形で寂しさが降りてくるなんて、いったいぜんたいどういう了見で神様は私と息子を導いているんだろう、と思う。導く? いったいどこへ?
雨はまだ降り続いている。時折激しくアスファルトをたたく音がしたかと思うと弱まって、少しづつ朝の気配も運び始める。
息子の父親と一緒にいた時間より、いなくなってからの時間のほうが長くなり、息子の頬を両手で包みこんだ時間もずいぶん遠い話になった。私も息子も、もう充分すぎるくらいこの生活に慣れた。私はときどき恋人ができたりするものの長くは続かず、息子も好きな女の子がいないときはないようだけれど、毎回苦戦しているらしい。
彼はもうおかしゃんとは私を呼ばず、ねえとか、あのさとかそんなふうに言う。
私はベッドに腰掛け、自分と息子の今を思う。
考えても仕方のないことは、もう考えない。あるときから私はそう思うようになった。考えて考えて、何か思い当たったとしても起きてしまった出来事に対して、自分たちができることは何ひとつない。過去を手繰り寄せたところで、なんにもいじれないし、触れることはできない。事実に色はつけない、物語も加味しない、夢も上乗せしない、そうして上書き保存もしない。だから私は雨が降ると泣いてしまうのかもしれない。雨は、ただ透明な、機械的に、愛のない、流れ落とす、ただ流れ落とす、冷たくて、哀しい、もので。けれどもそれは、ずうっと降り続いてるものではなくて。弱くなり、止んでしまうものであって。
明るく、まぶしい、白くて、やわらく、鮮やかな、光を放つ、あの澄み切った天気のほうが1年では多いわけで。濡れてしまったら、また乾いて。
雨宿りは、ほんのいっときのことであって。それが止んだら、人はまた表に走り出していくもので。
いつも。
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